───日常の崩壊というのは、唐突に舞い降りるものだ。
きっかけというのは些細な偶然の積み重なりでしかない。
脱兎の乗っていた電車が、突如として踏切に飛び出してきた車と衝突する事故を起こした。
脱線。先頭車両横転。周辺への影響は大きい。多くの人の悲鳴と通報と共に、救助活動は始まった。
───短くも、長い救助活動の結果、死者は出なかった。
それもさまざまな偶然の連なりだろう。運良く人が潰れなかった。運良く乗り合わせた人が少なかったを運良く消防署が近かった。
奇跡だ。SNS、マスコミ、人々は口々にそう思った。
が、誰しもにとってのハッピーエンドではない。
死者がいない。その実体の裏では、多くの重症者や重体の者がいた。
脱兎も、そのうちの1人だった。
彼女も『奇跡的に』命を取り留めた。
しかし、後頭部への強い強打、もしくは目の損傷か。
脱兎の目は、光を捉えることは無くなった。
彼女の『人生』への影響は大きかった。
女優を目指し、事務所に所属する彼女のボディイメージへの傷は、ビジュアルを重視する芸能界にとっては痛烈な痛手であった。
また、彼女とその周囲の人間への負担も大きかった。高額療養費制度等の医療保険制度の利用や、介護認定などを行い負担割合は大きく減るも、0にはならない。その上、彼女が日常生活に復帰するには、リハビリや補助具の購入が必要になる。
彼女自身も、彼女の家族にも、彼女があった傷というのは重くのしかかっていた。
いつも能天気に振る舞っていた脱兎。初めは彼女も周りを心配させまいと笑顔を振り撒く。
その光さえ見ることができない目で演じる笑顔に、果たしてどれだけ周りを明るくすることができようか?
目は見えずとも耳から聞こえる状況。
自分がどれだけ迷惑をかけているのか、想像した。
いつしか脱兎は、偽りの笑顔すら作れなくなった。
「姉貴」
ある日、盲目の脱兎のもとをzukiが訪れる。
「ひっあっ…ごめんなさい…ごめんなさい…」
「…………」
目元を包帯で覆い、ベッドの上で横になっていた脱兎は、zukiの言葉に鋭く反応して謝罪の言葉を反芻する。
自己肯定感は下がり切り、些細な反応にすら末尾に謝罪の言葉がへばりつく。
そんな脱兎の姿に、zukiは眉間に皺を寄せ、鎮痛な表情を浮かべていた。
「話があってきた」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
「謝るなって」
「っ、ご、ごめんなさい…」
「…………」
話をしようにも、謝罪に気を取られて進まない。そんな状況にzukiはさらに眉間に皺を寄せた。
きっと、周りの人間がその顔見れば多少の間が生まれるだろう、そんな表情だった。
けれど、目の前にいるのは、盲目の存在だった。
「…………俺、ここに住む」
「え…?」
「ここに住んで、姉貴の面倒見ることにした」
zukiは脱兎に、そう告げた。
zukiに対し、親族とは思えぬ歪んだ愛情を向け続けてくる鬱陶しい従姉弟の脱兎。
それも事故を境目に減り、なくなり、代わりに謝罪の回数が増えていく。
そんな姉貴の姿が見てられない。
見ていていた堪れなくなる。
そんな思いからzukiは脱兎の介護役を、自身から買って出たのだった。
「…zuki、ごめんね…」
「だから謝るな、それにこれは俺が決めたことだ」
「ごめんなさい…」
そんなやり取りをして、zukiは前途多難だなと思わざるを得なかった。
それから、zukiによる介護生活は始まった。
脱兎にとって、zukiはまるで盲導犬の代わりのようであった。
zukiが外へと連れ出し、先導し、危険を予測し、共にある。
zukiは脱兎に話しかけ続けた。できる限り、以前までの脱兎と同じように接するように言葉を選び、態度を選び、感情を選び抜いた。
…………その甲斐だろうか。
