鬼塚剛志は現場監督として赴任した京都で、正体不明の敵に精神を削られていた。それは「京都弁」という名の、本音と建前が入り混じる魔宮であった。職人の笑顔の裏にある真意が読めず、挨拶すらも攻撃に聞こえる日々。蓄積されたストレスと疑心暗鬼が限界を超えた時、男の拳が禁断の解決策を選び取る。

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鬼の拳

 

 ◆

 

 男が歩いている。

 

 祇園の石畳を踏みしめる重い足音──男の名は鬼塚剛志。身長百九十二センチ、体重百十八キロ。その肉体は長年の格闘技と過酷な肉体労働によって鍛え上げられ、まるで古代ギリシャの彫刻のように隆起した筋肉が薄い夏物のシャツの下でうごめいている。

 

 東京の下町で生まれ育った鬼塚にとって、この古都への出張は苦痛以外の何物でもなかった。

 

 建設会社の現場監督として赴任してから三日目。鬼塚の精神は既に限界に達しつつある。

 

 問題は京都弁だった。

 

 あの婉曲的な、回りくどい、何を言っているのか分からない言い回し。褒めているのか貶しているのか、肯定なのか否定なのか、好意なのか悪意なのか。すべてが曖昧模糊として、霧の中を手探りで歩くような不快感が常につきまとう。

 鬼塚は単純明快を好む男である。殴れば痛い。蹴れば倒れる。そういう因果の明確な世界で生きてきた。

 

「ほな、またよろしゅうお願いしますわ」

 

 昨日、取引先の老舗建材店の主人が言った言葉が今も脳裏にこびりついて離れない。表面上は丁寧な挨拶に聞こえるがその裏に潜む真意が読めない。本当に「よろしく」と思っているのか。それとも二度と来るなという意味なのか。

 

 鬼塚の眉間に深い皺が刻まれる。

 

 祇園の花見小路を歩きながら、男は拳を握りしめていた。白い提灯の灯りが石畳に落ち、どこかから三味線の音色が漂ってくる。風情ある光景のはずが鬼塚の目には敵地のど真ん中に放り込まれた兵士の視界としか映らなかった。

 

「あら、えらい立派なお方やわぁ」

 

 声は右手の路地から聞こえてきた。

 

 振り向くと、舞妓の格好をした若い女が立っている。白塗りの顔に紅を差し、だらりの帯を垂らした姿は絵画から抜け出たようでしかし鬼塚の神経を逆撫でするには十分すぎる存在だった。

 

「何だ」

 

 鬼塚の声は低く、短い。必要最低限の言葉しか発しない。それが東京下町流のコミュニケーションである。

 

「そないに怖い顔してはったら、せっかくのお顔が台無しどすえ」

 

 女は口元に手を当てて笑う。その笑いには何か含みがあるように感じられた。いや、実際にあるのだろう。京都人の言葉には常に裏がある。鬼塚はそう確信していた。

 

「俺の顔がどうかしたか」

 

「いえいえ、ほんまに立派なお顔立ちやと思うて。東京からいらしたんどすか?」

 

「ああ」

 

「まあ、そうどしたか。東京の方はほんまに分かりやすうて、ええどすなぁ」

 

 分かりやすい。

 

 その一言が鬼塚の中の何かを軋ませた。

 

 分かりやすいとは何だ。単純だということか。頭が悪いということか。それとも、京都人特有の高度な皮肉なのか。褒めているふりをして見下しているのか。

 こめかみの血管が脈打つのを感じる。

 

「どういう意味だ」

 

「え? ああ、そのままの意味どすえ。裏表がのうて、ストレートでよろしおすなぁ、言うてるだけどす」

 

 裏表がない。

 

 つまり京都人には裏表があると暗に認めているのか。それとも東京人には深みがないと言いたいのか。あるいはこの女は本当に純粋な感想を述べているだけなのか。

 分からない。何も分からなかった。

 

 鬼塚の額に汗が滲む。

 

「おおきにお気をつけて」

 

 女は優雅に頭を下げ、路地の奥へと消えていく。その後ろ姿を見送りながら、鬼塚は自分の心拍数が上昇しているのを自覚した。怒りなのか、困惑なのか、それすらも判然としない。

 

 ただ一つ確かなことはこのままではまずいということだ。

 

 ◆

 

 翌朝、鬼塚は宿泊先のビジネスホテルで目を覚ました。

 

 窓の外には鴨川の流れが見え、遠くに東山の稜線が霞んでいる。東京のコンクリートジャングルとは異なる景色。しかし鬼塚の心は晴れない。むしろ、この雅やかな風景そのものが自分を異物として排除しようとしているかのような被害妄想すら芽生え始めていた。

 

 朝食は一階の食堂で取る。宿泊客用の簡素なバイキング形式だが京都らしく漬物の種類だけは妙に充実している。

 

「お兄さん、よう食べはりますなぁ」

 

 声をかけてきたのは隣のテーブルに座る初老の男だった。地元の常連客らしく、従業員と親しげに話している姿を先ほどから見かけていた。

 

 鬼塚の皿には白米が山盛りになっている。その上に焼き鮭、卵焼き、納豆、そして大量の漬物が乗せられており、カロリー計算などという概念とは無縁の朝食だった。

 

「まあな」

 

「ほんまに見てるだけでお腹いっぱいになりますわ。若いいうんはええことどすなぁ」

 

 鬼塚は咀嚼しながら、男の言葉を反芻する。

 

 若いというのはいいことだ。文字通りに受け取れば、それは素直な感想である。しかしこの男の表情には微かな笑みが浮かんでいる。その笑みの意味するところは何だ。

 あんなに食べて、みっともない。そう言いたいのではないか。

 あるいは体力自慢なんて若いうちだけだ、という嘲笑か。

 

