少し肌寒い朝。
真っ青な空のキャンパスにペンキで塗ったような白い巻雲が、朝陽に照らされぼんやりと朱色を帯びている。鳥たちがそんな空の下を飛び回り、一日の到来を告げていた。
鳥たちの眼下の森は延々と続いている。そのうちの一羽、純黒の烏が向かうは地平線の先に見える天に向かって聳え立つ山だ。
──八ヶ岳。この国で一番高い山である。そこにこの烏の主はいた。
「何やら強そうな人が向かって来ている、ですか?」
◇◆◇
「なあ、八ヶ岳って少し南に行ったところじゃなかったのか?」
「紫ちゃんはそう言ってたね」
「少しってなんだ?」
「そんなことわたしに聞かないでよ」
「まあ、そらそうか」
紫からの最初の依頼を受け、〝少し〟南に行ったところに八ヶ岳があると聞いたので、一日で着けるだろうとたかをくくっていたのだが、そんなことはなかった。
方角は間違ってないことは確かなので、単純に遠いのだろう。妖怪基準での〝少し〟とかやめてくれ。すでに一昼夜過ごした後である。
……まあ早く着きたければ、それこそ飛んでいくのが一番早いんだろうけど。雪輝は飛べないみたいだし、根本的に、今俺たちが八ヶ岳に向かっているのは旅の一環だ。そんな旅でわざわざ急ぐ必要があるのか。
というわけでのんびりと俺たちは八ヶ岳への旅路を行く。山中の道なき道を歩いていくのだ。幸いなことにここら辺は比較的平らな地面らしく、足を挫いたりする心配はない。他に危険なことはあるけども。
「あーあ……」
「どしたの」
「あー、いや。もっと早くに着けると思ってたから、なんかやるせない感じがしてさ」
雪輝は一言「ふーん」とだけ返し、空を見上げた。それにつられるようにして俺も空を見上げる。……なんか、鳥が多い。
俄かに増えてきたみたいだ。その数は今も増え続けている。この近くに絶好の餌場でもあるのだろうか。
いや違う。多すぎだ。鳥の数が餌場では説明がつかないほど大きな群れになっている。しかも目を凝らして見てみると、その鳥はただのカラスであるようだ。カラスがあんな群れで行動するなんて聞いたことがない。
これは何か別の要因でカラスが集まっていると考えたほうがいいだろう。厄介なことが起きているような気がした。
「あの鳥、やけに多くない?」
空を見上げていた雪輝も同じように感じていたらしい。確かにあの数は一目見ただけで常軌を逸しているとわかるレベルのものだ。
「……そうだな。良くないことが起きている気がする」
俺は静かにいつ何が起こっても対処できるように、体に緊張感を走らせる。──刹那。数羽のカラスが頭上からこちらへ突貫してきた。
「来たぞ!」
そう言いつつ俺はカラスをすんでのところで躱す。数羽が攻撃を開始したと同時に、他のカラスも臨戦態勢に入り、準備できたものから攻撃をしてきた。幸いなことに、雪輝はある程度自分に向かってくるカラスくらいなら対処できるらしく、俺は自分のことだけに集中できる。
三羽が一気にこちらへ向かってきた。狙いは胴体と、その両傍。横に動いても他の二羽に仕留められるという構図だ。……とは言っても三羽くらいならギリギリまで引きつけて、ジャンプなりなんなりすれば躱せる。
問題はそれ以上の数が来た時である。その時は申し訳ないが、撃ち墜とさせてもらう。それよりも今は三羽のことが優先だ。集中して、ギリギリのその瞬間まで耐える。そしてぶつかるというタイミングでしゃがみこんだ。
綺麗にカラスたちは俺の頭上を通り越し、躱すことに成功した。しかし当然ながらまだ安堵できる暇など存在しない。俺は上空にまだいる数多のカラスを睨めつける。
……その中に、一つだけ人影が見えた。赤い下駄みたいなのを履いていた気がする。瞬きする間に見えなくなってしまったが、確かに俺は見た。アレがこのカラスたちの親玉だろう。ただ躱し続けるだけでは埒があかない。親玉を叩いたほうが絶対に早い。
そう確信した俺は回避行動を続けつつ早速行動に移す。
「雪輝! ちょっとこっちに手ぇ伸ばして!」
少し離れたところで同じように躱していた雪輝に声をかける。彼女は少し戸惑いながらも、まっすぐにこちらに手を出してくれた。俺はそれを確認すると、カラスの攻撃の合間を縫ってその手を掴む。
そして一気に空へと舞い上がった。……隣で悲鳴が上がっているが気にしない。雪輝をお姫様抱っこの要領で抱えながら、件の人影を捜す。もちろんその間もカラスは攻撃してきた。
ただ、空中では俺のほうが速いのでまっすぐ進んでいるだけで攻撃を躱すことができる。そんな流れる景色の中で、俺は人影を見つけた。
「見つけた……!」
