PIXIV &ハーメルン同投稿作品
三月十七日、日曜日。午後七時三十分。
南与野駅から埼京線に乗り、湘南新宿ラインに乗り換えて新宿へ向かった。
私は改札を出て、Suicaのペンギンを模したブロンズ像の前で立ち止まり、ぼんやりと鳥子が来るのを待っていた。
鳥子とディナーの約束があったからだ。
待ち合わせの時間は二十時ちょうど。それなのに、私は三十分も早く着いてしまっていた。
することがない。
特に意味もなくSNSアプリを開いては閉じ、さっきまでやり取りしていた茜理に短く返信する。
それから、今夜行く予定の店までの道順を、もう一度地図で確認した。
さっき確認したばかりなのに、また同じ画面を見ている。
……暇だな。
そんなふうにスマホをいじって時間を潰していると、不意にメッセージアプリの着信音が鳴った。
直前までやり取りしていた茜理かな、と思って画面を見ると、表示された名前は鳥子だった。
《いまどこらへん?》
《もう着いてるよ》
《うそ! 早い! 特急に乗り換えて、なるべく早く行くね!》
私が「気をつけて、ゆっくりでいいよ」と送ると、鳥子からデフォルメされたクマが汗をかきながら走っているスタンプが返ってきた。
……かわいい。
でも、本当にそんなに急がなくてもいいのに。
時間はあるし、私はただ待っているだけなのだから。
さて、どうしようかな。
私はまたスマホを手に取り、結局さっきと同じアプリを開きながら、何か暇をつぶせるものはないかと画面をスクロールしはじめた。
「あの、すみません」
「へ?……あ、はい?」
鳥子とのやりとりから十数分ほど経った頃、不意に声をかけられ、私は気の抜けた返事をしてしまった。
振り返ると、そこに立っていたのは男性だった。年齢は二十代前半くらいだろうか。
明るめの茶髪をマッシュ気味に整えた、すらりとした長身の青年だった。
どこか垢抜けた、穏やかそうな雰囲気をまとっている。
──見覚えはない。大学の知り合いではなさそうだ。
誰だろ、この人。
じっと観察するように視線を向ける私に、男は膝を軽く折って視線の高さを合わせてきた。
まるで、「怪しい者ではありませんよ」とボディーランゲージで伝えようとしているようだった。
……何の用だろう。
私の疑問に応えるように、男はポケットからスマホを取り出し、私にその画面を向けてきた。
表示されていたのは、私がさっき使っていたのと同じ地図アプリだった。
「実は、道に迷ってしまって……」
男は申し訳なさそうに微笑むと、軽く頭を下げた。
「すみません、道を教えていただけませんか?」
丁寧な口調につられて、私もなんとなく姿勢を正す。
男のスマホの画面を見ると、地図上にピンが立てられている。きっと、そこが目的地なのだろう。
……それなら、そこまで遠くはないはずだ。
「私も地元じゃないんで、わからないかもしれないですけど……」
私がそう前置きすると、男はあっさりと言った。
「大丈夫です。ここに行きたいんですが──」
私の懸念には触れず、男は地図アプリの画面でピンの立った場所をタップし、そのスポットを拡大して私に見せてくる。
画面に表示されていたのは、おしゃれな雰囲気のバーだった。
おしゃれな雰囲気のバーだった。
写真を見ると、ワインやチーズ、キッシュなどの料理が並んでいる。
……私の好みだ。なかなか良い。
一緒に行こうと誘ったら、鳥子は喜ぶだろうか。
私はその店名を、頭の片隅にそっと書き留めておく。
そうしてから、あらためて現在地からバーまでの経路に目を通す。
やはり、それほど遠くはない。
徒歩のアイコンの横には、「五分」と表示されていた。
「お店、向こうの方ですね。ちょっと入り組んでますけど、すぐ近くですよ」
そう言うと、男は困ったように首筋に手をやった。
「そうなんですよね。ここまで来てるのに……。すみません、もしよかったら、その店まで案内していただけませんか?」
「は?」
露骨に眉をひそめた私に、男は言い訳めいた口調で続ける。
「いや、すみません。自分、かなり方向音痴なもので……」
「はあ……」
私は、どうしたものかと戸惑い、一瞬言葉に詰まった。