「何がおかしい」

 

 鬼塚の声に食堂の空気が一瞬凍りついた。

 

「いえいえ、おかしいやなんて。ほんまに感心してるだけどすえ。わしなんか、もう朝から胃がもたれてしもうて」

 

「だから何だ」

 

「え?」

 

「俺が食うのと、あんたの胃もたれと、何の関係がある」

 

 男の顔から笑みが消える。しかしすぐに別の笑みが浮かんだ。今度は明らかに困惑と恐怖が混じった、引きつったような笑顔である。

 

「そ、そないに怒らはらんでも。世間話どすがな」

 

 世間話。

 

 その言葉が鬼塚の中で何かを決壊させた。

 

 京都人にとっての世間話とは何だ。本音を隠し、建前で塗り固め、相手の反応を窺いながら探りを入れる、高度な心理戦のことではないのか。純粋な世間話など、この土地には存在しないのではないか。

 鬼塚は立ち上がった。その巨躯が朝の光を遮り、初老の男に影を落とす。

 

「俺は世間話が嫌いなんだ」

 

「ひ、ひえっ」

 

 男は椅子ごと後ろに下がり、そのまま転倒した。食堂の従業員が駆け寄ってくるのを横目に鬼塚は黙って朝食を平らげ、部屋へと戻っていく。

 

 今日は現場の視察がある。京都の職人たちと顔を合わせなければならない。

 

 考えただけで胃が重くなった。

 

 ◆

 

 建設現場は東山の麓にあった。

 

 古い町家を改修し、高級旅館として再生させるプロジェクト。鬼塚の会社は基礎工事と構造補強を担当しており、地元の職人たちとの連携が不可欠だった。

 

「えらい遠いとこから、ようお越しやす」

 

 現場で最初に声をかけてきたのは棟梁の西園寺という男だった。六十代後半、痩せた体躯に鋭い目つき。何十年もの間、京都の伝統建築を手がけてきた職人である。

 

「よろしく頼む」

 

 鬼塚は短く答えた。握手を求めて差し出した手は西園寺に軽く触れられただけで終わる。東京式の握手はこの土地では受け入れられないらしい。

 

「東京の方はほんまにせっかちどすなぁ」

 

 西園寺が言った。その声には笑みが含まれている。

 

「何?」

 

「いえいえ、こちらのペースに合わせてもらえたら、ありがたいなぁ思うて」

 

「俺がせっかちだと言いたいのか」

 

「そんなこと、言うてまへんえ。ただ、京都いうとこはゆっくりしたもんどすさかい」

 

 鬼塚の眉間の皺が深くなる。

 

 この男は何を言いたいのだ。東京のやり方を批判しているのか。それとも、純粋に地域性の違いを説明しているだけなのか。「ゆっくりしたもの」という表現にはどこか優越感のようなものが滲んでいるように感じられた。

 お前たちは野蛮で粗雑だ。我々は洗練されている。

 そう言われているような気がしてならない。

 

「具体的に言え」

 

「は?」

 

「何をどうすればいいのか、具体的に言ってくれ。回りくどい言い方は苦手なんだ」

 

 西園寺の目が細くなった。

 

「そうどすか。ほな、率直に申しますと、工期のことなんどすけど」

 

「工期がどうした」

 

「ちょっと、無理があるんやないかなぁ思うて。こちらの職人も、皆さんようやってくれてはりますけど、なかなか難しいもんがおすえ」

 

「無理とは思えない。俺が計算したスケジュールだ」

 

「いやぁ、そらそうかもしれまへんけど。京都の仕事いうんはちょっと特殊どすさかい」

 

 特殊。

 

 また曖昧な言葉が出てきた。何が特殊なのか。どう特殊なのか。具体的な説明がないまま、ただ「特殊」という言葉だけが宙に浮いている。

 

「何が特殊なんだ」

 

「まあ、いろいろと」

 

「いろいろって何だ」

 

 西園寺は困ったような顔をした。しかしその表情の奥には何か別のものが潜んでいるように見えた。苛立ちなのか、軽蔑なのか、あるいは優越感なのか。鬼塚には判別がつかない。

 

「お兄さん、そない急かさんといておくれやす。ゆっくり話しましょうや」

 

「俺は急いでない。ただ、明確な答えが欲しいだけだ」

 

「明確な答えねぇ……」

 

 西園寺は顎を撫でながら、どこか遠くを見るような目をした。

 

「この仕事には白黒はっきりせんことも多いんどすえ。グレーいうんも、大事な色どす」

 

 グレー。

 

 その言葉が鬼塚の中の何かに火をつけた。

 

 グレーを大事にする。曖昧さを尊ぶ。それはつまり、物事をうやむやにして責任を回避するということではないのか。白黒つけられない者の言い訳ではないのか。

 いや、待て。冷静になれ。これは文化の違いだ。京都には京都のやり方がある。東京のやり方を押し付けるべきではない。

 

 鬼塚は深呼吸をした。

 

「分かった。もう少し詳しく、現場の状況を見せてくれ」

 

「おおきに。ほな、こちらへ」

 

 西園寺に案内されて現場を回る。職人たちは皆、丁寧な仕事をしていた。技術に関しては文句のつけようがない。問題はコミュニケーションだった。

 

「この梁、少し歪んでないか」

 

 鬼塚が指摘すると、近くにいた若い職人が答えた。

 

「ああ、それはわざとどす。味いうやつどすなぁ」

 

「味?」

 

「真っ直ぐやったら、つまらんでしょ。ちょっと歪んでるんがええ感じになるんどす」

 

「構造上の問題はないのか」

 