「はぁ^〜zukiの指はえっちだねぇ」
「ころすぞ」
脱兎はzukiの側にいるという限定的な環境であれば、以前のような感情を取り戻していた。
脱兎の言葉に対し、辛辣な言葉を返すzuki。しかしその表情には、言葉の額面通りの表情ばかりではなかった。
彼の顔色とは関係なく。
ある日のこと。zukiは学業のためにどうしても脱兎の側に居られないときがある。
この日もそうだった。
「…?」
脱兎の耳に、微かに言葉が聞こえてくる。
盲目になった脱兎の聴覚は、その代償機能として事故前に比べ外部の音に対し敏感になっていた。
それが起こした『奇跡』の『代償』だったのかもしれない。
耳に聞こえる言葉。それは、訪問看護師と家族との会話だった。
「そうでしたか。前回に比べ体重も食事量も減っているようですね…」
「えぇ。学校でもフラフラすることが増えたようで。顔色も良くないし…」
「今度zukiくんご本人ともお話しできるようご調整させていただいてもよろしいですか?」
「ええ是非。お願いします…」
「………………」
その会話の内容に、ショックを受けた。
同時に、心当たりがあった。
毎日、脱兎の手を握ってくれているzukiの掌。毎日握っているが故にその変化はわかりづらいが……思い返してみれば、前に比べて少し華奢な手のひらになったと感じる。
zukiに引かれて歩いている時も、どことなく誘導するzukiがフラフラとすることが多くなったと気がする。
じゃあ、なんでzukiがそんな風になっているのか?
─────わたしのせいだ。
「ぉえっ」
zukiの負担になっている自分の存在。
zukiの人生の足枷になっている自分。
zukiの人生を、私がぐちゃぐちゃにしている。
それを認識した時、脱兎は自分の存在に、不快感を覚えずにはいられなかった。
不快な自分に、気分が悪くなる。
思わず、えずいてしまう。
「─────!」
「───!───────!」
同時に、映らない視界にばちりばちりと気分の悪さがスパークする。
思考がぐにゃぐにゃと不定形になる。
周りの声が、はっきりと聞き取れない。
意識が切れる。そう思ったと同時に、形のある思考。
(わたしのせいで。ごめんなさい。ごめんなさい)
「……姉貴」
はぁはぁと息を切らしながらzukiが帰宅する。
帰宅したらzukiの目に映るのは、今朝までの明るい脱兎の姿ではなく、ベッドの上で、表情が剥がれ落ちたかのように過ごす脱兎。
その姿に、まるで事故後の姿が重なり合い、久しぶりに深い皺が眉間に走る。
「…zuki」
zukiの言葉が耳に届いたのか。無表情だった顔にわざとらしい笑顔を貼り付けてzukiの方へと脱兎が顔を向ける。
その仕草に更に深い皺を眉間に寄せる。が、少し呼吸を整えるとその皺はやや浅くなった。
zukiはベッド横にあるもはや自分用と化した椅子に腰掛け、いつものように脱兎の手を握ろうとする。
しかし、脱兎はzukiの手の気配を察知して僅かに手を動かし、それを躱した。
「…!」
脱兎の拒絶とも言える行動に、zukiは目を見開いて驚く。これまで一度もそんなことはなかったが故に、その衝撃は重かった。
「…なんだよ。どうした姉貴?」
「……zukiは、ずっと我慢してたんだね」
「…………」
「私なんかのこと、連れて回るの大変だったでしょ?きっと、私のことで学校でも揶揄われたりしたんじゃない?」
「………………」
それは脱兎が耳にした情報から組み立てた妄言。勝手な想像。
……そうであればよかった。
確かに、普通に歩くよりも盲目の脱兎を連れて歩くのは難しいことがある。自分の誘導にちゃんとついて来れるよう微調整をする。些細な段差ですら命取りになるので、見逃さない。
まだ介護というのに不慣れで若いzukiには、多くの体力と集中力を要した。
