ルールを守るために、ルールを破る。
そんな矛盾した理屈がまかり通るのは、そこがもはや「平時」ではないからだ。
今、私の「心」という命が消えかけている。
だから、これは許されるはずだ。
これから行われる行為は、不貞でも、略奪でもない。ただの救命措置だ。
――そう定義しなければ、私は自分を保てなかった。
◆
雨音は、まだ世界を遮断する壁のように降り注いでいた。
エントランスの冷たい床。
全てを吐き出した私を抱きしめたまま、先生は
「……ヒナ、もう泣かないで。お願いだから」
「風邪をひいてしまうよ。とりあえず、落ち着いて。とにかく体を拭いて……」
先生が、苦しげに私を抱きしめる。
その体温があまりにも温かいから、私はもっと惨めに泣いた。
優しい。本当に、残酷なまでに優しい人。
深夜に押し掛けた錯乱した生徒を、彼は叱責することもしない。
ただ心配して、気遣って、守ろうとする。
でも、その優しさは私に向けられたものじゃない。ただの保護者としての義務感だ。
それが、悔しかった。
どうしようもなく、惨めだった。
「……っ!」
私は彼の手を払いのけた。
驚いたように目を見開く先生の胸を、濡れた手で掴み上げる。
白いシャツに、泥と雨のシミが広がる。
もっと汚れればいい。貴方のその清廉潔白な優しさが、私と同じ色に染まってしまえばいい。
「優しくしないで……! こんな時まで!」
「ヒナ……」
「頑張ったのに……誰よりも貴方を守ろうとしたのに……!」
「わたしを見てよ……風紀委員長じゃなくて、生徒じゃなくて、私を見てよぉ……!」
それ以降は、言葉にならなかった。
ただの子供の泣き声だった。
威厳も、誇りも、涙と一緒に流れ出した。
先生は、動かなかった。
ただ、痛ましそうに顔を歪めて、泣き崩れる私を受け止めていた。
「……先生。お願い」
「慰めて。……同情でもいい。なんでもいい」
「……ヒナ、それは」
「一度だけでいいから……私を、助けて」
息が止まる音がした。
生徒の「助けて」という言葉は、彼にとって最も重い言葉だ。
必ず向き合わなければならない、呪いのような言葉だ。
知っていて、私はそれを口にした。
爆発する感情の下で、理性はどこまでも冷徹だった。
「心が壊れそうなの。先生がいないと、私、もう生きていけない」
「明日になったら忘れるから、元の私に、戻るから…」
詭弁だ。真っ赤な嘘だ。
けれど、今の彼にはそれが「救い」になる。
「欲に負けて生徒に手を出す」のではなく、「壊れそうな生徒を救うために仕方なく一線を越える」という大義名分。
その逃げ道を用意してあげれば、彼は堕ちてこられる。
そういう、優しくて弱い人だと知っているから。
「……ヒナ、私は……」
先生の指が、私の濡れた髪を梳く。
迷い。葛藤。倫理観。それらが、私の涙の前に音を立てて崩れ去っていく。
「……ごめん……」
掠れた声で、先生が言った。それは拒絶ではなく、共犯の合図。
彼もまた、私の涙を止めるための手段として、最も愚かで、最も甘い「超法規的措置」を選んだのだ。
唇が重なった瞬間、雨水の味がした。
しょっぱくて、冷たくて、そして――鉄の味がした。
私の心が、音を立てて錆びついていく味だ。
体が持ち上げられる。
玄関から、廊下へ。そして、決して開けてはいけないはずの扉の奥へ。
◆
薄暗い休憩室のベッド。
外の激しい雨音をBGMに、私たちは重なり合っていた。
先生の手は、酷く優しかった。
宝物を扱うような、壊れ物に触れるような。
時折「ごめん」と呟くその声には、深い罪悪感が滲んでいる。
謝らないで。そんな、加害者みたいな顔をして私を抱かないで。
貴方は被害者なのだから。悪いのは全部私だと、そう自分に言い聞かせていればいい。
肌に触れる熱が、私の芯まで浸透していく。
ああ、これだ。私がずっと求めていたのは、頭を撫でる「保護者」の手じゃない。
求め、求められ、互いの存在を確かめ合う、この熱量だ。
急速に、私が変質していく。
高潔で、真面目で、誰からも尊敬されていた委員長は死んだ。
違う。そもそも、そんなものは初めからいなかった。
私はただ、そうあろうとしていただけ。ゲヘナの風紀委員長であろうと務めていただけ。
いつだって投げだしたかった。
だからこそ、何も考えないで休まず仕事をしているのが楽だった。
空崎ヒナはずっと、ただ与えられた役割を遵守していただけだ。
私は初めて、そのルールを破った。
ここにいるのは、先生の優しさにつけ込み、情欲を貪る、ただの卑しい女。
酸化して。腐食する。
先生に触れられるたび、心臓が、血管が、細胞の一つひとつが、赤黒く変色していくのが分かる。
その腐敗していく感覚が、どうしようもなく甘い。
視界の端に、デスクの上に置かれた写真立てが見えた気がした。
けれど、私は彼にしがみつき、強く目を閉じる。
「……好き。好きよ、先生……」
先生は、その言葉に返事をくれなかった。
私は泣きながら、彼の背中に爪を立てた。
消えない傷跡を残すために。一生、この罪悪感が貴方を苛むように。
「明日になったら忘れる」なんて、ありえない。
一度知ってしまえば、もう二度と元には戻れない。
満たされた時に飽きることはあっても、満たされるまでは渇望し続けるのが人間だ。
そして、私はきっと、いつまでも満たされない。
先生の優しさが、私を泥沼へ招き入れ、私の弱さが、先生を共犯者に仕立て上げた。
甘くて苦しい、体が軋むほどの抱擁の中で、私は確信していた。
私たちは今、最初の一歩を踏み出し――そして、底の底へと転がり落ちていく。
それでも、私はこんなにも満たされている。
だから、きっとそれでよかった。