「まあ、大丈夫やと思いますけど」

 

 思う。

 

 その曖昧な言葉が鬼塚の神経を逆撫でする。大丈夫なのか、そうでないのか。どちらなのだ。

 

「大丈夫なのか、そうでないのか、はっきり言え」

 

 若い職人は困ったような顔をして、西園寺の方を見た。西園寺は微かに笑みを浮かべながら近づいてくる。

 

「お兄さん、そない目くじら立てんでも。この程度の歪みは昔からの技法どす。ご心配なさらんでも」

 

「心配してるんじゃない。確認してるんだ」

 

「そうどすか。まあ、東京の方には分かりにくいかもしれまへんなぁ」

 

 分かりにくい。

 

 また出た。あの言い回し。

 

 東京の人間には分からない。我々京都人にしか理解できない高度な文化がある。そう言われているような気がしてならない。

 

 鬼塚の拳が震え始めた。

 

 ◆

 

 昼食は現場近くの蕎麦屋で取ることになった。

 

 西園寺と若い職人二人、そして鬼塚の四人。狭い店内は京都らしい落ち着いた雰囲気で壁には古い掛け軸がかかっている。

 

「ここのにしん蕎麦は絶品どすえ。東京にはない味どす」

 

 西園寺が言った。また「東京にはない」という言い回しだ。鬼塚は黙って頷く。

 

 注文を終えると、若い職人の一人が話しかけてきた。

 

「鬼塚さん、格闘技とかやってはるんどすか? えらい体格よろしおすなぁ」

 

「ああ。柔道と総合格闘技を少し」

 

「へえ、すごいどすなぁ。わてら、そういう力仕事は苦手どすわ。頭使う仕事の方が向いてますさかい」

 

 頭を使う仕事。

 

 その言葉が鬼塚の耳に引っかかった。

 

 暗に格闘技は頭を使わない仕事だと言いたいのではないか。肉体労働者は知性が低いと見下しているのではないか。いや、考えすぎか。素直な感想かもしれない。しかし京都人の言葉には常に裏がある。

 

「俺だって頭は使う」

 

「そらそうどすわなぁ。お仕事されてはるんやし」

 

「何が言いたい」

 

「いえいえ、別に何も。ただの世間話どす」

 

 また世間話だ。京都人の世間話には常に何かが隠されている。少なくとも、鬼塚にはそう感じられた。

 

 蕎麦が運ばれてきた。確かに旨そうな匂いがする。鬼塚は箸を取り、一口啜った。

 

「どうどす? お口に合いますか?」

 

 西園寺が尋ねる。その目には何か期待するような光があった。

 

「旨い」

 

「そうどすか。よかったわぁ。東京の蕎麦とは違いますやろ?」

 

「違うな」

 

「やっぱりなぁ。京都の蕎麦は繊細どすさかい。東京の濃い味付けとは一味違いますえ」

 

 濃い味付け。

 

 その言葉に鬼塚は眉をひそめた。東京の味付けを「濃い」と表現することで「繊細さに欠ける」と言いたいのではないか。京都の方が洗練されていると暗に主張しているのではないか。

 

「東京の蕎麦も旨いぞ」

 

「そうどすか? わて、あんまり東京のは口に合わへんのどすわ。きついいうか、なんいうか」

 

 きつい。

 

 その言葉が鬼塚の中で何かを軋ませた。

 

 東京はきつい。粗野だ。繊細さに欠ける。そう言いたいのだろう。この穏やかな笑顔の裏で東京人を見下しているのだ。

 

「具体的にどこがきついんだ」

 

「え? まあ、味付けとか……」

 

「味付けのどこがきついんだ。塩分か。出汁か。醤油か」

 

 若い職人は困ったような顔をした。西園寺が助け船を出す。

 

「まあまあ、お兄さん。好みの問題どすさかい。そない突き詰めんでも」

 

「俺は突き詰めたいんだ。曖昧な批判は嫌いなんでな」

 

 店内の空気が重くなった。他の客がこちらを見ている。鬼塚は気にしない。

 

「批判やなんて。そんなつもりはあらしまへんえ」

 

 西園寺が言った。その声は相変わらず穏やかだが目の奥には何かが潜んでいる。警戒心か、苛立ちか、それとも軽蔑か。

 

「つもりがなくても、そう聞こえるんだ」

 

「そうどすか。それは申し訳ないことどしたなぁ」

 

 申し訳ない。

 

 本当にそう思っているのか。その言葉すら、鬼塚には疑わしく感じられた。京都人の「申し訳ない」は本当の謝罪なのか、それとも単なる社交辞令なのか。

 

 鬼塚は蕎麦を黙々と食べ続けた。

 

 味は確かに旨い。しかしこの土地で食べるすべてのものがどこか皮肉な味がするように感じられてならなかった。

 

 ◆

 

 現場視察を終え、鬼塚は一人で祇園の街を歩いていた。

 

 夕暮れの光が古い町並みを琥珀色に染め、どこからか読経の声が聞こえてくる。観光客の姿もちらほら見え、外国語が飛び交っている。

 鬼塚は疲れていた。肉体的な疲労ではない。精神的な消耗だ。

 

 一日中、京都弁を聞き続けた。その一つ一つの言葉に裏があるのかないのか考え続けた。皮肉なのか、素直な感想なのか、判別しようとし続けた。

 結果として、何も分からなかった。分かったのは自分がこの土地の言葉を理解できないということだけだ。

 

「えらいお疲れのようどすなぁ」

 

 声は右手から聞こえた。

 

 振り向くと、茶屋の前に座る老婆がこちらを見ている。八十は超えているだろうか。深い皺が刻まれた顔にしかし目だけは妙に若々しい光を宿していた。

 

