1章-2
「……静かすぎるな」
佐々木が運転する公用車のドアを閉めた瞬間、省吾は鼓膜の奥に、水深の深い場所に潜った時のような嫌な圧力を感じた。 三重県鳥羽市。
入り組んだリアス式海岸が複雑な影を落とし、真珠養殖の筏(いかだ)が点々と浮かぶ穏やかな海を見下ろす高台。
そこに建つ渡良伎邸は、周囲の木々さえも呼吸を止めているかのように静まり返っていた。
都会の喧騒、昭和七十年という狂騒的なネオンの光はこの山中には届かない。
届くのは、湿り気を帯びた潮風と、枯れ葉が擦れ合う微かな音だけだ。
「無理もないわ。ここはあのお方が『世界』から切り離し、あの日の中に閉じ込めた箱庭だもの」
愛羅が、喪服のような漆黒のドレスの裾を揺らしながら、錆びついた鉄門をくぐる。
彼女が歩くたび、足元の雑草が黒く変色し、萎れていくのが見えた。
強大な待ち人が放つ霊力の毒が、周囲の生命力を無意識に削り取っている。
その後ろを、霧亜が不機嫌そうに、しかし野生の肉食獣のような油断のない足取りで続いた。
重厚なオーク材の扉は、鍵もかかっていないのに異様に重かった。
省吾が両手で押し開くと、そこには昭和五十年で時を止めた「過去」が、塵のように堆積していた。
廊下を照らす佐々木の懐中電灯の光が、宙に浮遊する埃を白く浮き上がらせる。
それはただの埃ではなく、まるで時間の流れそのものが結晶化して凝固し、この館の中に閉じ込められているかのようだった。
「……ッ、あ」
突如、省吾の右目が鋭い痛みを訴えた。
眼窩の奥で、移植された愛羅の核が不規則に脈動する。
視界が強制的に二重写しになった。
左目は、壁紙が剥がれ、埃を被った無人の廊下を映している。
だが、右目は――そこにあるはずのない、鮮やかすぎる「色彩」を捉えていた。
「どうした、加藤くん。うまく見えないのか?」
「……いえ。見えてます。この廊下、奥に行けば行くほど、道が歪んでいる。……物理的な距離じゃありません」
省吾の右目には、壁や天井から無数の「透明な糸」が血管のように伸び、それらが一点に向かって収束していくのが見えた。
糸の先には、数十年前の活気、ブラウン管テレビから流れる往年の歌謡曲の幻聴、そして、この館の主であった魔術師・渡良伎陶冶の、狂気的なまでの愛情と執着がこびりついている。
この洋館そのものが、死んだ娘を蘇らせるための、巨大な呪術的回路と化していた。
「佐々木さん、これを見てください。……ひどいな」
省吾が指し示したのは、廊下の隅、暗がりにうずたかく積まれた「残骸」の山だった。
懐中電灯の光がそこを照らし出すと、佐々木は眉をひそめ、霧亜は鼻で笑った。
そこにあったのは、精巧に作られた人形の腕、関節、指、そしてガラス製の瞳のパーツだ。
それらはどれも少女の形を模しており、一見すると美しい工芸品のようだが、右目の視界では異なって見えた。
どのパーツも「完成」の一歩手前で、まるで腐った果実のように黒ずんだ霊力が漏れ出している。
「……全部、詩乃(しの)になれなかった残骸ね」
霧亜が、その中の一つ――美しく彩色された少女の顔のパーツを、冷酷に踏みつぶした。
乾いた陶器の割れる音が、館の静寂を暴力的に切り裂く。
「あのお方は、失った娘をこの世に繋ぎ止めるために、何度でも世界を書き換えようとした。神を騙し、理を歪め、それでも『魂』だけは再生できなかった。これはその、果てしない試行錯誤の末に捨てられた、肉体の代替品よ」
愛羅の言葉には、同胞に対する慈悲など微塵もなかった。彼女にとって、待ち人とは「意志」を持つ高貴な存在であり、意志も持たずに過去を反芻するだけの残骸は、路傍の石に等しい。
