1章-1
1章-1
その街の夜は、剥き出しの欲望と、それを隠しきれない虚無感によって、黄金色と濃紺のツートーンに塗り分けられていた。
昭和七十年。現実の歴史が昭和五十年の地点で何者かによって捻じ曲げられ、枝分かれした果ての姿。
この世界は、狂った歯車が噛み合い続けたまま、終わりなき繁栄を謳歌している。
中心街の空を埋め尽くすのは、巨大なネオンサインの海だ。
原色を撒き散らす看板、空を切り裂くサーチライト、そして最新鋭と言い張りながらもどこか無骨なデザインの国産セダンたちが、排ガスを吐き出しながら夜の動脈を流れていく。
歩道には、肩を並べて歩く仕事帰りのサラリーマンや、華やかな夜会巻きの女性たちが溢れていた。
彼らの笑い声は、歪な経済の成功を祝福するように響く。
しかし、その光り輝く舞台から一歩、あるいは半歩でも足を踏み外せば、そこには深い濃紺の闇が口を開けて待っている。
路地裏の奥、ビルの隙間、街灯の寿命が尽きた公園のベンチ。
そこは「待ち人」と呼ばれる、人ならざる者たちの領分だ。
「……また、これか」
古い雑居ビルの屋上。
加藤 省吾(かとう しょうご)は、手すりに背を預けながら吐き捨てるように呟いた。
足元では、数分前まで「人間のような形」をして彼に襲いかかってきた怪異が、黒い煤となって崩れ落ちていた。
それは意志を持たぬ飢えた獣のような待ち人だった。
核を奪われたその身体は、この世界の理から排斥され、風にさらわれて消えていく。
省吾は右手を無造作に振り、指先にこびりついた感覚を払おうとした。
異形の核――その力の根源を掴み出し、握りつぶした時の感触。それは、硬い硝子を握りつぶしたような不快な抵抗感と、腐った泥が溢れ出したような、ねっとりとした温度が混ざり合ったものだ。
「お疲れ様。相変わらず、無駄のない『収穫』ね、省吾」
背後からかけられた声は、夜風よりも冷たく、しかし熟した果実のように甘かった。
振り返るまでもない。
省吾は前を向いたまま、右目の奥に疼くような違和感を感じた。
彼の右目は、普通の人間には見えないはずの「思念の残滓」を視覚化する。
今、目の前には、声の主が纏う圧倒的な闇のオーラが、揺らめく黒い炎のように映っていた。
「愛羅(あいら)さん……。見物なら、下でやってくれませんか。霧亜が不機嫌そうな顔でこっちを見てる」
ビルの縁に、蝶が羽を休めるような優雅さで腰を下ろしていたのは、進藤 愛羅(しんどう あいら)だった。
二十歳前後の、落ち着いた黒髪の女性。
ゆるくウェーブのかかった髪が夜風に遊ばれ、透き通るような肌は街のネオンを弾いて白磁のように輝いている。
彼女は「夜の待ち人」と呼ばれる、この世界の頂点に近い存在だ。
そして、その傍らに立つのは進藤 霧亜(しんどう きりあ)。
愛羅の従者であり、同じく強大な力を持つ黒狐の化身。
彼女は腕を組み、冷徹な瞳で省吾を射抜いていた。
「あら、霧亜はいつだって不機嫌よ。不機嫌なのが彼女の平常運転なの。ねえ?」
愛羅がくすくすと喉を鳴らして笑う。
霧亜は、その主の言葉に反応することなく、省吾に向かって低く吐き捨てた。
「……愛羅様。この羽虫が核を潰すたびに、貴女の核の匂いが混じって不愉快なのです。主の慈悲をその身に宿している自覚もなく、野良犬のように核を撒き散らす。早く次の場所へ向かいましょう。空気が穢れます」
霧亜の言葉には、隠しようのない殺意と嫌悪が混ざっていた。
省吾はそれを無視した。
慣れっこだった。 十年前、一度死んだ自分を生かしたのは、愛羅が戯れに埋め込んだ彼女の「核」だ。
自分は彼女の所有物であり、彼女の牙である。その事実は、省吾の精神を常に薄暗い檻の中に閉じ込めているが、同時に、彼をこの狂った夜で生き永らえさせる唯一の理由でもあった。
「いいじゃない、霧亜。今夜の彼は、これから始まる『メインディッシュ』の前の、ちょっとした準備運動を終えたところなんだから」
愛羅が立ち上がり、夜の闇に同化するように省吾の隣へ歩み寄った。