「ああ」

 

「お仕事どすか?」

 

「そうだ」

 

「東京からいらしたんどすなぁ。大変どすわ、京都は」

 

 老婆はにやりと笑った。その笑みに鬼塚は何かを感じ取る。

 

「何が大変なんだ」

 

「そらあ、いろいろと。言葉とか、習慣とか」

 

「言葉がどうかしたのか」

 

「ふふ、お兄さん、正直なお方どすなぁ。顔に出てはりますえ」

 

 顔に出ている。

 

 その言葉に鬼塚は自分の表情を意識した。確かに眉間に皺が寄っているだろう。口元も引き結ばれているはずだ。隠すつもりはなかった。

 

「何が顔に出てる」

 

「京都弁が苦手や、いうんが」

 

 老婆は歯のない口を開けて笑った。その笑いには嘲りがあるのか、親しみがあるのか、鬼塚には判別がつかない。

 

「苦手というか、分からないんだ」

 

「そうどすか。まあ、分からへんのも無理ないわ。うちらかて、わざと分かりにくう言うてますさかい」

 

 わざと。

 

 その言葉に鬼塚の目が見開かれた。

 

「わざとだと?」

 

「そうどす。京都いうとこはほんまのこと言わへんのが礼儀どすさかい。思てることをそのまま言うんははしたないんどす」

 

「つまり、嘘をつくのが礼儀だと」

 

「嘘やのうて、配慮どす。相手を傷つけへんように遠回しに言うんが京都のやり方どす」

 

 配慮。

 

 その言葉を鬼塚は噛み締めた。

 

 配慮か。しかしその配慮とやらが自分を苛立たせているのだ。何を考えているのか分からない。本音が見えない。常に疑心暗鬼にさせられる。

 

「俺には合わない」

 

「そうどすか。まあ、合う合わへんは人それぞれどすわなぁ。でもな、お兄さん」

 

 老婆は身を乗り出した。その目が妙に鋭く光っている。

 

「京都で暮らすんやったら、慣れるしかあらしまへんえ。慣れへんかったら、こっちがおかしなってまいますさかい」

 

 おかしくなる。

 

 その言葉が鬼塚の胸に突き刺さった。

 

 ◆

 

 その夜、鬼塚は居酒屋で一人酒を飲んでいた。

 

 カウンターの隅に座り、日本酒を煽る。隣では地元の客らしい男たちが京都弁で談笑している。その声が酒で鈍った鬼塚の神経を少しずつ削っていく。

 

「ほんま、あの課長はアホやわ」

 

「アホ言うたらあかんえ。あの人はあの人なりにようやってはりますやん」

 

「そらあそうやけど、なんかこう、ずれてるんやなぁ」

 

「ずれてる言うたら語弊があるわ。独創的言うた方がええんちゃう?」

 

 笑い声が響く。

 

 鬼塚は盃を置いた。

 

 独創的。アホのことを独創的と言い換える。それが京都流のコミュニケーションなのだろう。本音を隠し、婉曲的に表現する。相手を傷つけないための配慮。

 しかしそれは同時に何も信じられなくなるということではないのか。

 

「お兄さん、もう一杯どうどす?」

 

 カウンターの向こうから、店主が声をかけてきた。五十代くらいの男で額に深い皺が刻まれている。

 

「ああ」

 

「東京から?」

 

「そうだ」

 

「お仕事で?」

 

「ああ」

 

「大変どすなぁ。京都は」

 

 また同じ言葉だ。「大変どす」。鬼塚は今日、何度この言葉を聞いただろうか。そしてそのたびに「何が」大変なのかを問い返してきた。

 

「何が大変なんだ」

 

 店主は微かに笑った。

 

「そらあ、いろいろと。慣れへんこともあるやろし」

 

「慣れないのは確かだ」

 

「ほうどすか。まあ、そのうち慣れはりますえ。京都いうとこは住めば都どすさかい」

 

 住めば都。

 

 その言葉の裏には何があるのだろう。本当に「慣れる」と言いたいのか。それとも「慣れないなら出ていけ」という意味なのか。あるいは純粋な励ましなのか。

 

 鬼塚には分からない。分からないから、苛立つ。苛立つから、また分からなくなる。悪循環だった。

 

「なあ、店主」

 

「はい?」

 

「京都人は本音を言わないのか」

 

 店主の目が一瞬、鋭くなった。しかしすぐに穏やかな表情に戻る。

 

「本音どすか。まあ、言わへんいうか、言い方が違ういうか」

 

「違うとは」

 

「東京の人は思たことをそのまま言いはるやろ? でも、うちらは違うんどす。相手の顔を立てて、遠回しに言うんがええ言い方いうもんどす」

 

「遠回しに言って、伝わるのか」

 

「伝わりますえ。京都の人同士やったら」

 

 京都の人同士。

 

 つまり、よそ者には伝わらないということだ。鬼塚は東京人であり、この土地の言葉を解さない。永遠に外部者のままなのだ。

 

「俺には無理そうだな」

 

「そうどすか。まあ、無理せんでもええんちゃいますか。お兄さんはお兄さんのままでええと思いますえ」

 

 その言葉は慰めなのか、突き放しなのか。鬼塚には判別がつかなかった。

 

 酒を飲み干し、店を出る。夜の祇園は昼間よりも静かで提灯の灯りが石畳に影を落としている。

 

 鬼塚は歩きながら、自分の中で何かが変質していくのを感じていた。

 

 ◆

 

 翌日から、鬼塚の様子は明らかにおかしくなった。

 

