4章-1
4章-1
表鬼門、二見ヶ浦。 かつて倭姫命がその美しさに二度振り返ったと伝わる静かな海岸は、今、おぞましい「未来の残滓」によって埋め尽くされていた。
「……あれは、人間か?」
省吾の声が、吹き付ける湿った海風にかき消される。
夫婦岩を結ぶ大注連縄(おおしめなわ)の下、鏡のように不自然に凪いだ海面から、それらは這い出してきた。
一九九五年のノイズとは、明らかに様子が異なる。
それは、個性を奪われ、記号的な「ヒトガタ」の群れだった。
顔があるべき場所には凹凸がなく、ただひび割れが走っている。
「いいえ。あれは時代の狭間に取り残された想いの成れの果てよ」
隣に立つ愛羅が、淡々と分析する。
彼女の金色の瞳は、上陸してくる数千、数万のヒトガタを、まるで処理すべき不良データのように冷ややかに見つめていた。
ヒトガタたちは波打ち際で次々と起き上がり、カクカクとした不自然な動作で、一九七五年の聖域を蹂躙し始める。
彼らが歩くたびに、白砂は灰色の砂嵐へと変わり、昭和の色彩がデジタルノイズによって削り取られていく。
「下がっていろ、加藤! ここは『こいつ』の出番だ!」
鋭い怒号と共に、護岸に設置された土嚢の陰から重厚な火線が伸びた。
佐々木だ。
彼の手には、この時代の自衛隊が制式採用している頑強な国産小銃―64式7.62mm小銃が握られていた。
ドォォォォォン、ドォォォォォン!!
7.62mmの弾丸が放つ、腹に響くような重低音が二見の空を震わせる。
銃口から吐き出されるのは、通常の鉛弾ではない。
愛羅の屋敷で精製された魔力をコーティングした「銀の弾丸」だ。
一発放たれるたびに、ヒトガタの無機質な肉体は粉々に砕け散り、非人間的な断末魔を上げて消滅していく。
大口径特有の凄まじい衝撃波が、砂浜のノイズごと未来の残滓を吹き飛ばした。
「重々しい音ね。昭和の鉄と、私の呪術。……悪くない組み合わせだわ」
愛羅が、反動を抑え込みながら正確に射撃を繰り返す佐々木を見やり、淡々と、しかしどこか満足げに口角を上げた。
「一九九五年の薄っぺらなノイズなら、この64式で十分叩き潰せる! だが、……あっちから来る【正論(みらい)】の圧力は増すばかりだぞ!」
佐々木は冷汗を流しながら、空になった二十連弾倉を叩き出し、次のマガジンを装填する。
銀の火花が灰色に沈みかけた二見の海を切り裂いていくが、上陸してくるヒトガタの数は減る兆しがない。
それどころか、海面の中央に座す夫婦岩の間から、一際巨大な「鏡」の門が開こうとしていた。
「省吾。佐々木だけでは限界ね」
愛羅が、省吾の右腕をそっと、導くように掴んだ。
彼女の指先から、震えるような執着の熱が流れ込む。
「銃弾は『個』を散らすけれど、貴方の腕は『理(ことわり)』を食らう。行きなさい、省吾。あの夫婦岩の間に開いた鏡を、貴方の指先で叩き割ってきて」
省吾は頷き、重火力の咆哮を背に走り出した。
色彩を失った視覚の中で、佐々木の放つ銀色の光跡と、背後で見守る愛羅の存在だけが、彼が踏みとどまるべき「昭和」の境界線を引いていた。
佐々木が放つ64式小銃の轟音が、鼓膜を執拗に叩く。
省吾は、銀の弾丸が描く曳光弾の軌跡を追い越すように、白砂を蹴った。
色彩を失った視界の中で、夫婦岩の間に張られた大注連縄だけが、逃げ水のような不気味な光を放っている。
「――来るなッ!」
波打ち際でヒトガタの一体が、そののっぺらぼうな顔を歪ませ、ノイズとしか言えない何かを吐き出した。
