電柱が自らの意思で根を張り、街を闊歩するようになった日本。かつての大反乱を経て、人類は彼らとの奇妙な共存関係を築いていた。人間とコンクリートの間に立ち、摩擦を仲裁するのが「電柱保安調整官」である佐山の仕事だ。

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東セ-四〇九二

 ◆

 

 アスファルトから立ち昇る陽炎が住宅街の輪郭を揺らしている。梅雨明け特有の湿気を孕んだ熱風が作業着の背中にへばりついて不快だった。目の前には場違いなほど巨大なコンクリートの円柱が鎮座している。

 

「今朝起きたら、こうなっていたんだ。ひどいもんだろう」

 

 家主の男が額の汗をハンカチで拭いながら訴えた。六十代半ばといったところか、日に焼けた肌と頑固そうな眉間に刻まれた皺がこの事態への苛立ちを物語っている。

 

 真新しい分譲住宅のガレージ前を電信柱が一本、完全に塞いでいた。本来あるべき位置から、三メートルほど横滑りしている。根元のアスファルトは無惨にめくれ上がり、黒い土が覗いていた。

 

「車が出せなくて仕事に行けない。あんたら保安局の人間なら、なんとかしてくれよ」

 

「お気持ちは察します。ただ、彼らにも事情があるようでして」

 

 佐山はタブレット端末を操作しながら、淡々と答えた。画面には当該電柱の識別番号「東セ-四〇九二」が表示されている。過去の移動履歴は皆無。この道三十年のベテラン選手だ。

 

 電柱が自らの意思で動き始めたのは一五年前の夏のことである。

 

 原因は不明。太陽フレアの影響とも、地磁気の逆転の前兆とも言われたが確たる証拠は何一つ出ていない。わかっているのは彼らが地下深くに根を張り、都市の生態系の一部として自律的に振る舞い始めたという事実だけだ。

 

「事情もへったくれもあるか。これは不法占拠だぞ」

 

 男が革靴のつま先でコンクリートの表面を蹴りつけた。ゴツッ、と硬質な音が響く。直後、頭上の変圧器が「ブウン」と低い唸りを上げた。

 

「刺激しないでください。彼らは記憶しますから」

 

 佐山が制すると、男はバツが悪そうに足を引っ込めた。

 

 かつて政府はこの不可解な現象を力でねじ伏せようとしたことがある。「国土強靭化」の名目で強制的な無電柱化工事を断行したのだ。それが引き金となり、「六月の送電反乱」が勃発した。

 

 日本中の電柱が一斉に暴れ出し、道路を寸断し、電力供給をストップさせたあの日。都市機能は三日間にわたって麻痺し、人類は彼らとの共生を受け入れざるを得なくなった。以来、佐山のような「電柱保安調整官」が人間とコンクリートの間の摩擦を調整する役回りを担っている。

 

 佐山は電柱の側面に聴診器のような器具を当てた。

 

 冷ややかなコンクリートの奥から、ドクン、ドクンという重たい振動が伝わってくる。怒りではない。むしろ、何かを頑なに守ろうとするような、張り詰めた意志を感じる。

 

「四〇九二、どうした。何を警戒している」

 

 佐山は小声で語りかけた。周囲から見れば奇妙な光景だがこの業界では基本動作だ。返事はない。ただ、頭上の電線が風もないのにサラサラと揺れ、碍子がきしむ音がした。

 

「おい、いつまで待たせるんだ。レッカー車でも呼んで引き抜いてくれ」

 

「それは法律で禁じられています。それに、無理に動かせば近隣一帯が停電しますよ」

 

 佐山は端末の解析データをスクロールさせた。地下構造のマッピング画像が表示される。四〇九二の根は地下の下水管を巧みに避け、さらにその下の岩盤に食い込んでいる。そして不自然なほどガレージ側に重心を傾けていた。

 何かがある

 。

 佐山はガレージの床面に目を凝らした。コンクリートのたたきに、微細な亀裂が走っているのが見える。

 

「ご主人、このガレージの下、昔は何がありましたか」

 

「何って、ただの庭だよ。親父の代にな。井戸があったのを埋めたって聞いたが」

 

「古井戸、ですか」

 

 佐山の中でパズルが組み合わさった。

 

 昨夜の集中豪雨。埋め戻された井戸の周囲で土砂が流出し、地下に空洞ができている可能性がある。

 

 四〇九二はそれを感知したのだ。

 

「下がっていてください」

 

 佐山は車から特殊な音響探査機を取り出し、地面に当てた。モニターに映し出されたのはガレージの真下に広がる巨大な空洞だった。車の重量がかかれば、間違いなく崩落していただろう。

 

 四〇九二は車を出させないために道を塞いだのではない。地盤が安定するまで楔となってこの土地を支えているのだ。

 

「ご主人、これを見てください」

 

 佐山がモニターを見せ、事情を説明すると、男の顔から血の気が引いた。

 

「じゃあ、こいつは……俺を助けてくれたってのか」

 

「そういうことになります。彼らは土地の記憶を共有していますから」

 

 電柱たちはただ電気を送るだけの存在ではない。地下茎を通じて都市全体の情報を交換し、人間には感知できない危険を予知する。かつて邪魔者扱いされた彼らは今や守護者として街に根付いていた。

 

 男はおそるおそる電柱に近づき、さっき蹴りつけた箇所を袖口で擦った。

 

「悪かったな。……ありがとうよ」

 

 ボソリと呟く声に、四〇九二が反応した。

 

 変圧器の唸りが消え、代わりに頂上の避雷針が微かに震えて、朝露をキラキラと撒き散らした。それはどこか、誇らしげな仕草に見えた。

 

「陥没の補修工事が終わるまで彼はこのまま動かないでしょう。不便でしょうが命には代えられません」

 

「ああ、わかった。女房にも言っておくよ」

 

 男は深々と頭を下げ、家の中へと戻っていった。佐山は報告書に「現状維持」と入力し、大きく息を吐いた。

 

 空を見上げると、幾何学的に張り巡らされた電線が夏の青空を切り取っている。その一本一本が巨大な生物の血管のように脈打ち、この街を生かしている。

 

 遠くでまた別の電柱が動く地響きが聞こえた。

 

 佐山は額の汗を拭い、次の現場へと車を走らせた。

 

(了)


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