彼女の体温は感じられない。
ただ、底知れない深淵の気配だけが、省吾の肌を撫でる。
「今夜の目的は、単なる雑魚の『間引き』じゃないわよ、省吾。内閣府の佐々木さんが、わざわざあなたの大学にまで足を運んで持ってきた案件……面白そうじゃない?」
省吾は黙って頷いた。
佐々木 義人(ささきよしと)。
内閣府直属の特殊事案対策室に所属する、あのお節介な「事務職(自称)」の顔が浮かぶ。
彼が持ち込む話に、まともなものは一つもない。
ガタガタと、激しく車体が揺れる。
昭和の技術の極致を詰め込んだはずの、国産最高級セダン。
しかし、舗装の甘い山道では、その豪華なサスペンションも無力だった。
ハンドルを握るのは、よれよれのスーツを着た、どこか冴えない中年男性――佐々木義人だ。
「悪いな、加藤くん。せっかくの土曜日、大学のレポート書きもあったろうに」
バックミラー越しに、佐々木が申し訳なさそうな、しかしどこか飄々とした笑みを浮かべる。
助手席には、外の景色を眺める愛羅。後部座席には省吾と、窓の外を親の仇のように睨みつける霧亜が座っていた。
「休みなんて、期待していませんよ。それより、そろそろ詳しく聞かせてください。今回の『案件』……ただの幽霊退治じゃないんでしょう?」
省吾の問いに、佐々木は表情を引き締めた。
彼は片手でハンドルを操作しながら、空いた手でグローブボックスから一冊のファイルを取り出し、後部座席へ投げた。
「三重県鳥羽市。入り組んだ海岸線を見下ろす山中に、その洋館はある。大正時代、ある資産家が建てたものだが、持ち主はとっくに他界している。……いや、行方不明と言ったほうが正しいかな。渡良伎 陶冶(わたらぎ とうや)。表向きは高名な考古学者だが、同時にこの世界の理に最も深く関わった男の一人だ」
省吾はファイルをめくった。
色褪せたモノクロ写真の中、蔦に覆われた巨大な洋館が、まるで巨大な墓標のように佇んでいる。
「そこには数十年前から『時が止まった少女』の目撃例が絶えない。当初は、よくある都市伝説の類として片付けられていた。だが、ここ数ヶ月で状況が変わった。洋館の周辺で、下級の『待ち人』が異常に増殖しているんだ。それも、意志を持って襲ってくるわけではない。まるで、巨大な磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、待ち人たちがそこへ集まり、そのまま『個』としての境界を失って溶けていく」
「磁石……のような個体ということかしら?」
愛羅が横から口を挟む。彼女の瞳が、面白そうな獲物を見つけた時のように、薄暗い車内で怪しく光った。
「ええ。報告によれば、その中心にいるのは……人形のような少女だそうです。彼女は何もせず、ただそこに立っている。だが、彼女がそこに『在る』だけで、周囲の霊力密度が臨界点を超え、現実の風景を侵食し始めているんだ。このままでは、あの山一帯が、我々の知る世界から切り離された『待ち人の領土』になりかねない」
佐々木の声には、冗談では済まない重みがあった。
「昭和七十年」という歪な平穏を守るためには、こうした「綻び」を、一般人が気づく前に縫合しなければならない。
それが特殊事案対策室の役割であり、そのための掃除屋が、省吾の役目だった。
「加藤くん。君の右目なら、彼女が何なのか、見えるはずだ。もしそれが、この街の夜の均衡を壊す『特異点』なら――」
「――わかってます。僕が、握りつぶす。いつも通りだ」
省吾は右目を閉じ、まぶたの裏で脈打つ、もう一つの鼓動に意識を集中させた。
胸の奥に埋め込まれた、愛羅の核。
それが、外部から迫る「何か」の気配に反応して、熱を帯び始めている。
山道はさらに深く、暗くなっていく。
都会のネオンが届かないこの場所では、光はヘッドライトの白い光芒のみ。
その光が照らし出すのは、鬱蒼と茂るシダ植物と、異様に太く育った杉の木立。
ここは、昭和という時代さえ届かない、時間の墓場だった。
