1章-エピローグ
山道を抜ける黒塗りの公用車は、まるで巨大な墓場から帰還する棺桶のようだった。
車内には、重苦しい沈黙と、僅かな硝煙の残り香が漂っている。
運転席の佐々木は、時折ルームミラーを覗き、後部座席で右目を押さえたまま動かない省吾の様子を伺っていた。
「……生き残った三人の若者たちは、地元警察で『集団失踪後の保護』として処理する手筈を整えた。君が核を潰し、館の支配を断ったおかげで、彼らの主観時間は無理やりだが現在に引き戻されたよ」
佐々木の言葉は、努めて事務的だった。
それが彼なりの、省吾に対する気遣いなのだ。
「多少の記憶障害は残るだろうし、急激な時間の逆流による体調不良もしばらくは続くだろう。だが……まあ、少なくとも朝を迎えることはできる。彼らは自分たちの意志で、昭和七十年の明日を生きる権利を取り戻したんだ」
「そうですか……」
省吾は短く答え、窓の外を流れる暗い街路樹を見つめた。
右手の指先には、まだあの黒い核を握りつぶした時の、氷のような感触が張り付いている。
そして、消えゆく間際に詩乃が見せた、あの微笑。
人形の美しさではなく、綻び、崩れゆく瞬間にだけ宿った剥き出しの「人間」としての光。
それが網膜の裏側に焼き付いて、右目の痛みをより鋭くさせていた。
「ねえ、省吾。あの子の消え際、綺麗だったでしょう?」
助手席で、まるで夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒のドレスに身を包んでいた愛羅が、不意に振り返った。
その瞳は、ダッシュボードのインジケーターやネオンの光を複雑に反射し、本物の猫のように金色の燐光を放っている。
「……綺麗でしたよ。でも、あの子が望んだ結末じゃない。あの子はただ、消えたかったわけじゃないはずだ」
省吾の言葉には、この世界の歪みに対する、やり場のない怒りが混じっていた。
愛羅はそれを聞くと、くすくすと低く、喉を鳴らすように笑った。
その笑い声には、母のような慈しみと、それを遙かに上回る、生かされている者特有の深い諦観が混じっている。
「そうね。あの方は詩乃を愛していたわ。けれど、あの方にとっての愛は、所有することと区別がつかなかった。あまりにも強すぎる愛は、往々にして呪いと見分けがつかなくなるものよ。……私、あの方がまだ『人間』として、ただの父親だった頃を覚えているのよ」
省吾の眉が、微かに動いた。 隣に座る霧亜が、わずかに身を固くし、主(あるじ)の横顔をじっと見つめる。
「夜の待ち人」である彼女たちの起源――。
それは、特殊事案対策室の機密資料にさえ記載されていない、禁忌の領域だ。
「覚えている……? 愛羅さんは、最初からこの姿で、待ち人として生まれたんじゃなかったんですか」
「あら。私だって、最初からこんな素敵なお姉さんだったわけじゃないわよ」
愛羅は細い指先を自らの唇に当て、意味深な笑みを浮かべた。
「昭和五十年。まだ世界が『ひとつ』で、当たり前の明日が当たり前にやってきていた頃。私は、あの洋館で飼われていた、ただの黒猫だった。……詩乃にとても可愛がられていたわ。彼女の膝の温かさを、今でも毛並みの奥で覚えているほどにね」
車内の温度が、ふわりと数度下がったような気がした。
佐々木がハンドルを握る手に力を込め、タイヤがアスファルトを噛む音が強調される。
「娘を失ったあの方は、狂気の中で世界を書き換える儀式を始めた。……いいえ、あれは儀式なんて高尚なものじゃない。ただの駄々っ子の、あまりにも大規模な現実逃避よ。そのための『生贄』の一部として、足元にいた飼い猫を――私を、理から外れた待ち人へと変貌させたのよ」
愛羅は自嘲気味に微笑み、フロントガラス越しに、遠くの夜空を見上げた。
「あの方の名前は、渡良伎陶冶(わたらぎ とうや)。……かつて私を愛し、同時に人ならざる地獄へ突き落とした、哀れな魔術師。この昭和七十年という歪な楽園の、神様になれなかった王様」
その名が口にされた瞬間、省吾の右目が爆発的な熱を持った。
移植された愛羅の核が、かつての主の名という「鍵」に反応し、肋骨の裏側で激しく震えたのだ。
省吾の視界が赤く染まり、一瞬、洋館のバルコニーで立ち尽くす魔術師の、孤独な背中を幻視した。
「渡良伎……陶冶……」
省吾はその名を、呪文のように反芻した。
世界の理を書き換え、死んだ娘を人形として繋ぎ止め、飼い猫を化け物に変えてまで、「あの日」の続きを追い求めた男。この狂った日本の、すべての始まり。
「……その魔術師は、今どこにいるんですか」
省吾の問いに、愛羅はすぐには答えなかった。 ただ、夜の街を飲み込んでいく深い闇を見つめ、どこか懐かしそうに、そして氷のように冷ややかに微笑み続けている。
「さあね。どこにいるのかしら。あるいは、もうこの世界のどこにもいないのかもしれない。でも、心配しなくても大丈夫よ、省吾」
彼女は座席から身を乗り出し、省吾の頬を、柔らかい指先でそっと撫でた。
その指は、ひどく冷たいのに、火傷しそうなほど熱く感じられた。
「この世界が昭和七十年であり続ける限り、貴方はいつか必ず、あの方に出会うことになるわ。……だって、貴方の胸にあるその核は、あの方が最も大切にしていた『猫』の心臓なんですもの。糸は、まだ繋がっているのよ」
公用車が、ようやく市街地へと入った。
視界が開けた先には、何も知らない人々が消費し、謳歌する、狂ったように明るい「夜」の繁栄が広がっていた。
黄金色のネオンが流星のように窓を流れていく。
省吾は愛羅の手を静かに振り払い、右目を閉じた。
掌に残る核の重みは、すでに消えていた。
だが、胸の奥で刻まれる二つの鼓動は、かつてないほど激しく、互いを拒絶しながらも惹かれ合っていた。
「……佐々木さん」
「なんだ、加藤くん」
「……詩乃は、幸せだったんでしょうか」
佐々木は答えず、ただアクセルを踏み込んだ。
「……どうだろうな。だが、歪みはまだ、日本中に根を張っている。この夜が続く限り、救われないままの何かが、どこかで待っているんだろうよ」
夜はまだ、明けない。
黒塗りの車は、眩いばかりの黄金色と、救いようのない濃紺が混じり合う、終わらない昭和の街へと静かに沈んでいった。