正直、断りたい。でも、かといって見捨てるのも気が引けた。
こんな簡単な地図を見ても目的地にたどり着けないというのなら、その「方向音痴」は相当に深刻なのかもしれない。
そう思うと──まあ、仕方ないか。という気持ちも湧いてくる。
小桜によく「人間としてのレベルが低い」と暴言を吐かれている私でも、このくらいの親切心は持ち合わせている。
私は男のスマホに表示された時計を見て、時刻を確認した。
十九時四十四分。
道を往復したとして、遅く見積もっても十分程度で済むだろう。
それに、これは鳥子と行くかもしれない良さそうなバーのロケハンだと思えば、多少は気も紛れる。
かつての私だったら、にべもなく断っておしまいだっただろう。
……うん。成長してるな、私。
「いいですよ」
「本当ですか!? 助かります!!」
私が了承すると、男は大げさなくらい勢いよく頭を下げた。
さらに、私の手を握って上下にブンブン揺さぶる、いわゆるハンドシェイクまでしてくる。
近い。
なんだこれ。陽キャというか、体育会系のノリを感じる。
茜理が男になったら、こんな感じなのかな。……いや、ないか。
他愛もないことを考えながら、私は男を連れて夜の新宿を歩き始めた。
鳥子との約束に遅れないよう、念のためやや早足で。
「さっき見てから思ってたんですけど、すごく綺麗な青いカラコンですね。……左目には付けないんですか?」
「え? あー……しまった。忘れてた。今日は、その……左だけカラコン付け忘れたんです」
「へえ〜。そうなんですね。でも片方だけでも似合ってますよ。なんだか雰囲気が出ミステリアスで。素敵だと思います」
「はあ……ありがとう、ございます?」
「その髪型、よく似合ってますね。すごくモテそう。よく言われませんか?」
「……そういえばこの間、大学の知人に人生で初めてそういうこと言われましたね」
「うん。そうでしょう」
「自分では、そう思ったことないですけど」
「それは、だいぶ自分を過小評価してますよ」
「今まで、ほんとになかったですから」
「きっと今がモテ期、ということなんですよ」
「はあ……なるほど?」
「あ、大学生だったんですね。落ち着いてるので社会人かと思いました」
「……初めて言われました。知人からはよく子供扱いされてるので」
「そうなんですか? とても垢抜けていて、僕にはオシャレに見えますよ」
「オ、オシャレ……? はあ、どうも、ありがとうございます……?」
……なんだろう。
この人、さっきからやたらと褒めてくるな。
なんで?……道案内してるから?
少し居心地が悪い。体がこそばゆくなる。
そう思いながら歩いていると目的地が見えてきた。
「あ、着きました。ここですね」
私は辿り着いた建物を指差した。焼肉屋とホテルに挟まれたバーだった。窓ガラスから漏れる間接照明のやわらかな光が、夜の歩道をぼんやりと照らしている。
店内では、楽しそうに会話している男女がテーブルを挟んで向き合っていた。
うん。やっぱりオシャレだ。鳥子が好きそう。
「ありがとうございます」
男はそう言って会釈をしたので、私も会釈で返す。その流れでトートバッグのポケットから自分のスマホを取り出し、時間を確認した。
まだ余裕はあるけど、もしかしたら鳥子が早めに着いているかもしれない。
私は改めて男に軽く会釈する。
「それじゃあ、私はこれで……」
「あ、待ってください」
「はい?」
「良ければ一杯どうですか? ご馳走しますよ」
「……え?」
男の唐突な提案に、私は戸惑った。
一杯いかが……? たかが道案内しただけで?
こんなこと、現実で本当にあるんだ。
漫画やアニメの中だけの話かと思ってた。
「いえ、すみません。人と待ち合わせているので……」
「夜も遅いですし、そのご友人、一人で待たせていて大丈夫ですか」
「……はい?」
質問の意図がつかめず、私の脳が軽く混乱する。
私は何を訊かれているんだ?
「あの……どういう意味ですか?」
私の困惑を察したのか、男は軽く肩をすくめて言った。
「いえ、待ち合わせのお相手が女性なら、夜の新宿に一人でいるのは危険かと思いまして」
ああ……なるほど? 単純に心配してるだけ……か?