 現場に着くと、誰の言葉も信じられなくなっている自分に気づく。職人が「順調どす」と言えば、「本当は遅れているのではないか」と疑う。「問題ありまへん」と言われれば、「実は大問題があるのではないか」と勘繰る。

 

 すべての言葉が裏返しに聞こえ始めていた。

 

「鬼塚さん、顔色悪いどすなぁ。大丈夫どすか?」

 

 若い職人が声をかけてきた。その言葉も、鬼塚の耳には別の意味に聞こえる。

 

 顔色が悪い。つまり、みっともないと言いたいのではないか。邪魔だから帰れと暗に示唆しているのではないか。

 

「何が大丈夫なんだ」

 

「え? いや、体調が悪そうやなぁ思うて」

 

「体調は問題ない。仕事の話をしろ」

 

 職人は怯えたような顔をして、西園寺の方を見た。西園寺がゆっくりと近づいてくる。

 

「お兄さん、ちょっと休まはったらどうどす? 無理は禁物どすえ」

 

 無理は禁物。

 

 その言葉も、鬼塚には皮肉に聞こえた。お前には無理だ。能力が足りない。そう言われているような気がしてならなかった。

 

「俺に無理だと言いたいのか」

 

「そんなこと言うてまへんえ。ただ、お体が心配で」

 

「心配などするな。余計な世話だ」

 

 西園寺の目が細くなった。

 

「お兄さん、ちょっと落ち着きなはれ。何を怒ってはるんか分かりまへんけど」

 

「分からないだと?」

 

 鬼塚の声が大きくなった。現場の職人たちが手を止め、こちらを見ている。

 

「お前たちの言葉が分からないんだ。何を言っているのか、本当のことを言っているのか、嘘をついているのか、何も分からない」

 

「嘘なんかついてまへんえ」

 

「本当か? 『順調です』は本当に順調なのか? 『問題ありません』は本当に問題がないのか? 『大丈夫です』は本当に大丈夫なのか?」

 

 西園寺は黙って鬼塚を見つめていた。その目には同情とも軽蔑ともつかない複雑な光が宿っている。

 

「お兄さん」

 

「何だ」

 

「少し、お休みになった方がよろしおすなぁ」

 

 その言葉が鬼塚の中の何かを完全に壊した。

 

 ◆

 

 人はどの瞬間に狂気へと転落するのだろう。

 

 鬼塚剛志にとって、その瞬間は西園寺の「お休みになった方がよろしおすなぁ」という言葉だった。表面上は気遣いの言葉だ。体調を心配し、休息を勧める。それだけのことだ。

 

 しかし鬼塚の脳はその言葉を別の意味に翻訳した。

 

 ──お前は邪魔だ。消えろ。能無しが。

 

 もちろん、西園寺はそんなことを言っていない。純粋な気遣いだったかもしれない。しかし三日間にわたって蓄積された疑心暗鬼と猜疑心が鬼塚の認知を歪めていた。

 

 拳が動いたのは意識するより先だった。

 

 鬼塚の右ストレートは西園寺の顔面を正確に捉えた。六十代後半の痩せた男の体はその一撃で数メートル吹き飛び、資材置き場の木材に激突する。

 

 鈍い音がした。

 

「え……」

 

 若い職人が声を漏らす。現場の時間が止まったかのように誰も動けなかった。

 

 西園寺は倒れたまま動かない。その顔面は陥没し、鼻から大量の血が流れている。目は半開きのまま虚空を見つめ、口からは泡のようなものが漏れていた。

 即死だった。

 

「な、何してはるんですか……」

 

 若い職人が震える声で言った。その言葉も、鬼塚の耳には皮肉に聞こえる。

 

「何してはる」だと? 見れば分かるだろう。殴ったのだ。殺したのだ。それなのにわざわざ「何してはる」と聞くのは馬鹿にしているからではないのか。

 

「分かってるくせになぜ聞く」

 

「ひ、ひえっ……」

 

 職人が後ずさる。鬼塚は一歩踏み出した。

 

「お前も、いつも遠回しな言い方をするな」

 

「す、すみません、許してください……」

 

「許す? 何を許すんだ。俺は何も怒っていない」

 

 嘘だった。怒っていた。いや、怒りという言葉では足りない。憎悪、嫌悪、殺意。そういった感情が胸の奥でマグマのように煮えたぎっている。

 

「お前、さっき俺に何て言った?」

 

「え? な、何も……」

 

「『顔色悪いどすなぁ』と言っただろう。あれはどういう意味だ」

 

「い、意味って、そのまま……体調が心配で……」

 

「嘘をつくな」

 

 鬼塚が一歩踏み出すと、職人は転んだ。尻餅をついたまま、後ろに這いずる。

 

「本当です、本当に心配しただけで……」

 

「本当か? 本当に『本当』か? お前たち京都人の『本当』はどこまで本当なんだ」

 

 哲学的な問いだった。しかし鬼塚にはそれを議論する余裕がない。

 

「俺には分からないんだ。お前たちの言葉が。だから」

 

 拳を振り上げる。

 

「分からないものは消すしかない」

 

 職人の悲鳴が現場に響いた。しかしそれは途中で途切れる。鬼塚の拳がその頭蓋を粉砕したからだ。

 赤い飛沫が周囲に飛び散り、鬼塚の顔にもかかった。生温かい感触。鉄の匂い。

 

「……ふう」

 

 深呼吸をする。不思議と気分が晴れていた。

 

 分からないものを消した。それだけでこんなにも心が軽くなるものなのか。

 

 ◆

 

 現場にはまだ三人の職人が残っていた。

 

 彼らは西園寺と若い職人の死体を見て、凍りついている。逃げることもできず、叫ぶこともできず、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 

「さて」

 

 鬼塚は血に濡れた拳を振りながら、三人に向き直った。

 