さらに学校で揶揄われた、というのも当たっている。
どこから情報が漏れたかはしらないが、絡んだことのない他クラスのグループに言及され、揶揄われたことがあった。
それはそこそこ大きな喧嘩へと発展し、双方怪我をし、結果引き分け痛み分け。それ以降はそのグループからは絡まれることはない。
が、周りの目線は以前とは違う。学生生活に影響は出ていた。
zukiはこの事を脱兎に隠していた。親にも伝えぬように言伝していた。
脱兎がこのことを知れば、また前のように明るさを見せなくなる。そう思ったから。
その考えは当たっていた。
「……ねぇ、zuki」
「……んなっ!?」
脱兎の発言に思いを巡らせ、俯いていたzuki。そんなzukiを呼ぶ脱兎の姿に、zukiは思わず驚愕の声を上げた。
ぷちり、ぷちり。
一つ一つ、脱兎が前開きのパジャマのボタンを外していく。やがて全てのボタンが外れ、素肌があられもなく晒されていた。
脱線事故で負った大きな傷跡が、非常に痛々しく映る。いいや、痛々しい。彼女の儚げな表情も合わさって。
zukiは視線を外したかった。目をさらしたかった。でも、外せなかった。
「zuki、寝る時も私と一緒にいてくれる…。けど、その代わりプライベートな時間ないんじゃない…?だから、その、溜まってるんじゃない? 」
「…………」
「私もうボロボロで傷だらけで、誰もらってくれないだろうしさ。……ねぇ、zukiならいいよ、好きにして。ぐちゃぐちゃにして。
私のこと、
最後まで、
壊して?」
脱兎の表情は微笑みだった。ハリボテのような作りのものじゃない。けれど前のような快活な笑みでもない。
今まで自身に尽くして尽くして尽くしてくれた、その献身に全身全霊で、後のことを考えずに答えようとする姿がそこにはあった。
疲れ果てた体、疲れ果てた思考。集中力に注いでいた理性も疲弊しており、残された本能が脱兎によって刺激される。
そんな思考の赴くまま、zukiはベッドに横たわる脱兎に、手を伸ばす─────
「…………ぇ?」
呑気で、間抜けで、予想外だと言わんばかりの声を、脱兎は漏らした。
脱兎の体に触れる時、zukiはこんどこそ『奇跡』を終わらせると思っていた。
───伸ばされた手が行ったのは、抱擁への引き寄せだった。
「ごめん…ごめん……姉貴……」
両手で抱きしめ、謝罪の言葉を漏らすzuki。
その涙は己への不甲斐なさ。自分が支えるといった癖して、最終的には支えるべき対象の脱兎が、自己犠牲で自分を支えようとしている。
そんな状況に晒されたzukiは、脱兎への申し訳なさに謝罪するしかなかった。
「?、??、???、?、??」
抱きしめられる脱兎の思考を占めるのは困惑だった。
盲目になり、介護され、迷惑をかけ続けているのは自分のはず。その筈なのだが、今起こっている状況はzukiが自分を抱きしめ、謝罪しながら涙を流すというもの。
そんな心優しい弟に比べ、先程の自分の行動が、酷く卑しいことをしていたように思え───
「〜〜〜……───────!!」
脱兎はやがて、zukiの抱擁に応じるように、怯えるように、けれど寂しさへの不安と安心を求めて手を伸ばし、抱き返しながら、声にならない声を上げて泣き始める。
脱線事故に遭った己の『不運』への嘆き。
生き残った『奇跡』への嘆き。
抑え続けていた盲目の自分への自己嫌悪。
そして──zukiへの感謝と謝罪。
それらを解き放つように、安心して脱兎は泣きじゃくる。
部屋のベッドサイドに、姉弟2人。2人は、自分と相手を想い、抱擁にて涙を流す。
次の日から、脱兎は元の明るい様子へと戻った。
zukiもいつもと同じように手を繋ぎ、脱兎を誘導する。
───強いて違いを上げるなら。2人の手を繋ぐその指は、以前より絡み合っていた。