すぐさま俺は追いかけようと加速した。だがソレは目にも留まらぬスピードで空の彼方へ消えてしまう。それを追うように、大量にいたカラスも空の彼方へ消えていった。天を貫くように聳え立つ山の向こうへと。
◇◆◇
「くぅ……。強者だとは分かっていましたが、頭もそれなりにキレる人だったとは……」
そう呟く声は風を切る音で掻き消された。
眩い日の本を猛スピードで飛ぶ、人影があった。彼女の名は
彼女は悔しそうに唇を噛み締める。
「……せっかく私の烏が侵入者を見つけてくれたのに」
文は天狗社会においてまだまだ若輩者。そのため少しでも手柄を立てて、上からぐちぐち言われないようにしたい故の行動だった。……とはいえ、天狗社会は年功序列制でもあるので、頑張ったところで限界はあるのだが。それでも同期に大きい顔ができるのは文にとって悪いことではない。
だからこそ、今回の件で未然に山への侵入を防ぐという手柄を立てたかったのだが、敵がただの脳筋ではなかったようで失敗してしまった。
……しかし今考えてみると、彼らが自分たちの山に来る予定ではなかった可能性もある。ただの通り道として山へ向かっていただけかもしれない。そう考えると、あそこで決着しなくてよかった。文は自分を擁護する。
「はあ……。とりあえずあの二人のことを報告するだけしておきましょう」
善は急げ。そう思った文は急いで山へと舞い戻る。自分の手柄を人に奪われる前に、あの二人が来る前に。
◇◆◇
「結局なんだったんだ……? あのカラスたち」
優陽はそれらが消えていった空の彼方を見つめる。その先には今まで見えていなかった大きな山が見えた。……遠くにいてもこちらを圧迫してくるような姿。見紛えようがない。八ヶ岳だ。
自分ではなんだったんだ、と呟いているが、すでに容姿と帰っていった方向から大方の見当はついている。アレは天狗だ。しかもあの大量のカラスを使役しているところを見ると、烏天狗だろう。あの様子じゃ、すでに敵対されているとみて間違いはない。
さて、これから友好的にならねばならないのだが、どうしようか。空中にいることも忘れたまま優陽は熟考する。
だが数秒と経たないうちに、思考の海から強制的に現実へと戻されてしまった。雪輝が優陽の袖をちょいちょいと引っ張ったからである。
「ね、ねぇ。そろそろ下ろしてくれると嬉しいんだけど」
「あ、ごめん」
未だ優陽は彼女を抱えたままだったのである。雪輝はあまり高いところが得意ではないのか、たびたび下を向いては怖そうにぎゅっと目を瞑っていた。
ゆっくりと森に着陸し、下ろしてもらった雪輝は高速で移動していた反動か木にもたれながら、原因となった優陽をちょっぴり睨む。
「何かするなら言ってよ……。死ぬかと思ったじゃん」
「ごめんって。咄嗟だったからな。さすがに雪輝を置いといて人を追っかけるのは心配だったんだよ」
雪輝はそんな優陽の気遣いに、動揺したように視線を逸らす。そんなことも束の間。いろいろな感情を吐き出すように小さく息を吐いて優陽に尋ねた。
「それで、さっきの、何かわかったの?」
「多分だけどな」
あーとかうーとか言葉にならないような声を出してから憂鬱そうに、頭を押さえる彼はもう一度大きくため息を吐いて、非常に残念そうな顔で自らの予想を告げる。
「アレは多分天狗だよ。それも烏天狗」
刹那の間、時間が止まった。雪輝の頭が理解するのを拒む。しかし、すぐに言葉全体の意味を掴んだ。そして驚く。
「えっ? じゃあわたし達あんなのと交渉するの?」
うへぇ、とあからさまに面倒臭そうな表情を浮かべる雪輝。初っ端から敵対されて襲われているのだ。今から親密な関係になるなど望み薄でしかない。
「大丈夫、なの?」
「正直焦ってる。紫にあんなこと言った手前、めそめそ帰るわけにもいかないしなぁ……」
「そうだね……」
あははと乾いた笑いで雪輝は返す。しかし実際は笑っていられないような状況である。もちろんあの人影が天狗ではない可能性もあるのだが、可能性としては五割に満たない。
「とりあえず行こう。また何かあったら、攻撃の意思を持ってないって主張すればいいだけだしな」
「んー、そんなに簡単にいくものなのかな……?」
そして二人はまた歩き出した。目指す先はさっき見えた八ヶ岳である。今までは森の中にいたせいでうまく見えていなかっただけの話らしい。直線距離的にはそう遠くない。
「そういえば、なんで優陽はあの人影が天狗だって思ったの?」
「ああ、えっとな。ぱっと一瞬見えた時に下駄みたいなのを履いてたんだよ。それに帰っていった先はあからさまに八ヶ岳の方向。情報は少ないけど、天狗だって言える証拠が揃ってる」
そっか……、と独り言のように雪輝が呟き、少し大きく見えるようになった八ヶ岳を少し辛そうな目で見る。