でも、それならそれで。
なんで、そんな訊ね方になるんだろう。
よくわからない疑問はいったん横に置いて、私は男の質問に答える。
「大丈夫ですよ。しっかりした子なんで」
「ああ、やっぱりその人も女性の方なんですね。なら提案なんですが、ご友人もこちらに呼んで一緒に呑みませんか?」
「え、いや。それは……」
再び、私は困惑する。
普通に嫌だ。
よく知らない初対面の人と、いくらお酒が入るとはいえ、一緒に食事なんて。
そんなこと、絶対に鳥子も嫌がるし、なにより私自身が鳥子と自分の間に人が挟まるなんて、邪魔くさくて嫌だ。
「僕も男の友人と待ち合わせしているところでして──」
と話を続けかけた男の言葉を、私は被せるように遮った。
「あー、すみません。私とその子、デートのためにお店の予約とかも全部取っちゃってるので」
「ああ、なるほど。そうなんですね。なら──えっ? デート?」
男が素っ頓狂な声をあげた。
今まで笑顔しか見せていなかったその顔に、はっきりとした驚きの色が浮かぶ。
口をもごつかせ、視線をきょろりと動かしながら、男は続けた。
「ええと、それはつまり……失礼ですが、レズビアンってことですか?」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失くした。
だって、鳥子との関係は、そういうものじゃない。
けれど、この「鵼」という関係自体が、レズビアンの範疇に入るのかと問われると、否定しきれる気もしなかった。
広いな、レズビアン。器が大きい。
とにかく、こんなややこしい話を、見ず知らずの相手に詳細まで説明するつもりはない。
「えーと、まあ、はい。そんな感じです。たぶん」
煮え切らない返事に、男は少し戸惑ったように視線を彷徨わせ、それから決まり悪そうに笑顔を作って、再び頭を下げた。
「ああ、えーと……忙しいところ、邪魔してしまい失礼しました」
別になにも失礼ではなかったけど、なんだろう。
私が鵼、もといレズビアンであることが、彼にとって何か都合の悪いことだったのだろうか。
それとも、また私は、知らず知らずのうちに、彼の気に障ることを言ってしまっていたのだろうか。
人として多少は成長したつもりだったのに。
やっぱり難しい。
人間って、本当に難しいなあ。
私、向いてないよ。
「それじゃあ、私は待ち合わせがあるので」
「はい、案内ありがとうございました。……夜道は危ないんで、気をつけてくださいね」
男の、さっきに比べて明らかに気の抜けた声を背に受けながら、私は来た道を急ぎ足で戻った。
思ったより、時間に余裕がなくなってきている。
もしかすると、鳥子は待ち合わせ場所に着いてしまっているかもしれない。
そうなれば、余計な心配をかけてしまうだろう。
さっきの男の言葉が、遅れて頭をよぎった。
夜遅くに若い女が一人でいるのは危険だ、と。
確かに鳥子みたいな、とびきりの美人なら、なおさらだろう。
男には「鳥子はしっかりしているから大丈夫」なんて言ったけれど、言い終わったあとから、じわじわと不安が膨らんできていた。
まるで、家の鍵をかけ忘れたことに気付いてしまったまま、街を歩いているみたいな気分だ。
落ち着かない。背骨を伝って両足の辺りにソワソワとした違和感を覚える。
気持ち悪い感覚が止まらない。
どうしよう。
もしも鳥子が、変な奴らに無理やり手を出されていたりしたら……。
たしか昔、鳥子は「新宿ではよく声をかけられる」って言っていた気がするし……。
ボコボコと湧き上がる焦燥感に背中を押されて、私は、待ち合わせ場所から一旦離れていることを伝えようと、バッグからスマホを取り出しかけた──その瞬間。
「ばあっ!」
「わぁっ!!!」
突然、背後から両肩を掴まれて叫ばれた。
手にしていたスマホが、危うく手から滑り落ちそうになり、指先が宙を掻く。
ドクドクと、心臓が早鐘を打っていた。
いったい誰なのか、などと考える必要はなかった。
声を聴けば、視界に入れば、匂いをかげば──。
この無礼な不審者が誰かなんて、すぐにわかる。
私はもう、そうなってしまっている。
その不審人物を睨みつけるため、私はぐるりと首を回した。
街の明かりを反射してきらめく長い金髪は、今日はアップにまとめられている。
涼しげな藍色の瞳が半月状に歪み、楽しそうに輝いていた。
イタズラに成功した子どもみたいに、口元がにやついている。
不審人物。
またの名を、仁科鳥子という女が、そこに立っていた。
「どう?」
あまりに楽しげに訊いてくるものだから、
