1章-3
重厚な扉が、省吾の力に抗うように鈍い音を立てて開かれた。
その瞬間、肺を焦がすような熱気と共に、鼻を突いたのは古い紙が焼ける臭いと、腐った花の蜜が混じったような、甘ったるい死臭だった。
月明かりが天窓から冷たく差し込む円形の主寝室。
そこは、昭和五十年の夕暮れを永遠にリピートし続ける、停滞した時間の坩堝(るつぼ)だった。
部屋の四隅には、当時流行した家具や雑貨が整然と並んでいるが、それら全てに血のような赤黒い「糸」が絡みついている。
その中央で、白いドレスを纏った少女――詩乃が、壊れた蓄音機の前に座っていた。
針が落ちていないはずの盤面からは、ノイズ混じりの子守唄が絶え間なく溢れ出している。
「……お父様、また、失敗しちゃった」
彼女がゆっくりと振り返る。
その顔は、どれほど高価な磁器も及ばないほどに白く、美しく、そして残酷なまでに無機質だった。
近づかなければ気づかないだろう。
彼女の首筋には、人形であることを証明する細い継ぎ目があり、その琥珀色の瞳は光を反射するだけで、省吾たちを映してはいない。
彼女が見ているのは、ここには存在しない「お父様」の背中だけだった。
「……あ、あ、あ……」
詩乃の口から、掠れた、しかし耳を劈(つんざ)くような不協和音が漏れる。
直後、彼女の背後の空間が「ベリッ」と肉を引き裂くような音を立てて剥がれた。
空間の裂け目から溢れ出したのは、下級の待ち人たちの残骸を、魔術師の執念という針と糸で無理やり縫い合わせたような、歪な巨躯。
それは「父の愛」が産み落とした、世界で最も醜悪な守護者だった。
無数の人間の腕が這いずる脚となり、胴体からは昭和五十年の断片的な記憶――黄ばんだ雑誌、錆びた看板、片方だけの子供の靴――が膿のように漏れ出している。
「……汚らわしい。あのお方の執念が、こんな醜い獣を産んだのね。愛ではなく、もはやただの排泄物だわ」
愛羅が、扇で口元を隠すようにして嘲笑う。
その言葉に呼応するように、蜘蛛のような異形が咆哮した。
それは言葉ではなく、数千人分の悲鳴を同時に重ね合わせたような、脳を直接震わせる雑音となって室内に響き渡った。
「下がってろ、加藤くん!」
佐々木が叫び、タクティカルベストのポーチから、鈍い銀光を放つ特殊な手榴弾を引き抜いた。
それは政府が秘密裏に開発した対怪異用焼夷兵器。
安全ピンを引き抜くと5秒後、内部で高純度の銀粉と、圧縮された聖水が超高温のテルミット反応に巻き込まれ、臨界状態に達する。
「……食らいな、執念のゴミ屑が!」
佐々木の豪快な投擲が、異形の胸元――記憶の膿が溢れ出す亀裂へと吸い込まれた。
直後、室内に太陽が降りたかのような、凄まじい白光と熱波が吹き荒れる。
「ギ、ガアアアアアアアッ!?」
通常の火炎では焼き切れないはずの霊的な「糸」が、聖水を含んだ超高温のプラズマによって一瞬で蒸発していく。
銀の粒子が異形の細胞一つ一つに食い込み、内側からその存在を拒絶するように爆ぜた。
しかし、その凄まじい火力をもってしても、異形の「核」は詩乃の背中を依代として、どろりと赤黒い脈動を強めていく。
「どきなさい、人間。貴方の玩具では、その『執念』は断てないわ」
霧亜が、影を抜けるような速度で踏み込んだ。
彼女の指先が鋭い鉤爪へと変貌し、紫電を纏った一撃が異形の脚を三本同時に切り飛ばす。
しかし、切り離された脚は床に落ちる前に煤となり、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、再び異形の本体へと同化していく。
「……省吾、見なさい。あれがこの館の『核』。あの子の命の代償よ」
愛羅の声が、脳内に氷の楔のように打ち込まれた。
省吾は右目を見開いた。
視神経が焼き切れるような激痛。
視界が真っ赤に染まる中、異形の中心――詩乃の背中と密着し、彼女を支えるように脈動する「何か」を捉えた。
それは、赤黒い脈動を繰り返す、歪な心臓のような核だった。
館中に張り巡らされた「糸」の起点。
昭和七十年という偽りの世界に穿たれた、決して癒えることのない「過去」という名の傷口。
「――やるしか、ないんだ。僕が、終わらせる」
