彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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Epilogue:遵守事項(Compliance Matters)

 一度錆びついた鉄は、二度と元の輝きを取り戻さない。

 表面を磨いても、塗装を塗り直しても、その下では酸化が進行し、強度は落ち続ける。

 けれど、それでも機械は動かさなければならない。  

 私が止まれば、ゲヘナは止まる。  

 だから私は、この錆びついた心を抱えたまま、今日も「通常稼働」を装う。

 

 ◆

 

 嵐のような夜から、数週間が経った。  

 日常は、恐ろしいほど何事もなく続いている。

 

「――委員長! 温泉開発部の横暴をこれ以上許してはおけません!」

「はぁ……。分かった。……私が直接行く。面倒だけど…」

 

 執務室。アコの報告を聞き、指示を出す。 いつもの光景。 

 私の声は冷静で、判断は的確だ。誰も気づかない。  

 この完璧な仮面の下で、ドロドロとした共犯関係が進行していることに。

 

「……あの、委員長」

「なに?」

「いえ、その。最近、顔色が良くなりましたね」

 

 アコが不思議そうに首を傾げた。

 

「以前はずっと張り詰めているような感じでしたが……今はこう、少し肩の力が抜けたというか」 「……そう? 別に何も変わらないと思うけど」

 

私はペンを止めず、平然と嘘をつく。

アコは知らない。

この滑らかな稼働音が、背徳という名の不純な潤滑油によってもたらされていることを。  

 

「一度だけ」という約束は、やはり守られなかった。  

 一度超えた一線は、二度目にはまたぎやすくなり、三度目にはただの床の模様になった。

 

 堰を切った欲望は、満たされるどころか、味わえば味わうほど渇きを増した。

 私にとっても。そして何より――先生にとっても。

 

 ◆

 

 放課後のシャーレ。  

 夕日が差し込む執務室は、黄金色に染まっていた。  

 私はいつものソファに座り、先生が淹れてくれたコーヒーを口にする。

 

 視線の先、キッチンカウンターには、相変わらずあの「ペアのマグカップ」が仲良く並んでいる。     

 以前は、それを見るだけで胸が張り裂けそうだった。酸欠を起こしそうだった。

 

 でも今は違う。

 それを見つめながら、私は暗い優越感に浸っていた。

 

 (……あの子は、知らない)

 

 あのカップの持ち主である「本命の彼女」は、知らない。  

 この部屋に、私という共犯者の匂いが染み付いていることを。  

 先生が私に向ける、後ろめたさと情愛が入り混じった、どうしようもなく甘い表情を。

 

 私は「二番目」だ。  

 光の当たる場所で手を繋ぐことはできない。

 休日にデートもできない。贈り物も貰えない。  

 けれど、私は「先生の弱さ」を独占している。  

「本命」には決して見せられない、彼のズルさも、だらしなさも、すべて私が受け止めている。

 

「……ヒナ。ごめんね、いつも……」

 

 隣に座った先生が、私の肩に頭を預けてくる。

 その声は弱々しい。

 誠実な人なのだ。二人の女性の間で揺れ動き、自分を責め、それでも私を切り捨てられない自分の弱さに絶望している。

 

 その苦悶の表情さえ、今の私には甘美な餌に見える。  

 貴方が苦しめば苦しむほど、それは私の優越感になるから。

 

「謝らないで、先生」

 

 私はカップを置き、彼の手を両手で包み込んだ。  

 優しく、慈愛に満ちた聖母のように。あるいは、獲物を繭に絡め取る蜘蛛のように。

 

「私は、これでいいの。……先生のそばにいられるなら、日陰でも構わない」

「先生を困らせるつもりはないわ。だから、あの子と別れてなんて言わない」

「私が我慢すればいいだけだから。……ね?」

 

 嘘だ。本当は、今でもあのマグカップを床に叩きつけて粉々にしたい。  

「私だけを見て」と泣き叫んで、彼を独占したい。

 

 でも、それはルール違反だ。  

 私が役割を遵守することこそが、この関係を維持する唯一の生命線なのだから。  

 彼の負担にならず、彼の逃げ場所になり、都合よく愛されること。  

 それが、錆びついた私が新たに自分に課した「風紀」だ。

 

「……ありがとう。ヒナは…本当に、優しいね」

「甘えてばかりで、ごめん……」

 

 先生が、縋るように私を抱き寄せる。

 

 私は彼の胸に顔を埋め、深く息を吸い込む。

 彼の匂い。その奥に、微かに混じる「誰か」の香りと――私自身の鉄錆の匂い。  

 混ざり合って、不快で、どうしようもなく落ち着く、私の居場所の匂い。

 

 (……これでいい。これがいい)

 

 私は目を閉じる。  

 これが、私が選んだ「緊急避難」のなれの果て。  

 行き着いた先には、温かくて腐った泥沼が待っていた。

 

 私は幸せだ。 たとえ身体中が錆びついて、動くたびに軋んだ音を立てていても。  

 先生が私を求めてくれるなら、私はこの腐敗の中で生きていける。

 

「……先生」

 

 私は顔を上げ、彼の唇に口付けた。  

 鉄の味がした。  

 血のような、錆のような、罪の味。  

 これが、今の私たちの愛の味だ。

 

「これからも、ずっと『いい子』でいるわ。……だから」

 

 背中に回した腕に、万力のような力を込める。  

 もう二度と、この温もりを清廉な世界には返さない。

 

「絶対に、捨てないでね?」

 

 先生が頷き、私を強く、痛いくらいに抱きしめ返す。  

 その力強さは、愛か、執着か、それとも共犯者への連帯感か。  

 きっと、その全てなのだろう。

 

 空崎ヒナは遵守している。 規律を。風紀を。  

 そして、「自分は壊れてなどいない」という虚構を。

 

【空崎ヒナは遵守している 了】

 

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