さっきまで胸に渦巻いていた心配の中心を、力いっぱい込め、私は抗議の言葉を投げつけてやった。
「びっくりしたよっ!!」
「あははっ、空魚の反応、面白い!」
反省の色なんて、これっぽっちも見せずに、鳥子は楽しそうに笑う。
私は、短くため息をひとつ吐いてから、少しだけ声のトーンを落とした。
「あのね、ホントにやめてよ? そのうち、反射的にビンタするかもしれないんだから」
「うーん、わかった。たまにやるだけで我慢するね」
「ずっと我慢してて……」
私と鳥子は、予約していたレストランへ向かって、並んで歩いていた。
私が車道側、鳥子が建物側。
自然と、いつもそうなる。
ふたりのブーツの踵が、コツン、コツンと、雑踏の中で小さく鳴る。
その音は本来、少しずつずれているはずなのに、ときどき、ぴたりと揃って──それが、妙に心地よく耳に残った。
街灯の光が鳥子を照らすたび、
その美しさが可視化されて、香りみたいに空気へ立ちのぼっていく。
末端から溶けていく光の残像を、何度も見せつけられて、私は思わず、ため息を漏らしていた。
鳥子は、今日も綺麗だ。
進行方向を向いていた鳥子が、ふいにこちらを振り返る。
ばっちりと目が合った。
鳥子は小首を傾げ、悪戯っぽく微笑む。
その視線に耐えきれず、私は反射的に目を逸らした。
照れ隠しに。あるいは、目線をずらすために。
私は、鳥子に問いかけた。
「さっきさ、どうして鳥子はあそこにいたの? 待ち合わせまで、まだ時間あったよね。私、遅れてた?」
「遅れてないよ」
応えて、鳥子はイタズラっぽく舌を出す。
「急いだら、思ったより早く駅に着いちゃってね。それで待ち合わせ場所に向かったら、空魚が男の人と話してたから、そのまま尾いていったの」
「は? 尾いて?……なんで?」
「だって、すごく面白いものが見れそうだったんだもん」
「面白い……?」
私が眉をひそめると、鳥子はニッと笑って、こちらを覗き込む。
「で、どうだった?」
「何がよ」
訝しんで私は問い返す。そんな私の左腕に鳥子が、ひょいと腕を絡めてきた。
そのまま、私の肩に顎をのせて内緒話みたいに囁く。
「初めて『ナンパ』された感想は、どう?」
「……え?」
「ん? あ、初めてじゃなかったかな?」
鳥子と私のあいだに、ほんの数秒の沈黙が落ちた。
鳥子の言っていることが、どうにも理解できなくて、私は首を傾げようとする。けれど、肩に乗った鳥子の頭が、それを邪魔した。
動かせない首の代わりに、私は金髪のつむじに向かって問いかける。
「……『ナンパ』だったの? あれって……」
鳥子は、もたれかかっていた姿勢を正し、私の目をまっすぐ見て応えた。
「三百六十度、どこからどう見ても『ナンパ』だったよ?」
「えー……あれが? そうだったんだ。なんか……全然イメージと違った」
鳥子は、「本当に気付いてなかったんだ」とでも言いたげに、小さく息を吐いてから、呆れたように呟く。
「空魚の中の『ナンパ』って、どんなイメージなの?」
鳥子の問いに、私は少しだけ考えてから答える。
「なんか……チャラチャラした男がヘラヘラしてて……」
「そういう人も、いるね」
「ネチネチ粘着質で……」
「諦めの悪い人は、いつまでもついてくるね」
「裏世界のビーチにいた半グレみたいなイメージだった」
「それは、ちょっと偏りすぎかな……」
「でも、ああ言う人たちってナイフとか持ち歩いてそうじゃない?」
「それもう、ナンパじゃなくて通り魔だよ?」
「だって、気に入らないことがあると暴力振るってきそうだし……」
「振らない、振らない」
どうやら、私の中で作り上げられていたナンパ男像は、だいぶ歪んでいたらしい。
鳥子は苦笑いを浮かべ、私はなんとなく気恥ずかしくなって、視線を足元に落とした。
「多分だけどね、さっきのあの人のやり方は──」
鳥子は顎の下に人差し指を当てながら言う。
その様子を、私は上目で盗み見た。
そんな何気ない仕草ひとつさえ、ファッション雑誌のモデルみたいに様になっていて、妙に腹が立つ。
そして指を下ろすと、鳥子は言葉を続けた。
「たぶん、道に迷ってるって言って女の子に話しかけて、道案内をさせる。その途中でバーに誘って、うまくいけば、そのまま……って流れじゃないかな」
「バーに誘って……わざわざそんなことして、なんのために?」
「それはもう、いい感じの雰囲気にして、お互いほろ酔いになって……流れで、ラブホに」
「うげぇ」
思わず、喉の奥から変な声が漏れた。
同時に、胃のあたりがカッと熱くなる。
なんだそれ。
じゃあさっきの男は私の親切心を利用して近づいてきたってことか?