「お前たちにも聞きたいことがある」

 

 誰も答えない。当然だろう。目の前で二人が殺されたのだ。正常な反応である。

 

「俺が今日、現場を見て回ったとき、お前たちは『問題ありません』と言った。あれは本当だったか?」

 

 沈黙。

 

「答えろ」

 

「ほ、本当どす……」

 

 一番年嵩の職人がかろうじて声を絞り出した。六十歳くらいの男で顔は蒼白に変わっている。

 

「本当か」

 

「ははい……」

 

「ならば、なぜ昨日は『ちょっと難しいところがある』と言った? 難しいところがあるなら、問題があるということではないのか?」

 

「そ、それは……難しいいうんは不可能やないいう意味で……」

 

「つまり、嘘だったのか」

 

「う、嘘やないです。ニュアンスの問題で……」

 

「ニュアンス」

 

 鬼塚は歩み寄った。

 

「俺はニュアンスというものが嫌いなんだ。白か黒か。真か偽か。それだけでいい。グレーは要らない」

 

「す、すみません……」

 

「謝るな。謝られると、余計に分からなくなる」

 

 鬼塚の拳が男の腹に突き刺さった。

 

 内臓が破裂する感触が拳を通じて伝わってくる。男は血を吐きながら崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 

 残り二人。

 

「逃げないのか」

 

 鬼塚が尋ねると、二人は互いに顔を見合わせた。その視線の交換には何か意味があるのだろう。京都人特有の、言葉を使わないコミュニケーション。

 

「……何を目配せしている」

 

「い、いえ、何も……」

 

「嘘をつくな」

 

 また一人が死んだ。首を掴まれ、そのまま捻り折られた。骨が砕ける音が静かな現場に響く。

 

 最後の一人が残った。四十代くらいの男で顔は恐怖で歪んでいる。

 

「お前に聞く」

 

「ははい……」

 

「俺のことをどう思っている」

 

 男は言葉に詰まった。答えに窮しているのか、それとも言葉を選んでいるのか。

 

「正直に言え。遠回しな言い方は要らない」

 

「こ、怖い……です……」

 

「怖い。それだけか」

 

「ははい……」

 

「嘘だろう。本当は他にも思っていることがあるはずだ。粗野だとか、野蛮だとか、頭が悪いとか」

 

「そ、そんなこと……」

 

「思っていないと言えるか? 本当に?」

 

 男は何も答えられなかった。

 

「やはりな」

 

 鬼塚の拳が男の顔面を潰した。

 

 ◆

 

 現場には五つの死体が転がっていた。

 

 鬼塚は深呼吸をしながら、その光景を眺める。血の海。散らばった肉片。飛び散った脳漿。およそ正気の沙汰ではない。

 しかし不思議と罪悪感はなかった。

 

 むしろ、清々しい気分だった。

 

 ずっと胸につかえていたものが取り除かれたような感覚。分からないものを消した。それだけでこんなにも解放された気分になれるとは思わなかった。

 

 しかしまだ終わりではない。

 

 京都にはまだたくさんの京都人がいる。あの婉曲的な、回りくどい、皮肉めいた言い回しをする人々がこの街の至る所に潜んでいる。

 

「全員、消さなければ」

 

 鬼塚は呟いた。

 

 血に濡れたシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になる。隆起した筋肉が夕陽の光を受けて輝いていた。その姿は古代の戦士のようであり、あるいは狂気に囚われた獣のようでもあった。

 

 現場を後にし、街へと向かう。

 

 目的地は祇園だ。あの花街には京都の「本質」が凝縮されている。舞妓、芸妓、老舗の女将、茶屋の亭主。彼らはきっと、最も洗練された京都弁を操るに違いない。

 

 そして最も分かりにくい皮肉を言うに違いない。

 

「楽しみだ」

 

 口元に笑みが浮かんだ。それは狂気の笑みだった。

 

 ◆

 

 祇園の花見小路に着いたのは日が沈んでからだった。

 

 提灯の灯りが石畳を照らし、どこからか三味線の音色が聞こえてくる。観光客の姿も見え、外国語が飛び交っている。

 鬼塚は上半身裸のまま、その中を歩いていた。血に汚れた腕と胸。常人の二倍はある筋肉。その異様な姿に道行く人々が悲鳴を上げて逃げていく。

 

「あら」

 

 声が聞こえた。

 

 振り向くと、茶屋の前に座る老婆がこちらを見ている。昨日会った、あの老婆だった。

 

「お兄さん、えらいことになってはりますなぁ」

 

「ああ」

 

「お仕事、うまいこといかへんかったんどすか?」

 

 その言葉に鬼塚は立ち止まった。

 

「何がうまいこといかなかったんだ」

 

「いえいえ、そのお姿見たら、なんかあったんやなぁ思うて」

 

「何があったと思う」

 

 老婆は歯のない口を開けて笑った。

 

「さあ、うちにはわかりまへんなぁ。でも、お兄さんの顔見たら、なんとのう分かりますえ」

 

「何が分かる」

 

「ふふ、それはお兄さんが一番よう知ってはるやろ」

 

 また遠回しな言い方だ。鬼塚の眉間に皺が寄る。

 

「はっきり言え。俺のことをどう思っている」

 

「どう思ってる言われましてもなぁ。初めてお会いしたお方どすし」

 

「嘘をつくな。お前は昨日、俺に言っただろう。『慣れへんかったら、こっちがおかしなってまいます』と。つまり、俺がおかしくなると予言していたんだ」

 

 老婆の目が細くなった。

 

「予言やなんて。ただの世間話どすえ」

 

