投票日の朝。
鞄の中には、三日かけて書いた原稿が入っていた。
生徒会室の記録棚から、兄の演説の原稿を見つけたのは、先週のことだ。
高等部一年の秋。兄が初めて会長に立候補した時の、あの演説。
まっすぐで、強くて、誠実な言葉が並んでいた。何度も読み返して、言い回しを真似て、構成を真似て、私の原稿を書いた。
これなら、きっと大丈夫。
兄の言葉は、兄を会長にした言葉なのだから。
「圭〜、パパがスーツ着て見に行こうか?」
「来ないで」
「月の石さんも見に行きたいって」
「絶対に来させないで」
スマホが震えた。
兄からだった。
『勝て』
一言だけだった。
続けて、もう一件。
『いってらっしゃい、圭』
かぐやさんからだった。
私は、スマホを鞄にしまって、玄関の扉を開けた。
九月の終わりの空は、高くて、青かった。
□■□■□
立会演説会は、六時間目だった。
講堂を埋め尽くす全校生徒。壇上の端には、選挙管理の責任者として、伊井野会長が座っている。その隣には、なぜか石上先輩もいた。手伝いらしい。
宝月くんは、推薦人の席にいた。
規定で、演説中の推薦人は、発言できない。
「先攻、一年、藤原萌葉さん」
萌葉が、壇上に立った。
「みなさん、こんにちは! 藤原萌葉です!」
一言で、講堂が明るくなった。
「今日はちょっとだけ、真面目な話をします。……ちょっとだけね!」
笑いが起きる。
「私はずっと、誰かを推すのが好きでした」
萌葉は、講堂を見回した。
「千花姉ぇの推し活に付き合って、友達の恋を応援して。中等部の時は、親友を生徒会長に推しました」
萌葉が、ちらりと私を見た。
「その子は今日、私の対立候補です」
講堂が、どっと沸いた。
「推すのって、楽しいです。誰かが輝いてるのを、一番近くで見られるから。……でも、今日だけは——」
萌葉は、一度だけ、深く息を吸った。
「今日だけは、推される側に立ってみたかった。だから——私を、どうか推してください!」
「「「萌葉! 萌葉!」」」
講堂の後ろの方で、桜色のはっぴの応援団が、一斉にコールを始めた。
「コールは規定違反です!」
伊井野会長が、マイクを掴んで叫んだ。
それでも、拍手は鳴り止まなかった。
萌葉は、壇上で大きく手を振って、それから、私とすれ違う時に、小さく片目をつぶった。
「後攻、一年、白銀圭さん」
□■□■□
壇上に立った。
講堂が、広い。
何百もの顔が、こちらを見ている。
私は、原稿を広げた。
「……一年、白銀圭です」
声が、思ったより小さかった。
「私は、生徒会長として、強く、誠実で、全ての生徒の模範となる——」
読む。兄の言葉を、なぞるように。
「——私は、兄のように」
そこで、止まった。
兄のように。
その一言が、喉に引っかかった。
「…………っ」
——違う!
これは、兄の言葉だ。
兄が、兄のために書いた言葉だ。私が言っても、それは兄の言葉のままで、私の言葉にはならない。
じゃあ、私の言葉って、何だ?
続きが、出てこない。
原稿の文字が、ぼやけて見えた。
一秒。
三秒。
十秒。
講堂が、ざわつき始めた。
「……あれ、どうしたの?」
「固まってる?」
膝が、震えた。
前にも、こんなことがあった。
二年生の先輩に、お兄さんみたいな会長になりたいんですか、と聞かれた時。答えられなかったあの瞬間と似ている。
あの時から、何も変わっていない。
伊井野会長が、時計を見ている。石上先輩が、腰を浮かせかけている。
推薦人の席で、宝月くんが、膝の上で拳を握っていた。規定で、何も言えない。
二十秒。
もう、だめだ——。
「伊井野会長!」
講堂に、声が響いた。
萌葉だった。
候補者席から、萌葉が立ち上がっていた。
「選挙管理規定で、候補者同士の質疑って、演説中でもできましたよね!」
講堂が、しんとなった。
伊井野会長が、萌葉を見た。それから、隣の石上先輩を、ほんの一瞬だけ見た。
石上先輩が、小さく頷いた。
「……規定第十四条。演説中の候補者に対し、対立候補者は質問をすることができる」
会長は、マイクを握り直した。
「許可します」
萌葉が、壇の下まで歩いてきた。
私を、まっすぐに見上げた。
「白銀さん」
それから、ふっと笑った。
「……いえ、圭ちゃん。なんで会長になりたいの?」
一拍。
「原稿じゃなくて」
□■□■□
私は、原稿を見下ろした。
兄の言葉が、びっしりと並んでいる。