道に迷ったっていうのも、もしかして……いや、もしかしなくとも──本当は知ってたんじゃないの?
そんなの……嘘吐きじゃん!
あのマッシュ男への怒りは、お腹の奥から頭に向かって、モコモコと膨らみながら熱を帯びていった。
けれど、ふと頭に浮かんだ疑問が、そのスイッチをパチンと切る。
いやいや、待てよ。
そもそも──。
「鳥子、見てたんなら止めてよ!」
私が詰め寄るように言うと、鳥子の笑顔に、さらに深い色が差した。
……なによ、それ。
鳥子が、少し照れくさそうに言う。
「だってさ、人に話しかけるのって、すごく勇気がいるじゃない? 知らない女の子に声をかけるって、私にはできないから。だから、たとえナンパ目的でも、あんまり邪険にはしたくないんだよね。まあ、たちの悪いナンパは別だけど」
ニヤリと笑って、鳥子は続ける。
「それにね、空魚をナンパするなんて、見る目あるなあって思ってたんだ」
「鳥子さあ……」
「もちろん、少しでも危ない感じがしたら、ちゃんと止めに入るつもりだったよ」
そう言った鳥子の表情が、一瞬だけ真剣になる。
けれどすぐに、あの深みのある笑みに戻り、ゆったりとした歩調で、私の腕を絡め直した。
私には、鳥子があとをついてきていた理由がまだよくわからず、内心で少し狼狽えていた。
しばらく歩いても答えは出そうになかったので、私は心の中で白旗を振った。
わかりません。降参です。
そんな私の気配が伝わったのか、鳥子がフッと息を吐く。組んでいた腕の力が抜け、どこか凄みを帯びていた笑顔も、いつもの柔らかな表情に戻っていた。
鳥子が、ぽつりと言う。
「最初は単にね、ナンパされた空魚が相手にどう対応するか、興味があって見てみたかっただけなの」
「うん」
私は相槌を打ちながら、鳥子の唇が次の言葉を紡ぐのをじっと待っていた。
「空魚はきっと、知らんぷりしたり、あっちだよって方向だけ指差したりするだけなんだろうなあって思ってたの」
「知らんぷり」か。まあ……間違ってない。
正直、今から時間を戻せるなら、そうしてやりたい気分だった。
鳥子は、ふふっと楽しそうに笑う。
「だけど空魚、そのまま道案内し始めちゃったから、びっくりしちゃって。お店の中に連れてかれそうになった時は私、正直かなり焦ったよ」
「それは……」
それは、鳥子との打ち上げ場所になりそうな、いい感じのバーだったからだよ。
そう説明しようとした、そのとき。私よりも早く鳥子が言った。
「でも嬉しかった」
「嬉しい?……なにが?」
「空魚が、困ってる人を放っておけなかったこと」
鳥子は、少しだけ目を細めた。
「私のパートナーは、やっぱり優しいんだなって。それに……」
そこで一度、言葉を切る。
「あんなわかりやすいナンパを、ナンパだって気づかないくらい世間知らずなんだなって」
「……褒めてる?」
「もちろん」
鳥子は穏やかに笑った。
「だから、『あ、守らなきゃ』って思ったの」
「守る……? ナンパから?」
「ううん。違うよ。普通のナンパならいいの」
その声から、冗談めいた響きが消える。
「ねえ、わかってる? 今の空魚って、すごく可愛いんだよ?」
……可愛い?
