彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三章:緊急避難(Emergency Evacuation)

 緊急避難。

 

 法律は、極限状態における超法規的な行動を認めている。  

 命を守るためなら。心が壊れるのを防ぐためなら。

 人は、ルールを破る権利を有する。

 

 今、私はそれを適用する。

 誰の許可もいらない。 これは、私の心が窒息して死なないための、正当な権利行使だ。

 

  ◆

 

 午前二時。

 夜空を引き裂くような雷鳴と、窓を叩き割るような豪雨。

 世界中が泣いているような夜だった。

 本当はずっと仕事をしていたかったけれど、風紀委員会の皆に無理矢理帰らされた。

 …そんなに酷い顔をしているのだろうか。今の私は。

 

 眠れなくて、ベッドの中で膝を抱えていた。  

 目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた映像が再生される。  

 並んだマグカップ。スマホを見て微笑む先生。

 私の頭を撫でて「安心だ」と言った、残酷な信頼の言葉。

 

 『ヒナは強いから』

 

 違う。強くなんてない。  

 私はただ、弱音を吐く場所を知らないだけだ。 泣き方を知らないだけだ。

 鉄の鎧を着込んで、必死に立っているだけなのに、誰もがそれを「強さ」と呼んで称賛する。

 私の立場にいれば、誰だってそうするであろうことをしているだけなのに。

 

 息が苦しい。肺の中に錆が詰まっているみたいに、空気が入ってこない。  

 このままここにいたら、私は窒息する。  

 「空崎ヒナ」という役割に押し潰されて、誰にも気づかれないまま、赤錆の塊になって崩れ落ちる。

 

 ――会いたい。

 

 発作的な衝動が、理性の堤防を決壊させた。  

 ただ、そう思った。理屈も、体裁も、プライドもない。 ただ、先生に会いたい。  

 あの優しさに触れたい。

 たとえそれが、私に向けられたものではない、誰かの余り物だったとしても。

 

 私はベッドを飛び出した。  

 制服に着替える時間さえ惜しかった。

 いつもの重厚なコートも、威厳を示す腕章も、身を守る銃さえも置き去りにして。

 薄いパジャマの上に、レインコート一枚を羽織っただけで、私は部屋を飛び出した。

 

  ◆

 

 冷たい雨が全身を叩く。泥水が足元を汚す。

 髪はずぶ濡れで頬に張り付き、レインコートは重く水を吸い込む。

 

 今の私は、風紀委員長じゃない。

 ただの、惨めで、弱くて、なりふり構わない一人の女だ。

 

 キヴォトスの街並みは眠っている。

 誰もいない通りを、私は走る。息が切れる。心臓が悲鳴を上げる。

 それでも足は止まらない。止まったら、自分が何をしているのか気づいてしまうから。

「こんなことをしてはいけない」という理性の声に捕まってしまうから。

 

 シャーレが見えた。最上階の執務室には、まだ明かりがついている。

 

 エントランスに着いた私は、セキュリティゲートの前で立ち尽くすことさえせず、インターホンを連打した。

 

 ピンポン、ピンポン、ピンポン。非常識な回数、狂ったようなリズムで。

 

『……はい? 誰……?』

 

 スピーカーから、訝しむような、少し驚いた先生の声が聞こえる。

 

「……先生」

 

 私の声は震えていた。雨音にかき消されそうなほど細く。

 

「……開けて。お願い」

『えっ……ヒナ!?』

 

 電子錠が解除される音がした。

 ゲートをこじ開け、エレベーターに乗り込む。

 上昇する箱の中で、私は鏡に映る自分を見た。

 濡れそぼり、髪は乱れ、顔色は蒼白で、目は充血している。幽霊のようだ。  

 これが、「風紀委員長」の成れの果てだ。

 

 扉が開く。その先には、慌てて玄関まで出てきた先生がいた。

 

「ヒナ!? どうしたんだ、こんな時間に! 雨の中、傘もささずに……!」

 

 先生が駆け寄ってくる。

 その顔には、驚愕と、そして「心配」が張り付いている。

 ああ、まただ。その心配は、教師としての心配だ。

「優秀な生徒が深夜に錯乱している」という、異常事態への対処だ。

 

「何かあったの? ゲヘナでトラブル? それとも……」

 

 先生が私の肩に手を置く。

 温かい。その温もりが、冷え切った身体に伝わった瞬間。

 私の中で、何かが完全に砕け散った。

 

「……なんで」

「…え?」

 

 嗚咽のような言葉が漏れた。

 止めることは、もう、出来なかった。

 

「なんで、私じゃだめなの……?」

「ヒナ……?」

 

 先生が動きを止める。

 彼の手を掴み、胸元にすがりついた。

 濡れたレインコートが、先生のシャツを汚していく。

 構わない。もっと汚れてしまえと、そう思っていた。

 

「私だって……私だって、女の子なのに……!」

 

 言葉が、堰を切って溢れ出す。

 今まで「遵守」して、「封印」してきた言葉たちが、濁流となって彼にぶつかる。

 

「どうして、私じゃダメなの……?」

「どうして、私には『いい子』でいろって言うの……?」

「私だって、ワガママ言いたかった! 困らせたかった! 心配されたかった!」

 

 彼の胸板を拳で叩いた。

 弱い力で。何度も、何度も。

 

「貴方の横にいたかった! ……私だって、選ばれたかった……!」

「私は!…私は、貴方が、あなたのことが、こんなにも…!」

「こんなにも、好きなのに……どうして…気付いてくれないの…」

 

 叫んだ。

 言いたくなかった言葉を。律してきたはずの言葉を。

 誰よりも頑張った。誰よりも我慢した。

 なのに、ご褒美をもらうのは私じゃなかった。

 こんな理不尽があるか。こんな残酷な結末があるか。

 

 膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになる。

 それを、先生の腕が支えた。

 抱きしめられていた。

 

「……ヒナ」

 

 先生の声が震えている。

 戸惑い。罪悪感。そして――抗えない「情」の光。

 そう、貴方は優しい。傷ついた生徒を、雨の中に放り出せるような人じゃない。

 

「……ごめん。気づいてあげられなくて、ごめん」

 

 その優しさが、トドメだった。

 ああ、ダメだ。先生。貴方は、ここで私を突き放すべきだった。

 どれだけ私が傷付いていても、惨めでも、線を引くべきだった。

 

 貴方のその優しさは、救済じゃない。

 私を地獄へ引きずり込む、甘い罠だ。

 

 これは緊急避難なんかじゃない。

 私は今、遭難信号を出しながら、救助に来た船を道連れに沈もうとしているのだ。

 

 濡れた顔を上げ、彼の瞳を覗き込む。

 雨に濡れた子犬のように。捨てられた猫のように。

 彼が決して無視できない、最も惨めな姿で。

 

「……先生」

 

 私は震える声で、悪魔の契約を持ちかける。

 

「……一度だけでいいの」

 

 倫理も、立場も、恋人の存在も、すべてを無視した願い。

 

「今夜だけ、私を見て。……私を、選んで」

「…忘れていいから。覚えてなくてもいいから、今だけでいいから…」

 

 良くない癖に、平気な顔で嘘をつく。

 目の前にいる、困った顔の人が、どうやったらもっと困るかを、私は知っていたから。

 貴方の優しさをどうしたら一番上手く使えるかを、私は知っていたから。

 




あと2話明日書く(たぶん)
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