彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第一章:The Speck and the Log(塵と梁)

『あなたは、兄弟の目にある塵は見えるのに、なぜ自分の目にある梁には気づかないのか』

『偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい』

『そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目から塵を取り除くことができるだろう』

                            ――マタイによる福音書、第7章

 

 

 週末のシャーレは、甘ったるいカオスの只中にありました。

 空調の乾いた風に乗って、果物の匂いがする。リンゴの糖分が、室内の「仕事」の空気にべったりと張り付いている。

 カーペットの繊維にまで染み込みそうなほど、軽薄で、幸福で――息苦しい香り。

 

「はい、あーん! どう先生? 私が剥いたリンゴ、美味しい?」

「あー、うん。美味しいよミカ。……ちょっと実が小さいけど」

「もう、贅沢言わない! その分愛が詰まってるんだから☆」

「そうかなあ?」

「そうだよ!」

 

 ソファを占拠するミカさん。

 彼女の膝には不恰好に剥かれたリンゴが載った皿があり、彼女はそれを甲斐甲斐しく先生の口へと運んでいます。

 先生は苦笑いしながらも、それを拒絶することなく受け入れている。

 

 ――しゃくり、と。

 歯が果肉を噛み切る、湿った音がした。

 その音は、書類の紙擦れとはまるで違う種類の「生」を連れてくる。口の中、舌、唾液、甘さ。そういうものを。

 

 微笑ましい光景です。まさしく、平和な昼下がり。

 ……平和。ええ、平和。

 だからこそ、私の胸の奥で、静かに不穏が増殖していくのでしょう。

 

 私はその光景を、少し離れたデスクの傍らで眺めていました。

 手元には、先生が処理しきれずに積み上げていた書類の山。

 私はここ一時間、無言でその決裁処理を手伝っています。

 

 紙の角で指先が乾く。インクの匂いが、指に移る。

 頭は澄んでいるはずなのに、喉だけが渇く。

 あの「愛が詰まってる」の一言が、私の口の中の水分を奪っていくみたいに。

 

 ミカさんの行動は、先生の癒やしになっているのかもしれませんが、業務効率という観点から見ればマイナスです。

 私たちは先生の仕事を手伝う当番として――少なくとも表面上は、ここにいるのに。

 先生の手を止めさせ、意識を分散させ、結果として残業時間を延ばしている。

 彼女は「先生のため」と言いながら、その実、自分の「尽くしたい欲求」を満たしているに過ぎない。

 

 無邪気(我儘)で、直情的(浅慮)で、計算のない愛らしさ(衝動的)

 あるいは、絶対的な肯定を前提とした自由(お姫様)

 それが彼女のいいところであり――悪いところなのだと。

 

 そう、私は思った。

 思ってしまった。

 そして、その判断の速さに、自分でも驚くほど満足してしまいました。

 

「あ、ナギちゃんも食べる? 一個くらいならあげてもいいよ?」

「いえ、結構です」

 

 私は視線も上げずに答えます。

 その言葉の裏にある「貴方とは違って私は仕事をしているのです」という棘に、彼女は気づきもしない。

 気づかれない棘ほど、刺した側の指先だけがじんと痺れる。

 

「ちぇー。ナギちゃんってば、真面目なんだからー」

 

 ミカさんは悪びれもせず、また先生にリンゴを押し付け始めました。

 先生が困ったように、けれど助けを求めるようにこちらを見ます。

 

 その視線と合った瞬間。

 胸の奥で、暗く熱いものが沸き立ちました。

 胃の底に、ぬるい蜜が溜まっていくような感覚。

 舌にいつまでも残るような甘さ。

 

 それをきっと、優越感と呼ぶのでしょう。

 

 ああ、先生。困っていらっしゃるのですね。

 無邪気すぎる彼女の愛情に、疲れていらっしゃるのですね。

 貴方を本当に理解し、貴方の負担を取り除き、貴方に静寂と安らぎを与えられるのは誰か。

 貴方は今、それを肌で感じているはずです。

 

