3章-5
屋敷に戻った省吾は、居間のソファに沈み込むように身を投げ出した。
視界の崩壊は止まらない。
天井の精緻な装飾も、壁に掛けられた古い風景画も、今や水に溶かした墨のように輪郭を失っている。
唯一、目の前に立つ愛羅の姿だけが、まるで暗闇に燃える篝火のように鮮明に、かつ残酷なほど美しく浮かび上がっていた。
「……目を開けて、省吾」
愛羅の声は、霧の向こう側から響くように静かだった。
彼女は省吾の正面に跪き、彼が握りしめていた「赤いポケベル」の破片を、無造作に床へと払い落とした。
未来のノイズを放っていたプラスチックは、彼女の魔力に触れた瞬間、力を失い沈黙した。
「未来の毒を飲み込みすぎたのね。今の貴方の神経は、この世界の緩やかな時間(カラー)では満足できなくなっている。……このままだと、貴方の世界は完全に光を失うわ」
愛羅の指先が、省吾の瞼を優しく、慈しむようになぞる。
彼女はいつも通り淡々としていたが、その瞳には、手に入れた獲物を決して手放さないという、深淵のような執着が宿っていた。
「……愛羅、さん。僕は、どうすればいい」
「方法は一つだけ。私の『熱』を、貴方の身体に直接流し込むの。そうすれば、貴方の目は私の魔力を通して、再び世界の色を拾えるようになる」
愛羅は静かに、自分の手首を銀のナイフでなぞった。傷口から溢れ出したのは、人間のものよりもずっと濃く、光を吸い込むような朱色の液体。
それは血であって、血ではない。昭和七十年という偽りの円環を維持するために「あの方」が創り出した、純粋な怪異の核の一部だった。
「これは、貴方をこの世界に繋ぎ止めるための杭よ。……受け入れなさい」
彼女は自分の手首を、省吾の乾いた唇に押し当てた。
流れ込んできたのは、溶けた鉛のような熱と、全身の細胞が歓喜で震えるような強烈な甘美。
味覚を失ったはずの舌が、その瞬間、世界で唯一の「本物」を感知した。
「っ……あ、がぁ……ッ!!」
省吾の背筋に、焼けるような衝撃が走る。
灰色だった視界に、奔流のように「色」が流れ込んできた。
それは本来の自然な色ではない。愛羅の目に映る世界――より鮮烈で、より残酷で、生と死が極彩色で混ざり合った、怪異が見る極彩色の景色だ。
「……見えるわね? 私が見ている世界が」
愛羅は満足げに目を細め、血の滲む手首を隠そうともせずに、省吾の首に腕を回した。
彼女の抱擁は、これまでになく深かった。そこには、省吾を怪物へと変えてしまったことへの後悔などは微塵もない。むしろ、彼を自分と同じ「孤独な高み」へと引きずり込んだことへの、隠しきれない歓喜が滲んでいた。
「……これで、貴方はもう私なしでは、まともに景色を見ることもできなくなる。私の熱が切れるたびに、貴方は再び闇の中へ落ちる。私に縋(すが)り、私を求める以外、貴方に道は残されていないのよ」
彼女の言葉は、淡々とした事実の宣告だった。
しかし、省吾の耳元で囁かれるその吐息は、執着という名の狂おしい熱を帯びている。
彼女は、省吾を愛しているのだ。
けれど、その愛は「対等な人間」へのものではない。
自分の腕の中で壊れていき、自分がいなければ一歩も歩けなくなる「完璧な僕」へと彼を作り替えていくこと。その所有の完成を、彼女は無意識のうちに愛と呼んでいた。
「……それで、いいんです」
省吾は、愛羅の細い背中に腕を回した。
彼女から分け与えられた「極彩色」の中で、自分の右腕がもはや人間のそれではなく、禍々しい黒い樹木のようになっているのがはっきりと見えた。
自分はもう、元の自分には戻れない。
未来を殺し、過去に依存し、愛羅の情動という名の毒を糧にして生きる、この世界の番犬。
「……私の、可愛い掠奪者」
愛羅が、彼の黒い腕を自分の頬に寄せた。
世界から本当の音が消えても、彼女の囁きだけが、省吾の魂を繋ぎ止める鎖となっていた。
その光景を、扉の陰で見ていた霧亜は、漆黒の刀を静かに鞘に収めた。
彼女の六本の尾は静かに垂れ下がり、その瞳には複雑な色が浮かんでいる。
「……結局、あの方と同じことをするのね。愛羅様」
霧亜は、以前のような敵意を省吾に向けてはいなかった。
むしろ、愛羅というあまりに重すぎる「愛」に飲み込まれていく省吾に対し、微かな同情と、同じ主を戴く者としての奇妙な連帯感を感じていた。
「いいでしょう。お前がその腕でこの世界を守り、あの方を支え続けるというのなら。……私が、お前の背中くらいは守ってあげるわ」
霧亜はそう呟くと、音もなく闇の中に姿を消した。