「世間話。お前たちの世間話には常に裏がある。今回も同じだ。お前は俺がこうなることを知っていた」

 

「そんな大層なこと、知ってるわけあらしまへん。うちはただのおばあやし」

 

「ただのおばあ。それも嘘だろう。お前は何者だ」

 

 鬼塚が一歩踏み出す。老婆は動かない。逃げる素振りも、怯える様子も見せない。

 

「お兄さん、ちょっと落ち着きなはれ」

 

「落ち着いている」

 

「そうどすか。ほな、うちに何をしはるつもりどす?」

 

 その問いに鬼塚は答えに窮した。

 

 何をするつもりなのか。殺すつもりなのか。この老婆を殺して、何になるのか。

 

「……分からない」

 

「ほらな。お兄さん、自分でも分かってへんのどす。何がしたいんか、何が嫌なんか」

 

「京都弁が嫌いなんだ」

 

「京都弁いうか、分からへんのが嫌いなんやろ?」

 

 その言葉が鬼塚の胸に突き刺さった。

 

「……ああ」

 

「ほなら、なんで分かろうとせえへんの?」

 

「分かろうとした。でも、分からない」

 

「分かろうとするんと、分からへん言うて諦めるんとは違いますえ」

 

 老婆は立ち上がった。小柄な体が鬼塚を見上げる。

 

「お兄さん、うちらの言葉は確かに分かりにくい。でもな、それには理由があるんどす」

 

「理由?」

 

「傷つけへんためどす。相手の顔を立てて、角が立たへんように遠回しに言うんがうちらのやり方どす。嘘やのうて、優しさなんどすえ」

 

 優しさ。

 

 その言葉を鬼塚は噛み締めた。

 

「優しさだと? 俺にはそう感じられなかった」

 

「そうどすか。それは残念どしたなぁ」

 

 老婆は微笑んだ。その笑みには確かに優しさのようなものが含まれている。少なくとも、鬼塚にはそう見えた。

 

「でもな、お兄さん」

 

「何だ」

 

「人を五人も殺してもうたら、もう引き返されへんのとちゃいますか」

 

 その言葉に鬼塚は凍りついた。

 

 五人殺した。そうだ、殺した。もう取り返しがつかない。

 

「……そうだな」

 

「ほな、どうしはるんどす?」

 

「分からない」

 

「また分からへんどすか。お兄さんはほんまに分からへんことが多いお方どすなぁ」

 

 その言葉には明らかに皮肉が含まれていた。

 

 鬼塚の中で再び何かが軋んだ。

 

 ◆

 

 結局、老婆は殺した。

 

 最後まで微笑みを浮かべていた。首を絞められながらも、その目には何か達観したような光があった。

 まるでこうなることを分かっていたかのように。

 

「くそっ」

 

 鬼塚は死体を放り出し、通りに出た。

 

 祇園の街は騒然としていた。悲鳴が響き、人々が逃げ惑っている。誰かが警察に通報したのだろう。遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。

 

 しかし鬼塚は止まらない。

 

「まだだ。まだ終わっていない」

 

 次の標的を探して歩く。茶屋の暖簾をくぐり、中にいた女将を見つけた。

 

「あら、お客さん、えらいお姿で……」

 

「黙れ」

 

「え?」

 

「何か言いたいことがあるなら、はっきり言え」

 

 女将は困惑した表情を浮かべた。五十代くらいの女で着物姿が上品な雰囲気を醸し出している。

 

「何か言いたいことって、何のことどすか……」

 

「俺の格好を見て、何か思っただろう。血まみれで上半身裸で明らかにおかしい。そう思っただろう」

 

「ま、まあ、確かに……」

 

「なら、なぜそう言わない。『あんた頭おかしいんちゃうか』と、なぜ言わない」

 

「そ、そんなこと、言えまへんがな……」

 

「なぜ言えない。それが本音なら、言えばいい」

 

 女将の顔が強張った。

 

「本音を言え。俺のことをどう思っている」

 

「こ、怖い……」

 

「怖い。それだけか」

 

「ははい……お願いどす、何もせんといて……」

 

「何もしないでくれ、か。それも遠回しな言い方だな。『出ていけ』と言えばいいのに」

 

「そ、そういうつもりやないんどす……」

 

「つもりがなくても、そう聞こえる。俺にはそう聞こえるんだ」

 

 鬼塚は一歩踏み出した。

 

「お前も消してやる」

 

 女将の悲鳴は短かった。

 

 ◆

 

 茶屋を出ると、通りには警官の姿があった。

 

 三人の制服警官がこちらに向かって来る。拳銃を構えている者もいる。

 

「止まれ。両手を頭の後ろに」

 

 京都弁ではない。標準語だ。おそらく、他県からの応援だろう。

 

 鬼塚は止まった。しかし両手を上げる気はない。

 

「お前たち、東京の言葉を話すな」

 

「何を言っている。両手を上げろ」

 

「ああ、いい。分かりやすい。命令なのか、要請なのか、はっきりしている」

 

 警官たちが困惑した表情を浮かべる。

 

「頭がおかしいのか、この男は……」

 

「おかしいかもしれないな。でも、お前たちの言葉は分かりやすい」

 

 鬼塚は微笑んだ。

 

「だから殺す気にはならない」

 

 その言葉に警官たちは一瞬戸惑った。その隙を突いて、鬼塚は脇道に飛び込んだ。

 

「待て。止まれ」

 

 銃声が響いた。しかし弾は当たらない。鬼塚の動きはその巨体からは想像できないほど素早かった。

 

 狭い路地を駆け抜ける。背後から追ってくる足音。サイレンの音が近づいている。

 

 もう逃げられないかもしれない。

 

 しかし逃げるつもりはなかった。

 

