緊急避難。
法律は、極限状態における超法規的な行動を認めている。
命を守るためなら。心が壊れるのを防ぐためなら。
人は、ルールを破る権利を有する。
今、私はそれを適用する。
誰の許可もいらない。 これは、私の心が窒息して死なないための、正当な権利行使だ。
◆
午前二時。
夜空を引き裂くような雷鳴と、窓を叩き割るような豪雨。
世界中が泣いているような夜だった。
本当はずっと仕事をしていたかったけれど、風紀委員会の皆に無理矢理帰らされた。
…そんなに酷い顔をしているのだろうか。今の私は。
眠れなくて、ベッドの中で膝を抱えていた。
目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた映像が再生される。
並んだマグカップ。スマホを見て微笑む先生。
私の頭を撫でて「安心だ」と言った、残酷な信頼の言葉。
『ヒナは強いから』
違う。強くなんてない。
私はただ、弱音を吐く場所を知らないだけだ。 泣き方を知らないだけだ。
鉄の鎧を着込んで、必死に立っているだけなのに、誰もがそれを「強さ」と呼んで称賛する。
私の立場にいれば、誰だってそうするであろうことをしているだけなのに。
息が苦しい。肺の中に錆が詰まっているみたいに、空気が入ってこない。
このままここにいたら、私は窒息する。
「空崎ヒナ」という役割に押し潰されて、誰にも気づかれないまま、赤錆の塊になって崩れ落ちる。
――会いたい。
発作的な衝動が、理性の堤防を決壊させた。
ただ、そう思った。理屈も、体裁も、プライドもない。 ただ、先生に会いたい。
あの優しさに触れたい。
たとえそれが、私に向けられたものではない、誰かの余り物だったとしても。
私はベッドを飛び出した。
制服に着替える時間さえ惜しかった。
いつもの重厚なコートも、威厳を示す腕章も、身を守る銃さえも置き去りにして。
薄いパジャマの上に、レインコート一枚を羽織っただけで、私は部屋を飛び出した。
◆
冷たい雨が全身を叩く。泥水が足元を汚す。
髪はずぶ濡れで頬に張り付き、レインコートは重く水を吸い込む。
今の私は、風紀委員長じゃない。
ただの、惨めで、弱くて、なりふり構わない一人の女だ。
キヴォトスの街並みは眠っている。
誰もいない通りを、私は走る。息が切れる。心臓が悲鳴を上げる。
それでも足は止まらない。止まったら、自分が何をしているのか気づいてしまうから。
「こんなことをしてはいけない」という理性の声に捕まってしまうから。
シャーレが見えた。最上階の執務室には、まだ明かりがついている。
エントランスに着いた私は、セキュリティゲートの前で立ち尽くすことさえせず、インターホンを連打した。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。非常識な回数、狂ったようなリズムで。
『……はい? 誰……?』
スピーカーから、訝しむような、少し驚いた先生の声が聞こえる。
「……先生」
私の声は震えていた。雨音にかき消されそうなほど細く。
「……開けて。お願い」
『えっ……ヒナ!?』
電子錠が解除される音がした。
ゲートをこじ開け、エレベーターに乗り込む。
上昇する箱の中で、私は鏡に映る自分を見た。
濡れそぼり、髪は乱れ、顔色は蒼白で、目は充血している。幽霊のようだ。
これが、「風紀委員長」の成れの果てだ。
扉が開く。その先には、慌てて玄関まで出てきた先生がいた。
「ヒナ!? どうしたんだ、こんな時間に! 雨の中、傘もささずに……!」
先生が駆け寄ってくる。
その顔には、驚愕と、そして「心配」が張り付いている。
ああ、まただ。その心配は、教師としての心配だ。
「優秀な生徒が深夜に錯乱している」という、異常事態への対処だ。
「何かあったの? ゲヘナでトラブル? それとも……」
先生が私の肩に手を置く。
温かい。その温もりが、冷え切った身体に伝わった瞬間。
私の中で、何かが完全に砕け散った。
「……なんで」
「…え?」
嗚咽のような言葉が漏れた。
止めることは、もう、出来なかった。
「なんで、私じゃだめなの……?」
「ヒナ……?」
先生が動きを止める。
彼の手を掴み、胸元にすがりついた。
濡れたレインコートが、先生のシャツを汚していく。
構わない。もっと汚れてしまえと、そう思っていた。
「私だって……私だって、女の子なのに……!」
言葉が、堰を切って溢れ出す。
今まで「遵守」して、「封印」してきた言葉たちが、濁流となって彼にぶつかる。
「どうして、私じゃダメなの……?」
「どうして、私には『いい子』でいろって言うの……?」
「私だって、ワガママ言いたかった! 困らせたかった! 心配されたかった!」
彼の胸板を拳で叩いた。
弱い力で。何度も、何度も。
「貴方の横にいたかった! ……私だって、選ばれたかった……!」
「私は!…私は、貴方が、あなたのことが、こんなにも…!」
「こんなにも、好きなのに……どうして…気付いてくれないの…」
叫んだ。
言いたくなかった言葉を。律してきたはずの言葉を。
誰よりも頑張った。誰よりも我慢した。
なのに、ご褒美をもらうのは私じゃなかった。
こんな理不尽があるか。こんな残酷な結末があるか。
膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになる。
それを、先生の腕が支えた。
抱きしめられていた。
「……ヒナ」
先生の声が震えている。
戸惑い。罪悪感。そして――抗えない「情」の光。
そう、貴方は優しい。傷ついた生徒を、雨の中に放り出せるような人じゃない。
「……ごめん。気づいてあげられなくて、ごめん」
その優しさが、トドメだった。
ああ、ダメだ。先生。貴方は、ここで私を突き放すべきだった。
どれだけ私が傷付いていても、惨めでも、線を引くべきだった。
貴方のその優しさは、救済じゃない。
私を地獄へ引きずり込む、甘い罠だ。
これは緊急避難なんかじゃない。
私は今、遭難信号を出しながら、救助に来た船を道連れに沈もうとしているのだ。
濡れた顔を上げ、彼の瞳を覗き込む。
雨に濡れた子犬のように。捨てられた猫のように。
彼が決して無視できない、最も惨めな姿で。
「……先生」
私は震える声で、悪魔の契約を持ちかける。
「……一度だけでいいの」
倫理も、立場も、恋人の存在も、すべてを無視した願い。
「今夜だけ、私を見て。……私を、選んで」
「…忘れていいから。覚えてなくてもいいから、今だけでいいから…」
良くない癖に、平気な顔で嘘をつく。
目の前にいる、困った顔の人が、どうやったらもっと困るかを、私は知っていたから。
貴方の優しさをどうしたら一番上手く使えるかを、私は知っていたから。
あと2話明日書く(たぶん)