鳥子の言葉を咀嚼しきれないまま、私は首を傾げて、自分の姿を見下ろす。
淡い桃色のロングスカートに白いブラウス、キャメル色のコート。どれも鳥子が選んでくれた服だ。
だから可愛いのは私じゃない。たぶん、服だ。
それでも「可愛い」と言われると、胸のあたりが、むず痒くなる。
「でもダメだよ、空魚」
不意に、普段より少し低い声が降ってきた。
「可愛いだけじゃ、世の中は渡れない。必要な強さもあるんだよ」
私の目をじっと見据え、鳥子は真剣な声で続ける。
「どんな時でも私は空魚を守りたい。でも、ずっと空魚を見ていられるわけじゃない。だから……騙されない強さは持ってほしい」
鳥子は私をまっすぐ見つめた。
「酷いことになったりしたら、私……きっと耐えられない」
胸の中がざわつく。
守ってもらいたい気持ちと、鳥子に心配をかけたくない気持ち。
そのどちらもが本当で、簡単に切り離せるものじゃなかった。
私はしばらく黙って鳥子の顔を見つめ、やがてかすかに笑って言った。
「うん、わかったよ。鳥子の言うこと、ちゃんと考える」
鳥子はゆっくりと頷く。街灯の下で、二人の影が寄り添うように揺れていた。
そのときの鳥子の顔は、不安と安堵が入り混じった、珍しい表情をしていた。
そうさせたのが自分だと思うと、母親に叱られた子どもみたいに、居心地が悪くなる。
正直「守ってもらう必要なんてない」と言いたかった。
でも、なぜだろう──言わないほうがいい気がした。
それに私の口は、「沈黙は金」という言葉に、妙に忠実らしいからだ。
それでも、せめて一言だけ。鳥子を慰めようと口を開きかけた、そのとき。
「空魚には一度、軽く痛い目にあってもらったほうがいいと思って、しばらく放置してたの」
「……い、痛い目?」
「一回騙されて、手口もわかったでしょ? これからは、自分の力でうまくかわせるように気をつけてね」
「……わかった」
私の返事を聞くと、険を帯びていた鳥子の表情がふっと緩み、いつもの無邪気な笑顔に戻った。
「よし、いい子!」
わしゃわしゃと頭を撫でられる。やめろと言おうとしたが、その前に、鳥子は手櫛で丁寧に整え始めた。
その手つきがあまりに優しくて、さっきまでの怒りも、悔しさもほどけていく。
十秒ほどして、鳥子が満足げに言った。
「ふう、よし」
手を下ろし、上機嫌な笑顔でこちらを見る。
鳥子が嬉しそうなら──それで、いいのかもしれない。
そう思いながら、私も視線を返した。
しばらくそうしていると、ふと鳥子が何かを思いついたように、私に訊いた。
「ちなみに、私がナンパされてたら、空魚はどうするの?」
「どうって……」
さっきも考えていたが、──鳥子はよく、一人で歩いていると声をかけられる。と以前どこかで言っていた。私なんかとは比べ物にならないほど、そういう輩をうまく捌いてきたに違いない。きっと経験値が、桁違いなのだ。
「私が何かしなくても、鳥子なら平気なんじゃないの?」
「そうじゃなくって。どう『感じる』の? って話ね」
鳥子は、何かを試すみたいな目で私を見つめていた。
どう感じるって、何を? 悲しいとか? 怒るとか? 泣く……? どれもしっくりこない。私は少しだけ視線を落としてから、頭の中でその状況を組み立ててみた。
男と鳥子がいる。男が鳥子に話しかける。そして──。
…………うーん。
……ああ。そうか。
「……哀れだな、って思う」
「え? 哀れ?」
鳥子が呆けたような顔で私を見て、聞き返してきた。
「……誰が哀れなの?」
「そりゃあ、相手がよ」
「へー。どうして哀れなの?」
「だって、鳥子は絶対に靡かないし、振っちゃうでしょ?」
「そうねぇ。だから哀れなんだ?」
「そう。鳥子がさっき言ってたじゃん、男の人も勇気出してるって。なのに、最初から可能性がまったくなかったって知ったら……ちょっと気の毒だな、とは思う。あーあ、って感じで」
「なるほどねえ」
鳥子は興味深そうに顎に指を当てた。その仕草が、妙に探偵じみて見えた。
「今の回答って、鳥子的にはどう? 当たり?」
「当たり外れがあるってものはないけど……」
鳥子は、少しだけ困ったような、複雑な顔をして言った。
