『高慢にならないように、わたしの肉体に一つの棘が与えられた』
『わたしは、それを去らせてくださるようにと、三度も主に願った』
『しかし、主は言われた。「わたしの恵みは、あなたに十分である」』
――コリントの信徒への手紙二、第12章
◆
放課後のシャーレ。
廊下の空気はまだ昼の熱を引きずっていて、窓から斜めに差す光が、机の角を白く刃のように見せていました。
私は扉の前で一度だけ呼吸を整え、書類の端で指先が切れそうなほど強く掴んでいることに気づきます。
……いけない。力を抜かなければ。いつもの私でいなければ。
扉の向こうから、私の理解を超えた「慈愛」の音が漏れてきました。
「うう……先生ぇ、もう無理だよぉ。ね、ちょっと休憩しない?」
「さっきもそう言って休憩したってば……ミカはやればできるんだから、もう少し頑張ろうか」
「えー! 鬼! 悪魔! ……先生のバカぁ」
机に突っ伏して涙目になるミカさんと、困ったように、けれど愛おしそうに彼女を諭す先生。
ミカさんは不機嫌そうに頬を膨らませ、ペンを放り出し、先生の袖を掴んで揺らしています。
制服の布が擦れる音。甘えた声。湿った息。
そのどれもが、教室の喧騒とは違う種類の“近さ”を含んでいる。
けれど、先生は怒りません。
あろうことか、彼はため息をつきながらも、彼女の頭に手を置き、ポンポンと優しく撫でたのです。
――ぽんぽん。
軽い音。軽い動作。
それなのに、その一拍ごとに、私の胸の内側が小さく刺される。
棘はいつも、そうやって「大したことのないふり」をして入り込む。
「……仕方ないなぁ。じゃあ、ここまでやったらね」
「ほんと!? やった! 大好き☆」
現金な歓声。弾けるような笑顔。
その瞬間、二人の間に流れた空気は、私の立ち入れない不可侵領域でした。
――彼女が文句を言って、先生が撫でて、許して、笑って終わる。
その循環が、あまりにも自然で、あまりにもよくできていて。
私はそれを「美しい」と呼ぶべきなのに、呼べない自分がいる。
「手のかかる子ほど可愛い」
よく聞くその言葉が、鋭い針となって私の鼓膜を刺します。
ミカさんを、先生は彼女を放っておけない。
彼女の「欠落」は、先生の「庇護欲」と完璧に噛み合っている。凸と凹のように。
では、欠落のない――いや、"無いように見える"私は?
「――ナギサ。来てたんだ。声かけてくれたらよかったのに」
ミカさんが一段落した頃、ようやく先生が私に気づきました。
私は強張る頬を緩め、いつもの微笑みを貼り付けます。
頬の筋肉が、薄い紙を引き伸ばすみたいに痛む。
微笑みはいつだって、少しだけ身体に負担がかかるのです。
「ええ。確認事項がありまして、書類を持参しました。……お取り込み中のようでしたので、控えておりましたが……」
「ゔっ……ごめんごめん。見ての通り、ミカの相手で手一杯でさ」
先生は苦笑しながら、肩をすくめてみせました。
そして、ふと真面目な顔になり、私にこう言ったのです。
「書類…ありがとう。本当に、ナギサがいてくれて助かるよ」
その言葉は、純粋な称賛でした。
純粋で、清潔で、善意だけで出来ている。
だからこそ、私の皮膚の内側に、まっすぐ刺さる。
「ナギサにはつい頼ってしまうね。いつもごめん、本当にありがとう」
「……」
先生。
貴方はご存知ないでしょう。
その信頼の言葉が、私にとってどれほど残酷な
それはつまり、「貴方には手をかける必要がない」ということです。
「貴方には、頭を撫でて機嫌を取る必要がない」ということです。
貴方にとって私は、仕事のパートナーではあっても、守り慈しむべきヒロインではない。
……いいえ、それはただの当然の論理、なのに。
理解してしまう。
理解できてしまうことが、今の私を殺す。
「聡明さ」が、「自律」が、私と貴方を隔てる巨大な壁になっている。
この「棘」を抜いてしまいたい。
私もミカさんのように、感情を撒き散らし、貴方に縋り付いて泣けたら、どんなに楽でしょう。
けれど、できません。
私がそれをやってしまえば、誰がティーパーティーを支えるのですか?
誰が貴方の負担を減らすのですか?
そう言い聞かせる声は、祈りではなく、戒めです。
自分の首に自分で巻きつけた、見えない縄。
締め付けているのに、ほどけないように自分で結び目を確かめてしまう。
私は三度、願いました。
声に出して、ではありません。
そんなことは、私にはできないから。
一度目。喉が動いて、「私も」と言いかけて、飲み込みました。
二度目。先生の袖に伸ばしかけた指を、膝の上で握り潰しました。爪が掌に食い込み、熱が残る。
三度目。微笑みの奥で、たった一つだけ本当の言葉を浮かべて――息と一緒に消しました。
去らない。
棘は去らない。
むしろ、願うたびに、棘の輪郭だけがはっきりしていく。
「……光栄です、先生。まあ、役回りといえばそうなのですが」
私は、完璧に微笑みました。
喉の奥からせり上がる嗚咽を、冷めた紅茶と共に飲み下して。
「ええ、ティーパーティーのホストとして、当然の務めを果たしているまでです」
嘘です。
本当は、務めなんて放り出して、貴方の袖を掴みたい。
「私だって寂しい」と、「私だって構ってほしい」と言いたい。
けれど、私のプライドが、積み上げてきた「正しさ」が、それを許さない。
私は自分で自分を呪縛している。
そして、その呪縛がほどける瞬間を――怖がりながら、どこか期待している。
手元のカップの中の紅茶が、冷めていきます。
湯気が薄くなり、香りが遠のき、表面が妙に静かになる。
温度の下がった紅茶は、タンニンとカフェインが結合し、白く濁り始めます。
クリームダウン。
透き通っていた液体が、底の方から淀んでいく現象。
私の心も同じです。
抽出された「優越感」は、冷ややかな現実によって冷やされ、重い「劣等感」となって心の底へ沈殿していく。
沈殿したそれは、混ぜても戻らない。
戻らないことを、私は知っている。知っていて、見ないふりをする。
(ああ、羨ましい)
沈殿物は語ります。
(愛されるのは、いつだって――)
最後まで言わせてしまえば、私はもう戻れない。
だから私は、言葉の途中で飲み込む。
いつもそうしてきた。これからも、そうするつもりだった。
私は濁った紅茶を飲み干しました。
ぬるい。渋い。
ザラリとした舌触りが、いつまでも口の中に残りました。
まるで、口の中に小さな棘が刺さったまま、抜けないみたいに。
先生はまたミカさんに向き直り、次の問題を指で示しています。
ミカさんは「えー」と言いながらも、結局は嬉しそうにペンを取る。
その光景は、あまりにも“救い”の形をしていました。