それを、私は、そっと閉じた。
講堂が、静まり返る。
「……最初は」
声が、震えた。でも、止めなかった。
「最初は、兄と同じ場所に立ちたかったからです。兄は、一年生の秋にここで会長になりました」
正直に言った。
「でも、兄の言葉じゃ、私は最後まで話せませんでした。……さっき、見ての通りです」
講堂のどこかで、小さな笑い声が起きた。
笑ってもらえて、少しだけ、肩の力が抜けた。
「私は、ずっと、欲しいものを欲しいって言えませんでした」
自分でも驚くくらい、するりと言葉が出た。
「口に出したら、値段がついてしまう気がして。断られたら、それで終わりな気がして。だから、いつも誰かが先に言ってくれるのを、待っていました」
壇の下で、萌葉が、黙ってこちらを見上げていた。
「中等部の会長も、そうでした。対立候補がいなくて、信任投票で、気づいたら会長になっていた。……自分から欲しいって言ったことは、一度もなかったんです」
閉じた原稿を、ぎゅっと握る。
「だから、今日は、言います」
息を吸った。
「私は、生徒会長になりたいです」
講堂の、どこからも、物音がしなかった。
たった一言だった。
膝の震えは、いつの間にか止まっていた。
「計算なら得意です。一円単位で、予算も組めます。でも、数字にできない大事なものを、どう守ればいいのか。私はまだ、ちゃんと分かっていません」
私は、講堂を見渡した。
「だから、分からないまま、一年かけて探したい。……この学校で、会長として」
言えた。
一つ言えたら、次の一つは、もう怖くなかった。
私は、推薦人の席を見た。
「それから——隣にいてほしい人が、いるから」
講堂が、爆発した。
悲鳴と、歓声と、口笛と。マスメディア部のカメラのフラッシュが、壇上を白く染めた。
宝月くんは、ただ、まっすぐにこちらを見ていた。
そして私は、壇の下にいる大親友を見すえた。
「ねえ、萌葉——」
萌葉が、目を瞬かせた。
「私、今日、萌葉に勝ちたい」
講堂が、もう一度、静まり返った。
「譲ってもらうんじゃなくて。信任投票でもなくて。……萌葉に勝って、会長になりたい」
萌葉は、一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
それから、今日一番の笑顔で、拳を突き上げた。
「受けて立つ‼︎」
講堂中が、総立ちになった。
壇上を降りると、膝から力が抜けた。
舞台袖の暗がりで、壁に手をついて、ようやく息をする。
「……白銀さん」
石上先輩が、パイプ椅子を一つ持ってきてくれた。
「座ってください。顔、真っ白っすよ」
「……すみません」
「謝ることないっす」
石上先輩は、照れくさそうに、頭を掻いた。
「白銀先輩の一年の時の演説、僕は聞いてないっすけど。……きっと、今日の方がよかったんだと思います」
私は、パイプ椅子に座ったまま、石上先輩を見上げた。
「……兄には、内緒にしておいてください」
「言えるわけないっすよ。あの人、シスコンなんで」
□■□■□
放課後。本校舎の通路。
開票の結果は、通路の掲示板に貼り出されることになっていた。
掲示板の前には、もう人だかりができていた。
私と萌葉は、その一番前に並んで立っていた。宝月くんと石上先輩は、少し後ろで見守っている。
伊井野会長が、丸めた模造紙を抱えて歩いてきた。
選挙管理の責任者として、自分の手で、それを掲示板に広げる。
四隅を、画鋲で留めていく。
一つ。二つ。三つ。
萌葉が、私の手を握った。
私も、握り返した。
最後の画鋲が、留められた。
『第七十期 生徒会長選挙 開票結果』
『藤原萌葉 二百九十三票』
萌葉の指に、力がこもる。
そして————。
『白銀圭 三百七票』
…………。
『以上の結果により、白銀圭を第七十期生徒会長の当選者とする』
周りから、わっと声が上がった。
十四票。
たった、十四票の差だった。
隣で、萌葉が、ふうっと長い息を吐いた。
「……おめでと、会長」
いつもの声だった。
人だかりのざわめきの中で、私は、萌葉の方を向いた。
「……なんで、なんであの時、助けたの」
「ん?」
「黙ってたら、萌葉の勝ちだったのに」
萌葉は、首を傾げた。
「だって、黙ってる圭ちゃんに勝っても、意味ないもん」
萌葉は、掲示板から一歩離れた。
「私が勝ちたかったのは、本気の圭ちゃんだから。……ま、負けちゃったけどね〜!」