「うーん、ちょっと思ってたのとは違ったかも」
「やっぱり? どうすれば良かった?」
「それは……怒って助けに来てほしかったかな」
「え、怒っていいの?」
「『良い』とか『悪い』とか、そういう話でもないんだけどさ……」
口ごもる鳥子に、私は素朴な疑問をぶつける。
「だって男の人も、勇気出して声かけてるんでしょ? そこに怒って割って入るのって、ちょっと違う気がしない?」
「それはそれ! これはこれなの!」
「わがままだな……」
「じゃあ、声かけて来たのが、すごく可愛い女性だったら?」
「………………」
「………………」
鳥子の質問に私は答えない。
そうしていると、数秒、少し気まずい時間が流れた。
「……オーケイ。この話はやめるね?」
「いいよ。鳥子が私と違って黒髪ロングの高身長なお姉さんが好みなのは知ってるから」
「違うよ〜! やめようよ〜!」
鳥子が情けない声で懇願するのを横目に、私は髪先をいじった。思ったより伸びてきてる。今度、美容院に行かないと。
「………………」
「……ねえ、もしかして……空魚、嫉妬してる?」
「してないけど……」
「してるんだー!」
「してない!」
してる、してないと他愛のない話を続けながら、ふたりで腕を組んだまま道を歩く。大通りに出ると、なんとなく周囲から向けられる視線が増えたような気がした。
私は言う。
「ねえ鳥子。腕組むのやめない? 歩きにくい」
「だめ」
「なんでよ?」
問いかける私を、鳥子は微笑みながら見返して、言った。
「空魚、女の子同士で腕組んで歩いてるの、見られるのが恥ずかしいんでしょ」
「うっ……」
私は息を呑んで、黙り込んだ。少しだけ――ほんの少しだけ、図星だった。だって、なんとなく人の視線を感じるし、横目で確かめれば、すれ違う人の視線がほんの一瞬、こちらに留まっている。
……いや、もしかしてこれ、鳥子だから見られてるんじゃないか?
スラリとした体格に映えるコート、軽やかに揺れる髪、浮かべた笑み。正直、隣を歩いているだけでも見惚れてしまうくらいなのだから、そりゃあ目立つ。むしろ、視線を集めているのは私じゃなくて鳥子のほうで、それに腕を組んでいる私が巻き添えを食らっているだけなんじゃ……。
「私、これからも空魚と、こうやって歩きたいの。だから早く慣れてほしいな……それにね」
鳥子はそこで一度言葉を切って、すっと真顔になった。
「空魚って、目を離すと知らない人について行っちゃいそうで、危なっかしいから……放っておけないの」
「ん……」
そんなわけない、と言い返したかった。
けれど、ついさっきの出来事が脳裏をよぎる。
口を開きかけて、でも結局……何も言えなかった。
それでもなんとか、喉の奥から言葉を搾り出す。
「も、もう大丈夫だし……」
「だーめ。まだ安心できないもん。またナンパされて連れてかれちゃうかもしれないでしょ?」
「いやいや、小学生じゃないんだから。それに今日はもうないって……」
「油断してると、そういう時に限って来るんだから。それに、これにはもうひとつ、大事な意味があるの」
鳥子はそう言いながら、組んだ腕をさらに引き寄せ、少しだけ声を潜めた。
「ナンパ避け、だけじゃないの。もし誰かが近づいてきたら──」
そう言って、鳥子はいっそう強く私の腕を抱き寄せ、私の右頬に手を添えて、左頬にちゅーっと、少し長めのキスをした。
周囲の視線が、はっきりと私たちに向けられているのを、肌の上にひりつくように感じる。
なんとも言えない感情が胸の奥から噴き出して、恥ずかしさが臨界点ぎりぎりの勢いで全身を駆け巡った。冷静でいようとしても、足運びすら怪しくなる。まともに歩くことが、急に難しくなっていた。
「ちょっ、鳥子──」
抗議しようとしたその瞬間、鳥子は私より一歩早く、そっと顔を寄せてきた。吐息が触れるほどの距離。耳元で、低く甘く囁かれる。
「ちゃんと示さないとね。空魚は、私のなんだから」
その言葉が、熱を帯びた息遣いと共に耳の奥へと流れ込む。
理性より先に反応した神経が、頭の芯まで痺れさせた。耳たぶが、焼けるように熱い……。
静かな夜風に乗せて、私たちの影はぴったりと寄り添いながら、また一歩、歩みを進めた。
おしまい