彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第二章:立入禁止区域(Restricted Area)

 私は、ゲヘナにおけるほぼ全ての扉を開ける権限を持っている。

 風紀委員長という肩書きは、あらゆる秘密、あらゆる聖域への通行手形(パスポート)でもある。

 

 けれど、この世界には、どんな権限を使っても、どれほど武力を行使しても、決して開かない扉が存在する。

 その扉の向こう側は、選ばれたたった一人だけが許される、絶対的な聖域。

 

 私はその扉の前に立ち尽くし、ただ「立入禁止」の札を見つめることしかできない、無力な部外者だ。

 

 夕暮れのシャーレ。

 私は、先生の休憩室でコーヒーカップを洗っていた。

 公務のついで。報告の合間。どれだけ忙しくても―いいえ、忙しいからこそ。

 忙しいのにありがとう、という罪悪感すらも、私は利用していた。

 そんな「正当理由」を盾にして、私は家政婦のように彼の生活圏に触れる。

 そうすることで、「私は先生の役に立っている」「私は先生の生活の一部だ」という安心感を得ようとしていた。

 

 けれど、給湯室の棚を開けた瞬間、私の手は止まった。

 

 そこには、二つのマグカップが並んでいた。  

 一つは、先生が昔から使っている、少し欠けた無骨なマグカップ。  

 そしてその隣に、真新しい、パステルカラーのマグカップが置かれている。

 寄り添うように。まるで、最初から対(ペア)であることが運命づけられているかのように。

 水切り籠の中で、二つの取っ手が触れ合っている。

 

 (……あ)

 

 私の知らないカップ。 私の知らない生活。私の知らない、先生の顔。

 

 私は無意識に、自分の洗っていたカップを強く握りしめた。

 かつて、先生は言った。

「ありがとね、ヒナ。忙しいのに。…いやあ、中々掃除まで手が回らなくて」と。

 でも今はどうだ?  シンクは磨かれ、水垢ひとつない。

 リビングのクッションは整えられ、観葉植物は生き生きと葉を広げている。

 私が来るまでもなく、この部屋は「誰か」の手によって美しく維持されている。

 

 私の仕事(いばしょ)は、もうここにはない。

「役に立つこと」でしか繋がれなかった私は、その役割を失った瞬間、ただの来訪者になる。

 …いいえ。違う。私は最初からただの来訪者だった。

 事実を、浮彫りにされただけ。

 

「――ごめん、ヒナ。待たせたね」

 

 背後から先生の声がして、私は慌てて棚を閉めた。  

 音を立てないように。動揺を悟られないように。  

 私は鉄の仮面を被り直し、振り返る。

 

「ううん。……洗い物、済ませておいたから」

「ありがとう。ヒナは本当に気が利くなぁ……私一人だと、どうしても溜め込んじゃうから」

 

 先生は苦笑しながら言う。

 嘘だ。

 今の部屋の様子を見れば分かる。貴方はもう、一人じゃない。

 私に気を遣って、あるいは「誰か」の存在を隠すために、あえて「一人」と言ったのだ。

 

 その優しさが、私の心臓を雑巾のように絞り上げる。

 隠されているということは、私は「部外者」だということだ。

 オープンにできない、秘密にしておかなければならない、ただの「生徒」だということだ。

 

 ピロン、と。

 デスクの上のスマートフォンが通知音を鳴らした。

 先生の視線が、一瞬だけ鋭く反応する。

 彼は画面を覗き込み、そして――ふわりと、柔らかく目を細めた。

 

 その表情を、私は見たことがない、向けられたことがない。

 私に向けられる「教師としての慈愛」とも、生徒に向けられる「保護者としての心配」とも違う。

 一人の男が、愛しい女に向ける、無防備で甘やかな顔。

 

 見てはいけない。

 そこは、立入禁止区域だ。

 最高権限を持つ風紀委員長でも、その空気の中には一歩も踏み込めない。

 

 先生はすぐに真顔に戻り、申し訳なさそうに私を見た。

 

「ごめん、ちょっと急ぎの連絡で……返信してもいいかな?」

「……うん。気にしないで」

 

 私は頷く。

 先生がスマホを操作する数秒間、部屋には重い沈黙が落ちた。

 フリック入力する指の動きすら、愛おしそうに見える。

 その電波の先には、あの新しいマグカップの持ち主がいるのだろう。  

 私はその場で、まるで透明なガラスの壁に隔てられたように、空気の味さえ違って感じていた。

 

「よし、お待たせ。……それで、今回のゲヘナの件だけど」

 

 先生はスマホを置き、仕事の顔に戻る。

 その切り替えの早さが、逆に私を傷つける。

 私との時間は「仕事(オン)」。彼女との時間は「私事(オフ)」。

 その境界線は、あまりにも明確で、残酷だ。

 

「ヒナのおかげで、大事にならなくて済んだよ。いつも迅速な対応をありがとう」

「…まあ、面倒だけど、それが仕事だから」

「うん。でも、それだけじゃないよ。ヒナ、頼ってばかりでごめんね」

 

 先生は安心しきった顔で、コーヒーを啜る。

 

「他の生徒だと、どうしても心配で目が離せない子も多いけど……ヒナはしっかりしてるし、強いから。私が余計な心配をしなくても、ちゃんと正解を選んでくれる。本当に、自慢の生徒だよ」

 

 ――ガチャン。

 

 心の中で、重いシャッターが下りる音がした。

 

 『大人だから』。 『強いから』。 『心配しなくていいから』。

 

 それらは全て、私を「守られる対象」から除外するための言葉だ。

 貴方が甲斐甲斐しく世話を焼き、マグカップを揃え、スマホを見て微笑む相手は、きっと「心配な子」なのだろう。

 一人では危なっかしくて、放っておけなくて、貴方が守ってあげなきゃいけない子なのだろう。

 

 私は、強くなりすぎた。いい子になりすぎた。

 貴方に褒められたくて、貴方の負担になりたくなくて、必死に磨き上げてきたこの「鉄の理性」が、今、私を貴方から遠ざける最強の壁になっている。

 

 唇を噛んだ。

「私だって」という言葉が、喉元までせり上がる。  

 私だって、弱い。私だって、寂しい。私だって、貴方に心配されて、ただ泣いていたい。

 一日中、何も考えないで貴方と過ごしていたい。

 貴方の私生活を乱して、困らせて、それでも愛されたい。  

 あの時(エデン条約)の私が、本当の空崎ヒナなのに。

 貴方に縋りついた弱い私は、いなくなってなどいないのに。

 でも、言えない。

 口に出せば、今のこの関係すらも崩れて消え去ってしまうような気がして。

 こうして顔を合わせる事すら、出来なくなる気がして。

 

 私は、ここを追い出されたくない。

 たとえ「部外者」の席でもいい。貴方の視界の端に置いてほしい。

 

「…そう言ってもらえると、嬉しい」

 

 無表情で頷くことしかできなかった。精一杯のの余裕を演じて。

 その裏で、錆びついた鉄が擦れるような、酷い音を立てていたとしても、先生は気づかない。

 私も気付かないふりをする。 

 だって、彼は信じているから。空崎ヒナが演じているこの役割を。

 他でもない私自身が、そういう風に仕向けているのだから。

 

 帰り道。

 夜風が熱を持った頬を冷やす。

 けれど、胸の奥の熱だけは冷めない。

 

 「めんどくさい………何も考えたくない」

 

 もう、限界だ。

 正当理由も、立入禁止のテープも、理性の壁も、全てなぎ倒してしまいたい。

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