 ……そう思った瞬間、私は理解しました。

 私は「助けたい」のではない。

 「選ばれたい」のだ、と。

 助けるふりをして、貴方の視線を、こちらに固定したいのだ、と。

 

 私はペンを置き、立ち上がりました。

 

「先生。書類の整理、急ぎの案件までは終わりました。残りはトリニティ管轄の案件ですので、私が持ち帰って処理しておきます」

「えっ、本当に? いいの、ナギサ?」

「ええ。これ以上、貴方の貴重な時間を浪費させるわけにはいきませんから」

 

 言いながら、私はミカさんを一瞥しました。

 ――浪費。

 その二文字に、私の感情がどれほど詰まっているか、彼女は知らないでしょう。

 

 そして先生に向かって完璧な微笑みを向けました。

 完璧さとは、感情の露出を徹底的に殺した結果の、表面張力です。

 落ちないように、溢れないように、ただ薄く張り詰めている。

 

「そうだ、美味しい紅茶の茶葉を持ってきました。よろしければ、一杯いかがですか? 口に残ったリンゴの酸味を流すには、丁度いいかと」

「ありがとね。助かるよ。ナギサの紅茶、飲みたかったんだ」

 

 先生の表情が、パッと明るくなる。

 安堵。信頼。そして敬意。

 ミカさんに向けられる「手のかかる子供への愛」とは違う、対等な大人への眼差し。

 

 その差分だけが、鋭利に、私の喉を撫でました。

 痛いのに、うれしい。

 うれしいことが、痛い。

 

 私は給湯室へ向かいながら、ポットに湯を注ぎます。

 茶葉が湯の中で踊り、透明な湯が徐々に琥珀色へと染まっていく。

 その抽出の過程を見つめながら、私は心の中で独りごちます。

 

(私なら、そんな失敗はしません)

(私なら、貴方の仕事を邪魔したりしません)

(私なら、もっと上手に貴方を愛せるのに)

 

 その「もしも」は、禁断の仮定でした。

 理性が「考えてはいけない」と蓋をしていたはずの言葉が、茶葉の成分のように滲み出してくる。

 止めようとするほど、濃くなる。香りが立つ。逃げ場がない。

 

 ミカさんは可愛らしい。

 けれど、その時先生に必要なものを見抜くこと、自分を置き去りにしても支える事は難しい。

 彼女にはない知性を、気品を、献身を、私は持っている。

 

 その発想の瞬間、私は自分の心が濡れているのを感じました。

 羨望は、乾いた怒りではない。

 じわじわと染みて、まとわりついて、衣服の内側を冷やしていく。

 

 ――ポタリ。

 

 ポットから最後の一滴が落ちました。

 完璧な紅茶が入りました。

 けれど、その香りはどこか、鼻につく傲慢さを帯びているように感じられました。

 自分が作ったはずなのに、他人の香水みたいに不快で、甘ったるい。

 

 今の私が抱いている、このどす黒い優越感。

 親友を見下し、その座を脅かそうとする不遜な思考。

 これは良くないものだと、私は気付いていました。

 

 気付いていて、なお、その梁を外さなかった。

 外してしまったら、自分に何が残るのかが怖かったのです。

 

「お待たせしました。ダージリンのセカンドフラッシュです」

 

 私はトレーを持って、二人の元へ戻ります。

 

「わー、いい匂い!ありがと、ナギちゃん!」

「はい、どうぞミカさん。……火傷しないように気をつけてくださいね」

 

 私は親友にカップを差し出します。

 冷たい嘲笑を笑顔の下に隠して。

 

 ミカさんの指先は、さっきまでリンゴの果汁で少しだけ艶がありました。

 その湿り気が、白いカップを汚すのではないかと一瞬思って――思ってしまって、私は自分の心の狭さに軽く息を詰めました。

 汚れているのはカップではない。私のほうなのに。

 

 お湯は色づいてしまいました。

 一度抽出された成分は、もう二度と茶葉には戻りません。

 

『私の方が、先生にふさわしい』

 

 その甘美で醜悪な自覚が、私の心の中でゆっくりと広がり始めていました。

 端から濡れて、輪郭だけを大きくして、中心をいつまでも乾かさない染みのように。

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