その時、二階へと続く大階段の踊り場に、ぼんやりとした数人の人影が浮かび上がった。
佐々木が即座に腰のガバメントを抜き、銃口を向ける。
だが、愛羅が白皙の手を伸ばし、その銃口をそっと押し下げた。
「無駄よ、佐々木。彼らはもう、こっち側の人間じゃないわ。撃つだけ弾の無駄よ」
ライトに照らし出されたのは、数日前からこの地方で行方不明になっていた三人の若者たちだった。
彼らは壁に溶け込むように立ち、恍惚とした表情で虚空を見つめている。
瞳の焦点は合わず、その唇には気味の悪い笑みが浮かんでいた。
彼らの耳元には、現代の騒音ではなく、存在しないはずの蓄音機が奏でる昭和五十年の優しい調べが届いているのだろう。
省吾の右目には、若者たちの心臓から伸びる「糸」がはっきりと見えた。
その糸は彼らの生命力を少しずつ吸い上げながら、二階の奥にある『主寝室』へと、血管のように繋がっている。
「……救えないんですか、彼らを」
省吾の声が、怒りで僅かに震える。
「彼らの精神はすでに昭和五十年の幸福な幻影に喰われている。脳が、ここではない別の時間を『現実』だと誤認してしまっているんだ。……無理に引き剥がせば、待っているのは急激な時間の逆流だ。一瞬で老いさらばえて死ぬか、精神が砕けるか。どちらにせよ、死ぬより酷いことになるだろうな」
佐々木の言葉は、冷徹なプロとしての宣告だった。
この昭和七十年という世界そのものが、誰かの身勝手な願いによって歪められた偽物なのだ。
自分も、ここに囚われた若者たちも、その歪みの中で踊らされ、いつかは吸い尽くされる駒に過ぎない。
「行きましょう。……『彼女』が待っているわ。自分では一歩も動けない、可哀想な人形さんが」
愛羅が優雅に、ダンスを踊るような足取りで階段を上り始める。
一段上るごとに、省吾の右目の痛みは増していった。
脳を直接、熱い針でかき回されているような激痛だ。
踊り場の壁に、蔦に覆われた古びた姿見が掛かっていた。
ふと視線を向けた省吾は、その場で凍りついた。
鏡の中に映っているのは、十九歳の自分ではない。
そこには、胸を槍のような怪異の腕で貫かれ、死人のような青白い顔をした、十歳の子供の姿がいた。
その小さな手は、自分の胸を貫いている「化け物の核」を、逃がすまいと必死に掴んでいる。
――ああ、僕はあの時から、一歩も進んでいないんだ。
省吾は鏡の中の「自分」から目を逸らした。
心臓が二つある。
一つは自分のもの、もう一つは、愛羅から与えられた化け物のもの。
その境界線が、この洋館の濃密な霊気によって曖昧になっていく。
「加藤くん、大丈夫か?」
佐々木が心配そうに肩を叩く。
その手の温もりが、わずかに省吾を現実に繋ぎ止めた。
「……大丈夫です。ただ、右目が少しうるさいだけですから」
省吾は右目を強く押さえながら、階段を上りきった。
最上階の突き当たり。
最も深い「糸」が集約されている主寝室の扉。
その向こうからは、かすかなオルゴールの音色が聞こえてくる。
それは、優しく、しかしひどく空虚な旋律。
そして、潮風に乗って届くような、誰かの啜り泣き。
「私は……わたしになれなかった」
扉の向こう側から響く、あの声。
省吾は震える手で扉の取っ手を掴んだ。
この扉を開けた先にあるのは、倒すべき「待ち人」なのか。
それとも、自分と同じ、帰る場所を失った「迷子」なのか。
「……終わらせに来たよ」
省吾は自分に言い聞かせるように呟くと、一気に扉を押し開いた。
そこには、昭和五十年の夕暮れ時のような、琥珀色の光に満たされた異常な空間が広がっていた。