序章-3
霧亜との最悪な対面から数ヶ月が過ぎたが、省吾の体は、愛羅から与えられた「核」という名の猛毒を克服できずにいた。
昭和五十年の秋、伊勢の山中にひっそりと佇む進藤邸。
その裏手に広がる竹林は、昼なお暗く、青白い霊気が澱のように溜まっている。
「ハァッ……、ガ、ハッ……!」
静寂を切り裂くのは、省吾の乾いた嘔吐感だった。
竹の幹に縋り付き、胃液を吐き戻す。
枯れ葉の上にぶちまけられた吐しゃ物には、赤黒い血と共に、どろりとした「泥」のような黒い霊素が混じっていた。
体が、内側から自分ではない「ナニカ」に作り替えられていく。
骨が一度砕かれ、より強固な密度で結合し直されるような軋み。
筋肉が異常な引張強度を持って凝縮され、神経の一本一本が熱した針でなぞられるような激痛。
それは「治癒」などという生ぬるいものではない。
人間という種を土台にして、その上に「待ち人」の機能を接ぎ木していくような、暴力的な変質だった。
「あら。まだ吐いているの? 出来の悪い体ね」
竹の葉を揺らし、宵闇を纏った愛羅が姿を現した。
彼女は苦しみにのたうち回る省吾を助けようとはせず、ただその変質の過程を楽しむように、冷徹な観察者の目で眺めていた。
「愛羅……さん。これ、は……僕は、どうなって……」
「適合よ、省吾。あなたの体は、私の核を『異物』として排除しようとしているけれど、核の方はあなたの体を、自分のための『新しい器』として書き換えようとしているの。……頑張って。ここで死んじゃったら、霧亜が喜ぶだけよ」
その言葉を裏付けるように、竹林の深い影から、霧亜が冷ややかな視線を送っていた。
その手には、月光を浴びて青白く光る一振りの小刀が握られている。
「愛羅様。いつまで待つのですか。いっそ私が、その不完全な器を解体して、核を回収して差し上げます。この男に、あの方の破片を宿し続ける資格はありません」
「ダメよ、霧亜。この子はあの日、私の核を『掴んだ』。概念を実体として捉えるその手……そんな人間、何百年ぶりかしら。……ほら、省吾。あそこを見て」
愛羅が細い指で、竹林の奥を指差した。
指し示された闇の奥から、ずるりと「影」が這い出してきた。
それは、かつて神社で省吾を一度殺したモノと同類の、形を持たない下級の待ち人だった。
何かの怨念か、あるいは忘れ去られた執着が、この書き換えられた世界の歪みによって形を得た泥の塊。
「ひ……っ」
「殺しなさい。今のあなたの力なら、ただ触れるだけで終わるわ」
愛羅の命令は、抗いようのない重圧となって省吾の背を押した。
省吾は震える足で立ち上がり、迫りくる化け物を凝視する。
その瞬間。 右目の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
世界の色彩が反転する。
竹林の青さは消え、化け物の泥の体も半透明な影へと変わる。
そして、その影の胸のあたりに、脈動する「歪な光の澱み」が浮かび上がった。
――あれだ。あれが、核だ。
省吾の思考が加速する。
十歳そこそこの少年の速度ではない。
爆発的な筋力の連動。省吾は一歩踏み込むと、化け物の懐へと飛び込んだ。
「捕ま……えた」
右手が、化け物の胸に触れる。
本来、霊体とはすり抜けるものだ。
だが、省吾の指先が触れた瞬間、化け物の霊気は「固い粘土」のように凝固し、逃げ場を失った。
省吾はその実体化した核を、ぎり、と握りつぶした。
絶叫も、断末魔もなかった。
手の中で何かが弾ける確かな感触と共に、待ち人の体は一瞬で崩壊し、省吾の手の中には、真っ黒な煤(すす)のような灰だけが残った。
「ふふ……。素晴らしいわ、省吾」
愛羅が歩み寄り、煤で汚れた省吾の顔を、まるで宝物に触れるように優しく拭う。
「あなたはもう、ただの人間には戻れない。私の半身として、この狂った昭和の夜を歩いていくの。……嬉しいでしょう?」
省吾はその問いに答えることができなかった。
ただ、手の中に残った「命を握りつぶした生々しい感触」だけが、鉄錆のような不快な味となって口の中に広がっていた。
それから、数年の月日が流れた。
表向き、省吾は「進藤家の遠縁」として、普通の学校に通う学生として振る舞った。 だが、その裏側では、愛羅のもとで「夜の作法」――すなわち、待ち人を屠り、隠蔽し、生き残るための術を叩き込まれ続けた。
中学を卒業し、高校に入学する頃、省吾の変質は一段落を迎えた。
彼の肉体は、一見すれば178cmの細身の青年に過ぎない。
しかし、その内実、身体能力はとうに人間を辞めていた。
そして、眼帯で隠された右目は、闇に紛れるどんな怪異の核をも、その位置と弱点を正確に見抜くようになっていた。
内閣府直属の佐々木 義人(ささき よしと)が、進藤邸の重い門を叩くようになったのも、その頃のことだ。
「加藤くん、頼む。これは警察や自衛隊じゃどうにもならない。君の『手』じゃないと、この核は処理できないんだ」
佐々木が持ち込む、国家の機密に触れるような「特殊な案件」。
それらを淡々とこなし、返り血で汚れた手を洗面台で洗うたび、省吾は鏡を見る。
そこには、少しずつ人間らしい表情を失い、無機質な硝子玉のような瞳を持つ自分の姿があった。
心臓は、二つある。
一つは、あの日、神社の裏山で止まったはずの、臆病で、温かな人間の鼓動。
もう一つは、愛羅から譲り受けた、終わりのない夜を生き、冷たく脈打つ、待ち人の核。
二つのリズムが重なり合い、省吾という存在を構成している。
「……そろそろ、時間か」
省吾は19歳になった。
昭和七十年。日本は未だに昭和の活気に溢れ、経済は回り続け、人々は「いつか」という漠然とした幸福を待ち続けている。
だが、省吾だけは知っている。
この停滞した世界で、自分だけが確実に、人間としての「明日」を削り取られながら生きていることを。
省吾はスーツに袖を通す。
夜が来る前に、大学へ。
そして夜が来れば、愛羅の牙として。
それが、核を掴む手を持ってしまった青年に課された、逃げ場のない日常だった。