Prologue:L’Étranger(異邦人)
カリ、カリ、カリ。
深夜二時。ミレニアムサイエンススクール、学生寮の一室。
深海のような静寂の中で、硬質なペン先が紙を削る音だけが、規則的に響いています。
それは私の心臓の音よりも正確で、時計の針よりも冷徹なリズム。
私の部屋には、何もありません。
壁も、床も、天井も、すべてが白と無彩色で統一された無機質な空間。
本棚には背表紙の揃ったファイルだけが並び、机の上には今開いているノートだけ。
ぬいぐるみも、ポスターも、観葉植物もない。
初めてここを訪れた人は、決まって居心地の悪そうな顔をして、こう言います。
「まるでショールームみたいだね」
「生活感がないというか……ここに『生塩ノア』がいる感じがしない」
ええ、その通りです。
この無菌室のような部屋こそが、私、生塩ノアという人間の
私は、透明でありたいのです。
このミレニアムという学び舎には、生まれつき鮮やかな「原色」を持った怪物たちがいます。
例えば、会長―ビッグシスター・リオ。
何もない荒野に理想都市を築き上げる、圧倒的な『創造』の才。
例えば、黒崎コユキ。
世界の法則を無視し、カオスを撒き散らす『変数』としての才。
そして――早瀬ユウカ。
論理と情熱を併せ持ち、困難な現実に正解を叩き出す『解決』の才。
彼女たちの隣に立つとき、私は常に、皮膚の下で冷ややかな劣等感を覚えています。
彼女たちは皆、才能という絵筆で世界を塗り替えていく「主役」です。
けれど、私にはその筆がありません。
私にあるのは、彼女たちが描いた軌跡を、見たまま、聞いたまま、一言一句違わずに保存する「レンズ」としての機能だけ。
私は、残酷なほどに凡人です。
彼女たちのような、世界を変える力を持たない。
だからこそ、私はこの世界で生き残るために、「記録者」という役割に徹することにしました。
主観を捨て、感情を排し、ただ事実だけを透過させる、極めて透明度の高いガラスとして振る舞うこと。
私が透明であればあるほど、レンズの向こうにいる
そう。私が記録に没頭している瞬間だけ、そこに「生塩ノア」という自我は存在しません。
私にとって記録とは、趣味や日課などという生易しいものではない。
これは「排泄」であり、そして「
脳髄にこびりついた膨大な
そうして自分の中身を空っぽにし続けなければ、私は記憶の重圧に押し潰され、自我が崩壊してしまう。
――書くことで、私は私を消去する。
それが私の、健気で卑屈な生存戦略なのです。
ふと、ペンが止まりました。
視線の先。
何もない真っ白なサイドテーブルの上に、ぽつんと置かれた「異物」が目に入ったからです。
淡い光を放ちながら、シュウッ、と白い霧を吐き出すディフューザー。
かつて先生が、「この部屋は寂しすぎるから」と置いていった贈り物。
漂ってくるのは、雨に濡れて咲く百合のような、甘くて優しい香り。
その香りが鼻腔をくすぐった瞬間、排出したはずの記憶が、鮮烈な「ノイズ」となって脳内を駆け巡ります。
『ノア、いつもありがとう』
『ノアがいると安心するよ』
『またいつでもシャーレにおいで』
先生の声の周波数。体温。
そして同時に浮かぶのは、その隣で嬉しそうに、けれど恥ずかしそうに笑うユウカちゃんの顔。
夕暮れのカフェテリアの温度、湿度、二人の間に流れていた甘い空気の成分表。
ズキリ、と。
胸の奥で、記録できない何かが明滅しました。
ああ、いけませんね。
ガラスに、指紋がついてしまっています。
しかも、あろうことか私は、その汚れを拭き取ろうともせず、愛おしそうに眺めている。
透明でありたいと願いながら、私は貴方という「シミ」一つだけは、この真っ白な部屋に許容してしまった。
いえ、許容したなんて言葉は綺麗すぎますね。
私は、欲しかったのです。
何もない空っぽの部屋に、私物なんて何一つ置かないこの聖域に、貴方の
親友の隣ですました顔をして祝福しながら、その裏で、こんなにもドロドロとした独占欲を飼っているなんて。
私は小さくため息をつき、脳内で愛読する詩集のページをめくりました。
『パリの憂鬱』。
その第一篇を、自分自身への問答として唱えます。
――謎めいた人よ、いったい君は誰をいちばん愛しているんだい?
父か、母か、姉妹か、あるいは兄弟か。
詩の中の男は答えます。私には、父も母も兄も弟もいない、と。
私には家族も友人もいます。
けれど、この孤独の質は似ている気がします。
――では、友人を愛するか?
愛しています。
誰よりも眩しい、私の親友を。
だからこそ、私は彼女の幸福を誰よりも正確に記録しなければなりません。
たとえその記録が、私の胸の奥をきりきりと締め上げるとしても。
それは私の
――金は好きか?
興味ありません。予算管理は会計の領分です。
――では、何が一番好きか? 変わった異邦人よ。
私はペンを置き、詩の結びを、ディフューザーの霧に溶かしました。
「……私は雲を愛する。流れる雲を。あそこの……あの素晴らしい雲を」
憧れました。憧れでした。
地上に縛られることなく、全てを俯瞰して流れていく雲に。
誰にも捕まらず、形を持たず、ただそこにあるだけの「異邦人」に。
先生、貴方はまるで、その雲のようです。
キヴォトスという閉じた世界に外からやってきた、本物の異邦人。
あるいは、このディフューザーの煙のように、掴もうとすれば霧散してしまう人。
私は知っています。
私は異邦人にはなれない。雲にもなれない。
私は、地上に落ちた『
記憶という名の巨大すぎる翼は、
忘れることもできず、飛び立つこともできず。
船乗りたちに笑われながら、地面の不自由さに抗いながら、必死に笑顔という仮面を貼り付けて、よろめき歩くだけの滑稽な鳥。
それが、私の正体なのでしょう。
ふと、視界が白く滲みました。
どうにも、少しばかり湿度が上がっているようです。
いけません。
透明なガラスは、湿気が多いとすぐに曇ってしまう。
私は滲んだ視界のまま、ノートを閉じました。
パタン、と乾いた音が、何もない部屋に吸い込まれていきます。
大丈夫。まだ、壊れる音はしていません。
記録に残らないものは、存在しないのと同じなのですから。
さあ、明日はどんな一日になるでしょう。
どんな一日でも、私はきっと記録をするだけなのでしょう。
昨日のように、今日のように。