幕間1-1
幕間1-1
月は、この昭和70年の世界においても変わらず冷ややかだった。
街外れにひっそりと佇む進藤家の屋敷。
その縁側に座り、霧亜(きりあ)は自らの尾を一本、また一本と丁寧に梳いていた。
月光に照らされた六本の尾は、黒い絹のような光沢を放ち、時折パチパチと紫電を弾かせている。
彼女の鋭い聴覚は、廊下の奥で眠る「不浄な同居人」の心音を捉えていた。
ドクン。ドクン。
一定のリズムで刻まれるその音。
しかし、そこには本来混ざり合うはずのない、二つの拍動が共鳴している。
一つは人間としての脆弱な鼓動。
そしてもう一つは、禍々しくも神聖な、愛羅(あいら)の「核」が刻む脈動だ。
(……不愉快だわ)
霧亜は黄金の瞳を細めた。
彼女の記憶は、九年前のあの日へと引き戻される。
神社の裏山。
朱い鳥居の影に、そのガキは転がっていた。
名前もなき下級の待ち人に心臓を貫かれ、泥と血にまみれた小さな塊。
本来なら、そのまま土に還り、何事もなかったかのように夜に溶けるはずの存在だった。
だが、霧亜の傍らに立つ愛羅は、あろうことか微笑んだのだ。
「あら、スペアに丁度いいわね」
その言葉の意味を理解する前に、愛羅は自らの胸元に手を差し込んだ。
実体を持たないはずの「核」を、まるで熟れた果実でも摘むかのように取り出す。
それは夜の闇よりも深く、それでいて銀河のように煌めく、愛羅の命そのものの欠片。
霧亜は思わず、主の袖を掴もうとした。
「愛羅様……! 何を……そんな、道端に落ちている猿の死骸に、あなたの半分を与えるなど……っ!」
「霧亜、これは投資よ。この子は『掴む』ことができるもの」
愛羅は霧亜の制止を、春風を受け流すようにかわした。
そして、動かなくなった少年の胸の穴に、自らの核を強引に、容赦なく押し込んだ。
その瞬間だった。 死んでいたはずの少年の指が、ぴくりと動いた。
少年——加藤省吾(かとうしょうご)は、無意識のうちに、胸の内に侵入してきた「核」をがっしりと掴んだのだ。
拒絶するためではない。
生き延びるために、自分を侵食する異物を、自らの魂の一部として繋ぎ止めるために。
その時の光景を、霧亜は今も呪いのように覚えている。
愛羅の核という強大な器に、人間のガキが泥まみれの手でしがみついている。
その不格好で、不浄で、それでいて生命の執着に満ちた醜悪な美しさ。
愛羅様は、それを面白がっていた。
壊れた時計を、道端の石ころを組み込んで無理やり動かすような、無邪気で残酷な好奇心。
(あいつはただの器。愛羅様の命を、汚れた血の中に閉じ込めている檻に過ぎないというのに)
「……霧亜? まだそんなところで毛繕いをしているの」
背後から、衣擦れの音と共に愛羅の声が響いた。
振り返れば、薄衣を纏った愛羅が、眠たげに、しかしすべてを見透かすような眼差しで立っている。
「愛羅様。……夜気が冷え込みます。中へ」
「そうね。でも、あの子の心音を聞いていると、なんだか落ち着くの。昭和50年の、あの洋館で過ごしていた頃のような……懐かしいリズム」
愛羅は省吾が眠る部屋の方へ目を向け、愛おしそうに目を細めた。
霧亜はその横顔を見て、梳いていた尾を強く握りしめた。
愛羅の記憶の中にある「黒猫」としての幸せな日々。
それを共有しているのは、自分ではなく、あの中に眠る不浄な少年なのだ。
霧亜の胸の内で、静かな殺意が、紫電と共に火花を散らした。