私は、ゲヘナにおけるほぼ全ての扉を開ける権限を持っている。
風紀委員長という肩書きは、あらゆる秘密、あらゆる聖域への
けれど、この世界には、どんな権限を使っても、どれほど武力を行使しても、決して開かない扉が存在する。
その扉の向こう側は、選ばれたたった一人だけが許される、絶対的な聖域。
私はその扉の前に立ち尽くし、ただ「立入禁止」の札を見つめることしかできない、無力な部外者だ。
夕暮れのシャーレ。
私は、先生の休憩室でコーヒーカップを洗っていた。
公務のついで。報告の合間。どれだけ忙しくても―いいえ、忙しいからこそ。
忙しいのにありがとう、という罪悪感すらも、私は利用していた。
そんな「正当理由」を盾にして、私は家政婦のように彼の生活圏に触れる。
そうすることで、「私は先生の役に立っている」「私は先生の生活の一部だ」という安心感を得ようとしていた。
けれど、給湯室の棚を開けた瞬間、私の手は止まった。
そこには、二つのマグカップが並んでいた。
一つは、先生が昔から使っている、少し欠けた無骨なマグカップ。
そしてその隣に、真新しい、パステルカラーのマグカップが置かれている。
寄り添うように。まるで、最初から対(ペア)であることが運命づけられているかのように。
水切り籠の中で、二つの取っ手が触れ合っている。
(……あ)
私の知らないカップ。 私の知らない生活。私の知らない、先生の顔。
私は無意識に、自分の洗っていたカップを強く握りしめた。
かつて、先生は言った。
「ありがとね、ヒナ。忙しいのに。…いやあ、中々掃除まで手が回らなくて」と。
でも今はどうだ? シンクは磨かれ、水垢ひとつない。
リビングのクッションは整えられ、観葉植物は生き生きと葉を広げている。
私が来るまでもなく、この部屋は「誰か」の手によって美しく維持されている。
私の
「役に立つこと」でしか繋がれなかった私は、その役割を失った瞬間、ただの来訪者になる。
…いいえ。違う。私は最初からただの来訪者だった。
事実を、浮彫りにされただけ。
「――ごめん、ヒナ。待たせたね」
背後から先生の声がして、私は慌てて棚を閉めた。
音を立てないように。動揺を悟られないように。
私は鉄の仮面を被り直し、振り返る。
「ううん。……洗い物、済ませておいたから」
「ありがとう。ヒナは本当に気が利くなぁ……私一人だと、どうしても溜め込んじゃうから」
先生は苦笑しながら言う。
嘘だ。
今の部屋の様子を見れば分かる。貴方はもう、一人じゃない。
私に気を遣って、あるいは「誰か」の存在を隠すために、あえて「一人」と言ったのだ。
その優しさが、私の心臓を雑巾のように絞り上げる。
隠されているということは、私は「部外者」だということだ。
オープンにできない、秘密にしておかなければならない、ただの「生徒」だということだ。
ピロン、と。
デスクの上のスマートフォンが通知音を鳴らした。
先生の視線が、一瞬だけ鋭く反応する。
彼は画面を覗き込み、そして――ふわりと、柔らかく目を細めた。
その表情を、私は見たことがない、向けられたことがない。
私に向けられる「教師としての慈愛」とも、生徒に向けられる「保護者としての心配」とも違う。
一人の男が、愛しい女に向ける、無防備で甘やかな顔。
見てはいけない。
そこは、立入禁止区域だ。
最高権限を持つ風紀委員長でも、その空気の中には一歩も踏み込めない。
先生はすぐに真顔に戻り、申し訳なさそうに私を見た。
「ごめん、ちょっと急ぎの連絡で……返信してもいいかな?」
「……うん。気にしないで」
私は頷く。
先生がスマホを操作する数秒間、部屋には重い沈黙が落ちた。
フリック入力する指の動きすら、愛おしそうに見える。
その電波の先には、あの新しいマグカップの持ち主がいるのだろう。
私はその場で、まるで透明なガラスの壁に隔てられたように、空気の味さえ違って感じていた。
「よし、お待たせ。……それで、今回のゲヘナの件だけど」
先生はスマホを置き、仕事の顔に戻る。
その切り替えの早さが、逆に私を傷つける。
私との時間は「
その境界線は、あまりにも明確で、残酷だ。
「ヒナのおかげで、大事にならなくて済んだよ。いつも迅速な対応をありがとう」
「…まあ、面倒だけど、それが仕事だから」
「うん。でも、それだけじゃないよ。ヒナ、頼ってばかりでごめんね」
先生は安心しきった顔で、コーヒーを啜る。
「他の生徒だと、どうしても心配で目が離せない子も多いけど……ヒナはしっかりしてるし、強いから。私が余計な心配をしなくても、ちゃんと正解を選んでくれる。本当に、自慢の生徒だよ」
――ガチャン。
心の中で、重いシャッターが下りる音がした。
『大人だから』。 『強いから』。 『心配しなくていいから』。
それらは全て、私を「守られる対象」から除外するための言葉だ。
貴方が甲斐甲斐しく世話を焼き、マグカップを揃え、スマホを見て微笑む相手は、きっと「心配な子」なのだろう。
一人では危なっかしくて、放っておけなくて、貴方が守ってあげなきゃいけない子なのだろう。
私は、強くなりすぎた。いい子になりすぎた。
貴方に褒められたくて、貴方の負担になりたくなくて、必死に磨き上げてきたこの「鉄の理性」が、今、私を貴方から遠ざける最強の壁になっている。
唇を噛んだ。
「私だって」という言葉が、喉元までせり上がる。
私だって、弱い。私だって、寂しい。私だって、貴方に心配されて、ただ泣いていたい。
一日中、何も考えないで貴方と過ごしていたい。
貴方の私生活を乱して、困らせて、それでも愛されたい。
貴方に縋りついた弱い私は、いなくなってなどいないのに。
でも、言えない。
口に出せば、今のこの関係すらも崩れて消え去ってしまうような気がして。
こうして顔を合わせる事すら、出来なくなる気がして。
私は、ここを追い出されたくない。
たとえ「部外者」の席でもいい。貴方の視界の端に置いてほしい。
「…そう言ってもらえると、嬉しい」
無表情で頷くことしかできなかった。精一杯のの余裕を演じて。
その裏で、錆びついた鉄が擦れるような、酷い音を立てていたとしても、先生は気づかない。
私も気付かないふりをする。
だって、彼は信じているから。空崎ヒナが演じているこの役割を。
他でもない私自身が、そういう風に仕向けているのだから。
帰り道。
夜風が熱を持った頬を冷やす。
けれど、胸の奥の熱だけは冷めない。
「めんどくさい………何も考えたくない」
もう、限界だ。
正当理由も、立入禁止のテープも、理性の壁も、全てなぎ倒してしまいたい。