それはかつての省吾が知る「言葉」ではない。
この時代には存在しないインターネットに蔓延る実態の無い悪意の嵐だ。
省吾は黒く変質した右腕を突き出し、そのヒトガタの胸部を鷲掴みにした。
「……食らえ!」
右腕の黒い血管が激しく脈動し、ヒトガタの輪郭を「質量」として強制的に引き摺り出す。
ヒトガタは一瞬にしてデータの塵へと分解され、省吾の腕の中へと消えていった。
だが、一体を消すごとに、省吾の脳内には自分のものではない記憶が焼き付いていく。
画面をスワイプする指先の感覚、青白い液晶に照らされた孤独な夜、意味を失った「いいね」の数々。
「省吾、止まらないで! 根源はそこじゃないわ!」
背後から愛羅の鋭い声が飛ぶ。
彼女の視線の先――夫婦岩の間、大注連縄の直下に、空間が凹レンズのように歪んだ「鏡」が完成しつつあった。
そこから漏れ出しているのは、一九九五年のノイズよりも遥かに強力な、「正当な進化」という名の圧力だ。
省吾は海へと踏み込んだ。
海水は冷たくなく、まるで揮発したガソリンのように肌を刺す。
鏡の表面には、数万の人間が歩きスマホで無機質に行き交う現代のスクランブル交差点が映し出されていた。
「これが……僕たちが手にするはずだった未来か……」
あまりに便利で、あまりに孤独な光景。
その「正論」に気圧されそうになった瞬間、大注連縄が限界を超えて悲鳴を上げた。
ブツブツと音を立てて藁が千切れ、そこから朱色の飛沫が噴き出す。それはこの世界の境界線を維持してきた「縁」の断絶だった。
「――離さないわよ、省吾!」
愛羅の魔力が、省吾の右腕を通じて爆発的に膨れ上がった。
彼女は遠く離れた場所から、自らの「執着」という重力を省吾に預けている。
彼女にとって、この未来の景色は、自分から省吾を奪い去るための敵でしかなかった。
吾は右腕を、鏡のど真ん中へと突き立てた。
「……僕から、この場所を奪うなッ!!」
パリン、と世界が割れる音がした。
鏡の中に手を突っ込んだ瞬間、省吾の右目には「二〇二四年の伊勢」が見えた。夫婦岩は観光地として整備され、人々は自撮り棒を掲げ、この「昭和七十年」の切実な戦いなど微塵も知らない。
その無垢な未来を、省吾は右腕で「掴み」、力任せに捻り潰した。
「あ、があああああああああああああッ!!」
省吾の右腕から、見たこともない色の雷光が走る。
一九九五年、二〇〇五年、二〇一五年――。
積層された「来るべき時」が、省吾という器を通じて無理やり過去へと還元されていく。
鏡の破片が飛び散り、大注連縄が再び朱色の結界を張り直した。
静寂が戻る。
ヒトガタたちは、拠り所を失って砂へと還っていった。
佐々木は銃口を下げ、激しく肩で息をしている。64式の銃身は過熱し、陽炎のように空気を揺らしていた。
「……やったのか?」
省吾は答えられなかった。
海に膝をつき、自分の右手を見つめる。
黒い血管は今や肩を越え、胸元まで侵食を始めていた。
未来を殺すたびに、彼はこの世界の「柱」となっていく。
「お疲れ様、省吾」
愛羅が波打ち際まで歩み寄り、濡れた省吾の身体をそっと抱きしめた。
彼女の抱擁は、勝利を祝うものではない。
自分と同じ「こちら側の妄執」へと完全に堕ちた伴侶を歓迎するような、深淵の愛だった。
「これでまた少し、私たちの時間は守られたわ。……さあ、汚れを落としに帰りましょう」
愛羅は、省吾の頬に付いた塵を、淡々と、しかし誰よりも愛おしそうに拭った。