「まあ、何とかなるだろ。死ぬことはないさ」
「そんな気楽に言わないでよ……」
さっきだって結構危なかったのに、と彼女は心の中で付け加える。
先ほどの戦闘の中で雪輝は気づいていた。優陽一人であるならば、淡々と避けて、終いにはあの天狗を捕まえることも不可能ではなかったことに。自分に意識を逸らしたから、天狗に悟られ逃げられてしまったことに。
もし、自分がいなかったら。おそらくもっとスムーズにことが運んでいたのだろう。
やはり──。
「大丈夫か? 今にも死にそうな顔してるけど」
そんな雪輝を気にかけて優陽が声をかけた。そこまでひどい顔をしていただろうか、と不安になった雪輝はペタペタと自分の顔を触って確かめる。
「何を気に病んでいるのかはわからないけどさ、お前が気にすることはないぞ? ……多分」
そう言って、ポンと雪輝の肩に優陽は手を置いた。じんわりと彼の温かさを肩に感じる。
すると不思議なことに、さっきまで感じていた不安感が──それこそ春の雪解けのように──スッと解けていった。親に守られているかのような絶対的な安心感。それを感じた。
だからこそ、さっきまでの感情が嘘のように口端から笑みがこぼれたのかもしれない。
「ふふっ。多分って、やめてよ」
「お、やっと笑ったな? 良かった良かった」
からからと笑いながらしっかりと目的地に歩いていく優陽を見ていると、少し胸が高鳴った。
「結局、何も無かったな」
「そうだね。なんか、拍子抜けしちゃった」
結局俺たちは山の麓に着くまで何も起こらなかった。厳密に言えば、警戒自体はされているようだったが直接的な干渉はしてこなかったということである。たまーに視線を感じるから、しっかり監視はしてるんだろうな。賢しい奴らだ。
「でも、そろそろ許してはくれなさそうだよな」
俺が一歩足を前に運ぶと、その着地点あたりの木の葉がさっと舞い上がり、地面には何かによって裂かれたような傷跡が残る。
俺は自分の頬が引き攣っているのを感じながら、足を戻した。さて、どうしよう。
「話は聞いてくれないのかな」
「話が通じるんだったら最初っから警告するから、話かけんのは無理かもな」
「……じゃあ?」
大人しく帰るの? とでも言わんばかりの顔で訊いてくる。そんな訳がない。ここまで歩いてきて帰るのは、なんか悔しい。
……が、帰るという選択肢を除外した俺たちに残された道は強行突破しかない。しかし先ほどの戦闘の様子から鑑みるに、蜂の巣にされて負けるだけな気もする。
「一旦ここから離れよう。向こうの警戒が落ち着いてからもう一回だな」
「そうだね。さすがに今は危なそうだし」
雪輝の同意を得てから俺たちはくるりと踵を返した。一度離れたところに小屋を建てて作戦会議だ。真っ向から立ち向かっても人海戦術でやられるだけである。
もし向こう側に俺の知り合いがいたら、楽なんだけどな。そんな奴全くとして心当たりがない。忘れてるだけかもしれないが。
ともかく。一晩過ごしてからもう一度挑戦しよう。多分、紫を呼べばその辺から出てくるだろうから、悔しいけど知恵を借りることにする。三人寄れば文殊の知恵ってな。
「っとお……」
「考え事のしすぎは良くないと思うよ?」
呆れたような声で雪輝に言われる。
ここが森だということを完全に失念していた。もう少しで木にぶつかっていたところだった。考えすぎも良くない。
「あー、やめだやめだ。考えてもよくわからん」
ぐーっと背筋を伸ばしながら俺はぼやく。いつも通り適当に小屋を建てる能力を付与しながら。
◇◆◇
「なるほど。そんな者らが」
「はい。姿形は人の子のそれですが、その本質はもっと強大です。私が間違っていなければ神の類かと」
文が天狗の長である天魔とそれに連なる幹部に対し、今朝の出来事を事細かに報告する。彼女が〝神の類〟だという発言をしてから少しだけ周囲がざわついたが、偉大な天魔のみ壮年の重みを持った瞳を動揺で揺らすことはなかった。
「して、射命丸よ。そやつらの目的は?」
低くしゃがれた、それでいてドスの効いた声で天魔が問う。
「そこまでは。しかし先ほど、山の麓まで来ていたということでしたので、ここに用があることは確かでしょう」
「わかった。もう出ても良いぞ」
一度深く礼をして文はキビキビとした動きで部屋を出る。独特の緊張感と雰囲気を持った空間から解放された文は、深くため息をついた。
「ふぅ。やはりあの面子と顔を合わせるのは緊張しますねぇ」
誰に聞かれることもなかった独り言は、肌寒い夜の空気へと溶けていった。
次回予告!
すでに大きな壁にぶつかってしまった二人!
紫に相談したらとんでもない作戦を告げられて……?
次回 第二十五話 超えれぬ壁ならまわり道