幕間1-2
詩乃(しの)の洋館から戻って数日、屋敷の空気は澱んでいた。
それは、あの廃屋に充満していた昭和50年の湿り気が、省吾の体に染み付いて離れないせいだと霧亜は感じていた。
「……霧亜。お茶を」
居間のソファで、愛羅が退屈そうに雑誌を捲っている。
昭和70年のきらびやかなファッション誌。
だが、その瞳は頁の上の流行を追ってはいない。
どこか遠い、ここではない時間を視ている。
霧亜は無言で一礼し、香りの高い伊勢茶を運んだ。
「愛羅様。……あの男の名を出してから、心ここにあらず、といったご様子ですね」
霧亜の言葉に、愛羅の指が止まった。
「渡良伎陶冶」 この世界を歪めた張本人であり、目の前の主を「化け物」へと変えた男。
「あら、そう見えるかしら。懐かしいなと思っただけよ。」
愛羅は曖昧に微笑み、茶を啜る。
霧亜はその姿を直視できなかった。
愛羅が「猫」であった頃の、霧亜の知らない、入り込めない過去。
(私なら、愛羅様をそんな哀しげな顔にはさせなかった)
霧亜が愛羅に拾われたのは、愛羅が待ち人になって程無い頃だった。
深手を負い、野良犬のように死にかけていた自分を、愛羅は「同じ黒い毛並みだから」という理由だけで救った。以来、霧亜にとって愛羅は神であり、世界のすべてだった。
だが、愛羅の魂の最深部には、いつも霧亜の届かない「空洞」があった。
そこには詩乃という少女がいて、渡良伎という狂った魔術師がいた。
ドクン、と。 奥の部屋から、不快な鼓動が響いてくる。
「……あいつ、また右目を押さえていますよ。移植された核が暴れているのでしょう。不浄な身で、過ぎた記憶を抱え込もうとするからだ」
霧亜の冷ややかな言葉に、愛羅はふふ、と笑った。
「いいじゃない。省吾が苦しむのは、それだけ私に近づいているということだもの。あの子の右目は、あの方が私を見ていた視線を、逆方向からなぞっている。皮肉だと思わない?」
霧亜は膝の上で拳を握りしめた。
それは、呪いのような愛だ。 愛羅は省吾を「可愛い」と思っているかもしれないが、それは人間に対する慈しみではない。
かつての飼い主が自分に与えた苦痛と愛執を、今度は自分が省吾に与え、その反応を楽しんでいる。
あるいは——省吾の中に、あの男の影を追い求めているのか。
「……もし、あいつが魔術師を見つけたら。愛羅様、あなたはどうなさるおつもりですか」
「さあ。殺すかもしれないし、もう一度、喉を鳴らして甘えるかもしれないわね」
愛羅の瞳が、金色に細まる。
その瞬間、霧亜は理解した。 自分がいかに愛羅を崇拝し、数十年を共に過ごそうとも、省吾という「檻」が抱えている記憶の重みには勝てないのだということを。
霧亜は静かに立ち上がり、省吾の部屋へと向かった。
襖越しに感じる、重苦しい霊圧。 部屋の中では、19歳の青年が、自らの中に巣食う「黒猫の記憶」に焼かれ、うなされている。
(憎らしい。……本当に、憎らしいわ)
霧亜は襖に手をかけようとして、止めた。
この少年は、愛羅の核を守る器であり、同時に愛羅を過去に繋ぎ止める鎖でもある。
もしこの鎖が壊れれば、愛羅は自由になる。
だが同時に、愛羅をこの現世に留める「理由」さえも消えてしまうのではないか。
霧亜は紫電を帯びた指先を噛んだ。
殺したいほどの嫉妬と、彼が死んではならないという矛盾した忠誠。
六本の尾が、夜の闇の中で苛立たしくのたうった。