『あなたは、兄弟の目にある塵は見えるのに、なぜ自分の目にある梁には気づかないのか』
『偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい』
『そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目から塵を取り除くことができるだろう』
――マタイによる福音書、第7章
◆
週末のシャーレは、甘ったるいカオスの只中にありました。
空調の乾いた風に乗って、果物の匂いがする。リンゴの糖分が、室内の「仕事」の空気にべったりと張り付いている。
カーペットの繊維にまで染み込みそうなほど、軽薄で、幸福で――息苦しい香り。
「はい、あーん! どう先生? 私が剥いたリンゴ、美味しい?」
「あー、うん。美味しいよミカ。……ちょっと実が小さいけど」
「もう、贅沢言わない! その分愛が詰まってるんだから☆」
「そうかなあ?」
「そうだよ!」
ソファを占拠するミカさん。
彼女の膝には不恰好に剥かれたリンゴが載った皿があり、彼女はそれを甲斐甲斐しく先生の口へと運んでいます。
先生は苦笑いしながらも、それを拒絶することなく受け入れている。
――しゃくり、と。
歯が果肉を噛み切る、湿った音がした。
その音は、書類の紙擦れとはまるで違う種類の「生」を連れてくる。口の中、舌、唾液、甘さ。そういうものを。
微笑ましい光景です。まさしく、平和な昼下がり。
……平和。ええ、平和。
だからこそ、私の胸の奥で、静かに不穏が増殖していくのでしょう。
私はその光景を、少し離れたデスクの傍らで眺めていました。
手元には、先生が処理しきれずに積み上げていた書類の山。
私はここ一時間、無言でその決裁処理を手伝っています。
紙の角で指先が乾く。インクの匂いが、指に移る。
頭は澄んでいるはずなのに、喉だけが渇く。
あの「愛が詰まってる」の一言が、私の口の中の水分を奪っていくみたいに。
ミカさんの行動は、先生の癒やしになっているのかもしれませんが、業務効率という観点から見ればマイナスです。
私たちは先生の仕事を手伝う当番として――少なくとも表面上は、ここにいるのに。
先生の手を止めさせ、意識を分散させ、結果として残業時間を延ばしている。
彼女は「先生のため」と言いながら、その実、自分の「尽くしたい欲求」を満たしているに過ぎない。
あるいは、
それが彼女のいいところであり――悪いところなのだと。
そう、私は思った。
思ってしまった。
そして、その判断の速さに、自分でも驚くほど満足してしまいました。
「あ、ナギちゃんも食べる? 一個くらいならあげてもいいよ?」
「いえ、結構です」
私は視線も上げずに答えます。
その言葉の裏にある「貴方とは違って私は仕事をしているのです」という棘に、彼女は気づきもしない。
気づかれない棘ほど、刺した側の指先だけがじんと痺れる。
「ちぇー。ナギちゃんってば、真面目なんだからー」
ミカさんは悪びれもせず、また先生にリンゴを押し付け始めました。
先生が困ったように、けれど助けを求めるようにこちらを見ます。
その視線と合った瞬間。
胸の奥で、暗く熱いものが沸き立ちました。
胃の底に、ぬるい蜜が溜まっていくような感覚。
舌にいつまでも残るような甘さ。
それをきっと、優越感と呼ぶのでしょう。
ああ、先生。困っていらっしゃるのですね。
無邪気すぎる彼女の愛情に、疲れていらっしゃるのですね。
貴方を本当に理解し、貴方の負担を取り除き、貴方に静寂と安らぎを与えられるのは誰か。
貴方は今、それを肌で感じているはずです。
……そう思った瞬間、私は理解しました。
私は「助けたい」のではない。
「選ばれたい」のだ、と。
助けるふりをして、貴方の視線を、こちらに固定したいのだ、と。
私はペンを置き、立ち上がりました。
「先生。書類の整理、急ぎの案件までは終わりました。残りはトリニティ管轄の案件ですので、私が持ち帰って処理しておきます」
「えっ、本当に? いいの、ナギサ?」
「ええ。これ以上、貴方の貴重な時間を浪費させるわけにはいきませんから」
言いながら、私はミカさんを一瞥しました。
――浪費。
その二文字に、私の感情がどれほど詰まっているか、彼女は知らないでしょう。
そして先生に向かって完璧な微笑みを向けました。
完璧さとは、感情の露出を徹底的に殺した結果の、表面張力です。
落ちないように、溢れないように、ただ薄く張り詰めている。
「そうだ、美味しい紅茶の茶葉を持ってきました。よろしければ、一杯いかがですか? 口に残ったリンゴの酸味を流すには、丁度いいかと」
「ありがとね。助かるよ。ナギサの紅茶、飲みたかったんだ」
先生の表情が、パッと明るくなる。
安堵。信頼。そして敬意。
ミカさんに向けられる「手のかかる子供への愛」とは違う、対等な大人への眼差し。
その差分だけが、鋭利に、私の喉を撫でました。
痛いのに、うれしい。
うれしいことが、痛い。
私は給湯室へ向かいながら、ポットに湯を注ぎます。
茶葉が湯の中で踊り、透明な湯が徐々に琥珀色へと染まっていく。
その抽出の過程を見つめながら、私は心の中で独りごちます。
(私なら、そんな失敗はしません)
(私なら、貴方の仕事を邪魔したりしません)
(私なら、もっと上手に貴方を愛せるのに)
その「もしも」は、禁断の仮定でした。
理性が「考えてはいけない」と蓋をしていたはずの言葉が、茶葉の成分のように滲み出してくる。
止めようとするほど、濃くなる。香りが立つ。逃げ場がない。
ミカさんは可愛らしい。
けれど、その時先生に必要なものを見抜くこと、自分を置き去りにしても支える事は難しい。
彼女にはない知性を、気品を、献身を、私は持っている。
その発想の瞬間、私は自分の心が濡れているのを感じました。
羨望は、乾いた怒りではない。
じわじわと染みて、まとわりついて、衣服の内側を冷やしていく。
――ポタリ。
ポットから最後の一滴が落ちました。
完璧な紅茶が入りました。
けれど、その香りはどこか、鼻につく傲慢さを帯びているように感じられました。
自分が作ったはずなのに、他人の香水みたいに不快で、甘ったるい。
今の私が抱いている、このどす黒い優越感。
親友を見下し、その座を脅かそうとする不遜な思考。
これは良くないものだと、私は気付いていました。
気付いていて、なお、その梁を外さなかった。
外してしまったら、自分に何が残るのかが怖かったのです。
「お待たせしました。ダージリンのセカンドフラッシュです」
私はトレーを持って、二人の元へ戻ります。
「わー、いい匂い!ありがと、ナギちゃん!」
「はい、どうぞミカさん。……火傷しないように気をつけてくださいね」
私は親友にカップを差し出します。
冷たい嘲笑を笑顔の下に隠して。
ミカさんの指先は、さっきまでリンゴの果汁で少しだけ艶がありました。
その湿り気が、白いカップを汚すのではないかと一瞬思って――思ってしまって、私は自分の心の狭さに軽く息を詰めました。
汚れているのはカップではない。私のほうなのに。
お湯は色づいてしまいました。
一度抽出された成分は、もう二度と茶葉には戻りません。
『私の方が、先生にふさわしい』
その甘美で醜悪な自覚が、私の心の中でゆっくりと広がり始めていました。
端から濡れて、輪郭だけを大きくして、中心をいつまでも乾かさない染みのように。