彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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『桐藤ナギサは祝福している』
Prologue:Beatitudes(真福八端)


『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである』

『悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる』 

 

                           ――マタイによる福音書、第5章

 

 

 

 ◆

 

 

 

 午後の光は、トリニティの白をいっそう白く見せていました。

 磨かれたテーブル、陶器の艶、銀のカトラリー。どれも清潔で、正しく、乾いている。

 なのに――私の喉の奥だけが雨の後みたいに重いのは、きっと気のせいではないのでしょう。

 

「――ねえ、聞いてるナギちゃん? 先生ってば本当に鈍感なんだから!」

 

 優雅な午後のティーテラスに、場違いなほど弾んだ声が響きます。

 聖園ミカ。私の幼馴染であり、かけがえのない親友。

 そして、私とは対極にある「持たざる者」の象徴。

 

 ……いえ。違う。

 彼女は持っていた。

 持っていて、失ったのです。

 

 間違えたのは、私も彼女も同じはずだった。

 けれど、その後の立場は残酷なまでに違った。

 

 彼女は全てを失い。私はそのままだった。

 そう言い切ってしまえば、胸の奥に沈むものに名前をつけずに済むような気がするのです。

 

 ミカさんは今、頬を林檎のように赤く染め、想い人の愚痴――という名の惚気話を、延々と語っています。

 笑うたび、息を吸うたび、彼女の幸せが、泡みたいに軽く立ち上っていく。

 その泡が、私の呼吸の邪魔をしていました。

 

 私はティーカップを口に運び、アッサムの芳醇な香りを肺に満たしながら、柔らかな相槌を打ちます。

 口角は上げる。瞼は細める。声の温度は一定に。

 指先だけが、カップの熱にしがみついて離れない。

 まるで自分の体温を、ここに置いていかれたくないようです。

 

「ふふっ。先生らしいと言えば、らしいですね」

「でしょー!? もう、ナギちゃんからも何とか言ってよ!」

「まあ、機会があれば。……でもミカさん。貴女、とても楽しそうですよ?」

 

 私の言葉に、ミカさんが「えへへ」と照れ笑いをします。

 その笑顔には一点の曇りもない。

 かつて私が疑い、傷つけ合って、それでも信じることを誓った親友。

 

 幸せになってほしい。その願いは心からのものでした。

 彼女の幸福を見守ること。

 それは私にとって、一種の贖罪なのです。

 

 ――贖罪。

 欲望を覆う布として、これ以上ふさわしいものを私は知りません。

 

 彼女が選んだ相手が「先生」であることは、極めて合理的です。

 先生ならば、彼女の強大すぎる力と繊細すぎる心も、トリニティでの今の彼女の立場も受け止めて、癒してくれるでしょう。

 親友と、信頼できる大人。

 この組み合わせを阻害する理由は、論理的に考えて一つもありません。

 

 ――論理的に、考えるなら。

 論理はいつだって、感情のあとに追いかけてくる。

 遅れて現れて、正しい顔をして、私を許してくれるふりをする。

 

 思考の海に囚われていても、ミカさんの言葉は止まりません。

 その言葉の端々に、先生の姿が滲みます。

 叱られた声色、褒められた表情、ふいに触れられた肩の重み。

 それらの“記憶”を、私は彼女の口から借りているだけなのに、どうしてこんなにも口の中が乾くのでしょうか。

 

「応援していますよ、ミカさん」

 

 私は微笑みます。

 練習したわけでもないのに、呼吸をするように自然で完璧な「祝福」の微笑み。

 その完成度が高いほど、私の中身が空洞になっていく気がしました。

 

 祝福とは、与える行為です。

 与えることで、相手を軽くする。

 ならば私は今、彼女を軽くしている。

 代わりに、私の内側に何かが沈んでいくような気がしました。

 

「ありがとう、ナギちゃん! 私、頑張るね☆」

「ええ。……さあ、冷めないうちに召し上がってくださいな」

 

 私はポットを傾け、彼女の空になったカップに、黄金色の液体を注ぎます。

 紅茶の最後の一滴。ゴールデン・ドロップ。

 最も味が濃く、最も美味しいとされるその一滴を、私は惜しげもなく親友に捧げます。

 

 自分自身のカップには、二番煎じの薄いお茶を残して。

 

 (……これで、いいのです)

 

 そう思うたび、胸の奥がわずかに軋む。

 軋みを痛みと呼んでしまえば楽なのに、痛いのは認めたくない。

 痛いと認めた瞬間、私は“善い”人間ではなくなる。

 そして、善くない私は、かつての罪を耐えられない。

 

 私は自分のカップに口をつけました。

 ……おや。

 眉がわずかに動くのを、意志の力で抑え込みます。

 

 渋い。

 最高級の茶葉を、最適な温度と時間で抽出したはずなのに。

 舌の奥に、焼け付くような渋みが広がります。

 飲み下すとき、喉の壁がきしむ。

 まるで、言葉にしなかった何かが、そこに引っかかっているように。

 

 いいえ、これは紅茶のせいではありません。

 私の舌が、あるいは心が、この「完璧な祝福」を拒絶している証拠。

 

 見てはいけない。

 気づいてはいけない。

 この渋みの正体が、「羨望」や「嫉妬」だなんて、決して認めてはいけない。

 

 先生が、彼女を見る目。

 あの優しさ。あの距離の取り方。

 私はその、“彼女に向けられた優しさ” を切り出して数えてしまう。

 

 認めてしまえば、私は親友を祝福する聖人ではいられなくなる。

 私の手元が、急に汚く見えてしまう。

 

 私はカップをソーサーに戻しました。

 カチャリ、と硬質な音が、楽園の片隅で小さく鳴り響きます。

 その音は、やけに長く尾を引いて、私の胸の中に残りました。

 

 ミカさんは気づかず、また先生の話を続ける。

 私は頷き、笑い、肯定し、祈る。

 ――そのたび、私の中の水が、ほんの少しずつ動かなくなる。

 

 桐藤ナギサは、確かに祝福しているのです。

 たとえその内側で、静かな腐食が始まっていたとしても。

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