 まだ、殺し足りない。

 

 ◆

 

 路地を抜けると、そこは鴨川の河川敷だった。

 

 月明かりが水面に反射し、銀色の光を投げかけている。川のせせらぎが遠くのサイレンと混ざり合う。

 

 河川敷には数人の若者がたむろしていた。大学生らしい男女が缶ビールを片手に談笑している。

 

「おい、あの人、なんやえらい格好で……」

 

「ほんまや。上半身裸やん。変態ちゃう?」

 

「シーッ、聞こえるえ」

 

 鬼塚は彼らに近づいた。

 

「お前たち、京都人か」

 

 若者たちは顔を見合わせた。困惑と恐怖が入り混じった表情。

 

「え、ま、まあ……地元やけど……」

 

「京都弁を話すのか」

 

「そら、話しますけど……」

 

「ならば」

 

 鬼塚は拳を握りしめた。

 

「お前たちも消さなければならない」

 

 若者たちが悲鳴を上げて逃げ出した。しかし鬼塚の足は速い。最初の一人に追いつき、その背中に拳を叩き込んだ。

 

 脊椎が砕ける音。若者は前のめりに倒れ、動かなくなった。

 

 二人目は川に飛び込もうとしていた。鬼塚は足首を掴み、引きずり戻した。

 

「離して。お願いやから離して」

 

「お願いだから。それも遠回しな言い方だな。『死にたくない』と言えばいいのに」

 

「死にたくない。死にたくないです。お願い」

 

「遅い」

 

 鬼塚の拳が若者の頭蓋を砕いた。

 

 三人目、四人目と、次々に殺していく。

 

 最後の一人は女だった。二十歳くらいの、化粧の薄い女。恐怖で顔を歪めながら、後ずさりしている。

 

「あんた、なんでこんなことするん……」

 

「なんで。理由を聞きたいのか」

 

「聞きたい……分からへん……なんで……」

 

「俺も分からない。ただ、お前たちの言葉が分からなくて、それが嫌でだから消したくなった」

 

「言葉……? うちら、何か悪いこと言うた……?」

 

「分からない。言ったかもしれないし、言ってないかもしれない。ただ、お前たちの言葉には常に裏がある気がして、それが嫌だった」

 

 女の目から涙がこぼれた。

 

「うち、何も裏なんかないよ……ほんまに何もない……」

 

「本当か」

 

「本当や……信じて……」

 

 鬼塚は女の顔を見つめた。

 

 涙に濡れた目。震える唇。恐怖に歪んだ表情。

 

 そこに嘘があるようには見えなかった。

 

「……そうか」

 

 拳を下ろす。

 

「逃げろ」

 

「え……」

 

「早く逃げろ。警察が来る前に」

 

 女は信じられないという顔をしたがすぐに立ち上がり、河川敷を駆けていった。

 

 その後ろ姿を見送りながら、鬼塚は呟いた。

 

「なぜ、あの女だけは信じられたのだろう」

 

 答えは分からなかった。

 

 ◆

 

 警官隊に包囲されたのはそれから十分後のことだった。

 

 河川敷は投光器の光で昼間のように照らされ、数十人の警官が銃を構えている。ヘリコプターの音も聞こえる。

 

「投降しろ。両手を上げて、ゆっくりこちらに歩け」

 

 拡声器からの声は相変わらず標準語だった。

 

 鬼塚は立ち尽くしたまま動かない。

 

「繰り返す。投降しろ。抵抗すれば発砲する」

 

 発砲か。

 

 それでいい。

 

 鬼塚は微笑んだ。

 

「俺は何人殺したんだろうな」

 

 誰に向けるでもなく呟く。

 

 現場で五人。老婆。女将。若者たち。正確な数は分からない。十人は超えているだろう。

 

「京都弁が嫌いだから殺した」

 

 馬鹿げた理由だ。自分でも分かっている。

 

 しかし後悔はなかった。

 

 いや、後悔がないというのも正確ではない。後悔する余裕がなかった。頭の中が真っ白で何も考えられない。

 

「投降しろ。これが最後の警告だ」

 

 鬼塚は一歩踏み出した。

 

 警官隊に向かって歩き出す。

 

「止まれ」

 

 止まらない。

 

「止まれ。発砲するぞ」

 

 止まらない。

 

 銃声が響いた。

 

 最初の弾は左肩に命中した。激痛が走る。しかし足は止まらない。

 

 二発目、三発目と弾が体を貫く。血が噴き出し、肉が裂ける。

 

 それでも歩き続けた。

 

「化け物か……」

 

 誰かが叫んだ。

 

 化け物。そうかもしれない。人を殺しすぎた。もう人間ではないのかもしれない。

 

 膝が折れた。

 

 地面に倒れ込む。冷たい草の感触。夜空には月が浮かんでいる。

 

「ああ」

 

 声が漏れた。

 

「結局、何も分からなかったな」

 

 京都弁の意味。裏に隠された真意。皮肉なのか、素直な感想なのか。

 

 最後まで何も分からなかった。

 

「でも」

 

 血を吐きながら、呟く。

 

「分からなくてもよかったのかもしれない」

 

 老婆の言葉が蘇る。

 

「分かろうとするんと、分からへん言うて諦めるんとは違いますえ」

 

 そうだ。

 

 俺は諦めた。

 

 分かろうとすることを放棄して、分からないものを消すことを選んだ。

 

 それは間違いだった。

 

「今さら、気づいても遅いか」

 

 笑いが漏れた。血混じりの苦い笑いである。

 

 意識が遠のいていく。

 

 最後に見えたのは満月の光だった。

 

 京都の夜空に浮かぶ、冷たい月であった。

 

(了)

 

 


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