けらけらと笑って、萌葉は人だかりをすり抜け、通路の向こうへ歩いていった。
「ちょっと、顔洗ってくる!」
□■□■□
——とある少女の、五分間。
(あー、負けた。負けちゃった。十四票。くやしいなあ、もう)
(……中二の途中だったなあ。宝月くんが転入してきたの)
転校生には、藤原家の娘が一番に話しかける。
それが私のルール。
だから、一番に話しかけた。
休み時間のたびに、話しかけた。
新しい機械の話も、株の話も、全然分かんなかった。
それでも、聞いてるのが楽しかった。
(けどある日、宝月くんが聞いてきたんだよね〜)
『白銀さんは、どんな人ですか』
……あ、って思った。
彼の目が、いつもどこを追いかけてたのか、その時やっと分かった。
(だから、決めたの。推す側になろうって。圭ちゃんを会長に推して、宝月くんを副会長に推して。二人が並んでるところを、一番近くで見られる場所にいようって)
あの気持ちが、何だったのかは——。
「わっかんないな〜」
分からないままで、いいと思う。
だって、今日の圭ちゃんの顔。私に勝ちたいって言った時の、あの顔。……一番近くで見られたのは、間違いなく、私だったのだから。
「よし。顔、洗い完了!」
□■□■□
萌葉は、五分後に戻ってきた。
前髪が少しだけ濡れていて、目が少しだけ赤くて、それ以外は、いつもの萌葉だった。
「会長! 書記、空いてる?」
「……え?」
「私、書記やりたい! 千花姉ぇとおそろいがいいの!」
私は、思わず笑ってしまった。
「……空いてるよ。だって、それは萌葉の席だから」
□■□■□
九月の最終日。
第六十九期生徒会の、最後の日。
伊井野会長は、引き継ぎの書類の最後のページに、判子を押した。
会長印ではなく、自分の判子を。
ぽん。
『伊井野』
それから、胸元の純金飾緒を外して、私の前に差し出した。
「白銀さん」
「はい」
「重いですよ」
「……はい」
受け取った飾緒は、本当に、重かった。
兄が背負って、かぐやさんが隣で支えて、伊井野会長たちが守り抜いてきた重さだった。
「……石上」
伊井野会長——いや、伊井野先輩。
彼女がふとソファの方を向いた。
「何だよ」
石上先輩は、ゲーム機から顔を上げた。
「隣、座ってもいい?」
「……半分、空いてる」
「狭い」
「じゃあ座んなよ」
「座る」
伊井野先輩は、石上先輩の隣に、すとんと腰を下ろした。
二人とも、それきり何も言わなかった。
どちらも、相手の方を見ようとしなかった。
□■□■□
新しい生徒会の、最初の仕事。
私は、棚から、あの白磁のティーセットを取り出した。
かぐやさんが置いていって、伊井野先輩が毎朝拭いて、春に一度だけ使ったカップ。
お湯を沸かして、茶葉を蒸らして、ゆっくりと注ぐ。
一杯目を、萌葉の前に置いた。
「……萌葉に、一番に飲んでほしくて」
萌葉は、カップを両手で持って、一口飲んだ。
「苦っ!」
「……かぐやさんの淹れ方、まだ分からないの」
「えー、会長なのに〜?」
萌葉は、文句を言いながら、最後まで全部飲んだ。
「美味しいよ!」
□■□■□
萌葉たちが帰ったあと。
宝月くんが戸締まりを確かめている間に、私は、鞄から、あの帳簿を取り出した。
最後のページ。
日付だけが書かれた、空白の一行。
『八月一日』
あの夜は、どうしても書けなかった。
でも、今なら書ける。
□■□■□
帰り道。
空に、まんまるの月が浮かんでいた。
十五夜だった。
宝月くんと二人、夜の坂道を歩く。
「……かぐや姫は、十五夜に、月に帰っちゃったんだよね」
「はい。古典の授業で、やりました」
私は、立ち止まった。
月を見上げる。
それから、隣を見た。
宝。月。
その名前を持つ人が、ここにいる。
「悠くん」
「はい」
もう、迷わなかった。
「月には、帰らないでね」
宝月くんは、少しだけ目を見開いた。
それから、いつもの涼しい顔で、静かに笑った。
「——ええ、悠までも」
本日の勝敗:白銀圭の勝利……そして藤原萌葉の勝利
理由:十四票の差では、計れない勝負だったため
—END—
完結! 完結! 完結!
これにて竹取物語は終了
偉大なる原作と
ここまで読んでくれたあなたにお辞儀を
これで本当に終わりです
——しかーし!
続きが書かれる可能性も
それは明日か、千代の先か
それでは、また
いつの日か会いましょう