省吾は床を蹴った。
内蔵が浮き上がるような不自然な加速。
彼の中で愛羅の核が激しく共鳴し、人間の限界を超えた機動力を叩き出す。
異形が放つ無数の腕が、汚泥のような霊力を纏って省吾を捕らえようとするが、彼はその腕をあえて足場にして跳躍した。
空中でひるがえる省吾。
最短距離で核へと手を伸ばす。
「ガ、アアアアアア!」
異形の絶叫が、空間を物理的に歪める。
省吾の右手が、核の表面を覆うドロリとした霊力の壁に突き刺さった。
その瞬間、彼の意識は、爆流となって押し寄せた「記憶の濁流」に飲み込まれた。
(詩乃。世界は間違っている。君のいない明日に、何の価値があるというんだ)
(だから、書き換えてあげよう。神に背き、理を捨て、君が笑っていたあの美しい日々の続きを……)
脳裏に流れ込んでくるのは、あの日絶望した魔術師の、吐き気を催すほどの純粋で身勝手な執念。
愛という名の暴力が、省吾の精神を磨り潰そうとする。
「……うるさい……うるさいんだよ! あんたの都合で、彼女を止めるな!」
省吾は喉が千切れるほどの叫びを上げ、記憶の濁流を強引に掻き分けた。
彼の右手に宿る「夜の待ち人」の霊力が、黒い稲妻となって異形の核を物質的に「固定」した。
逃げ場を失った核が、省吾の手の中で絶望的に跳ねる。
「……捕まえた」
指先が、脈動する肉塊に食い込む。
省吾は腹の底から力を込め、異形の胎内からその「黒い太陽」を力任せに引きずり出した。
パリン。
世界から、すべての音が消失した。 省吾の手の中で、黒い核が、耐えきれなくなった硝子細工のように粉々に砕け散る。
直後、巨大な異形の体は形を保てなくなり、文字通り「物語を終えた紙屑」へと変わった。
無数の腕も、怨嗟の叫びも、すべてが煤となって夜の風に溶け、崩壊していった。
静寂が戻った主寝室。 依代としての役目を終えた詩乃が、糸の切れた人形のように床へ崩れ落ちる。
省吾は膝をつき、倒れ込む彼女の体を支えた。
「……ありがとう」
彼女の声は、もう蓄音機のノイズではなかった。
透き通るような白磁の肌が、指先からゆっくりと灰になって、月明かりの中に散っていく。
「私は、わたしになれなかった。……でも、やっと、あの日から進める気がするわ。お父様の夢じゃない、私の本当の……」
詩乃の顔に、人形の造作ではない、年相応の少女の柔らかな微笑が浮かぶ。
それは、魔術師がどれほど世界を書き換えても再現できなかった、魂の輝きだった。
彼女は朝日が昇る前の、最も深い闇の中に、静かに溶けて消えた。
腕の中から重みが消え、省吾の手には、彼女の最期の温もりだけが微かに残っていた。
「……終わったな。これで一件落着、とはいかないが」
佐々木が重い溜息をつき、銃をホルスターに収める。
館全体が、軋んだ音を立て始めた。詩乃という楔を失い、洋館が「昭和七十年の現在」に追いつくための崩壊を始めたのだ。
「さあ、帰りましょう。ここはもうすぐ、ただの廃墟に戻るわ。偽物の夢の跡にね」
愛羅が優雅に背を向け、霧亜がそれに続く。
省吾は立ち上がり、最後に一度だけ、詩乃が座っていた場所を見つめた。
そこには、彼女の最期の言葉が形を成したかのように、一輪のセピア色の花――枯れることのない、硝子細工の花だけが落ちていた。
山を下りる公用車の窓の外には、再び、狂ったように明るい昭和七十年のネオンが見え始めた。
街は何も知らず、歪んだ繁栄を謳歌している。
一人の少女の「終わり」が、この街の平和を守ったことなど、誰も知ることはない。
省吾は右目を閉じ、掌に残る核を砕いた時のしびれるような重みを確かめた。
自分の中に棲む化け物の核。
そして、誰かに望まれてしまった自分という存在。
「……佐々木さん。詩乃は、幸せだったんでしょうか」
「……どうだろうな。だが、彼女を縛っていた呪いは解けた。あとは、残された俺たちがこの歪んだ世界でどう生きるか、それだけだ」
佐々木の言葉に、省吾は答えなかった。
夜はまだ、明けない。
黒塗りの車は、黄金色と濃紺が入り混じる混沌とした街へと、音もなく沈んでいった。
その胸の中で、二つの心臓は、依然として不吉なほど力強く脈動を続けていた。