霧が深くなってきた。
公用車のライトが白く乱反射し、視界を奪う。
やがて、その霧の向こう側に、不自然なほど巨大な影が浮かび上がった。
渡良伎邸。
大正浪漫を象徴するような赤いレンガ造りの建物だが、その表面は厚い蔦に覆われ、まるで巨大な生き物が建物を絞め殺しているようにも見える。
割れた窓ガラスは、内側の暗闇を強調し、家全体が深い溜息を吐いているような錯覚を覚えさせた。
車が止まる。
佐々木がサイドブレーキを引き、グローブボックスから一丁の拳銃を取り出した。
一見、何の変哲もないM1911ガバメントだが、そのスライドには複雑な呪紋が刻まれ、弾倉には銀の弾丸と、待ち人の霊力を中和する特殊な薬品が装填されている。
「ここからは、俺も同行する。だが、本命は君たちだ」
車を降りた瞬間、省吾は肌を刺すような冷気を感じた。
それは単なる気温の低さではない。
空間そのものが、何か巨大な力によって「希釈」されているような感覚だ。
「……気持ち悪い場所ね」
霧亜が、珍しく警戒の色をあらわにして、長い髪を揺らした。
彼女の背後から、紫電を纏った六本の尾が幻視される。
彼女のような高位の待ち人でさえ、この洋館から漂う「気配」には本能的な拒絶反応を示していた。
「待ち人じゃないわね、これは」
愛羅が、いつになく真剣な表情で洋館の二階を見上げた。
彼女の視線の先――バルコニー。 そこに、一人の少女が立っていた。
白いドレスを纏い、動かぬ彫像のように。
月明かりに照らされたその肌は、人間にしてはあまりに白く、そして血色がなかった。
長い睫毛に縁取られた瞳は、目の前の侵入者たちを映しているはずなのに、その焦点は数十年先の未来か、あるいは遠い過去を見つめているようだった。
省吾は右目を開いた。
彼の視界の中で、世界は変質する。
通常、強力な待ち人であれば、その中心には太陽のような、あるいは深淵のような「核」の輝きが見える。
しかし、あの少女がいる場所には、何もない。
輝きもない。
闇もない。
ただ、そこだけが周囲の世界から切り取られたような、完全な「空白」だった。
「人形……」
省吾の口から、その言葉が漏れた。
佐々木が資料に書いていた通りだ。
だが、実物はそれ以上に異様だった。
彼女は、ある狂人が世界の理を書き換えてまで生き返らせようとした愛娘――その失敗作。
記憶はあるが魂がない、精巧すぎる器。
少女の唇が、微かに動いた。
物理的な声として届いたわけではない。
それは直接、脳裏に響く「ノイズ」のようなものだった。
『……私は……わたしに、なれなかった』
その呟きは、絶望ですらなかった。
ただ、長い年月をかけて積もった埃が、風に吹かれて舞い上がったような、淡々とした事実の告白。
自分という存在が成立しなかったことへの、終わりのない嘆き。
「……あの子、自分の核を持っていないわ」
愛羅が、省吾の耳元で囁く。
その声には、珍しく同情とも畏怖ともつかない色が混じっていた。
「持っていないのではない。……あの洋館そのものが、彼女の足りない部分を補うための『外部臓器』になっている。彼女は自分を維持するために、周囲の全てを吸い込んでいるのよ。……省吾、気をつけて。あの子の隣に立てば、お前の核さえも、その空白に引きずり込まれるわ」
省吾は黙って一歩を踏み出した。
アスファルトから土の地面へ。
境界を越えるたびに、右目の疼きが激しくなる。
胸の奥、二つの心臓が、互いに反発し合うように激しく脈打った。
「誰かに作られた、偽物の命……か」
それは自分自身の境遇への自嘲でもあった。
死んだ自分を無理やり繋ぎ止めた愛羅の核。
そして、存在しないはずの魂を求めて、この世界に穴を開け続ける少女。
「……似た者同士だな」
省吾は右手を固く握りしめた。
その指先が、今度は不快な泥の重みではなく、凍りつくような冷たさを予感して震えていた。
洋館の影が、彼らを飲み込むように伸びてくる。
昭和七十年の長い夜は、まだ始まったばかりだった。