彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三章:Gethsemane(ゲッセマネの祈り)

『わが父よ、もしできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』

『しかし、わたしの望みではなく、御心のままに』

                           ――マタイによる福音書、第26章

 

 

 午前二時。トリニティの学生寮、私の個室。

 重厚なカーテンは閉ざされ、月明かりすら届かない密室で、私は一人、ティーウォーマーの蝋燭を見つめています。

 

 室内は静かです。

 静かすぎて、耳の奥が勝手に音を探し始める。壁の向こうの配管が鳴る気配、遠い廊下の軋み、時計の針が刻むかすかな呼吸。

 そのすべてが、私の孤独を輪郭づけていく。

 

 蝋の匂いが甘く、熱がほんのわずかに空気を揺らします。

 ガラスポットの中で、紅茶が静かに、しかし絶え間なく対流しています。

 底から上がった熱が、液体を押し上げ、上の冷えた部分がまた沈んでいく。

 循環――けれど、これは本来あるべき循環ではありません。

 

 本来、紅茶は淹れたてを飲むものです。

 いつまでも熱を加え続ければ、水分は飛び、成分は凝縮され、繊細な香りは焦げ臭い雑味へと変質してしまう。

 煮詰まる(スチューイング)

 それは紅茶にとっての死であり、今の私の心の在り様そのものです。

 

 (……忘れましょう)

 

 私は自分に言い聞かせます。

 この感情は間違いでした。

 抽出し、沈殿させてしまったこの不純物を、すべて排水溝に流してしまえばいい。

 「私たちはただの先生と生徒です」と割り切ってしまえば、この胸の痛みから解放される。

 それが最も合理的で、最も損害の少ない選択なのですから。

 

 そう、この杯を私から過ぎ去らせてしまえば。

 この独占欲を、嫉妬を、未練を、きれいに消し去ってしまえば。

 明日目が覚めたら、あの無邪気なミカさんの笑顔を、一点の曇りもなく愛せるようになるのに。

 

 ――なのに。

 

 私はポットの蓋に手をかけ、動きを止めました。

 指先が熱で乾いている。

 爪の先が、ガラスの縁に小さく当たって、かちりと音を立てた。たったそれだけで、胸が跳ねます。

 私の中には今、驚くほど浅い振動で壊れてしまいそうなものがある。

 

 (……嫌です)

 

 理性の声に、感情が駄々をこねるのです。

 

 (忘れたくない。……捨てたくない)

 

 その本音が、喉元で焼き付きました。

 口に出せば、煙みたいに溶けてしまう。だから私は、胸の奥に押し込んで、そこに「重さ」として残します。

 

 だって、これがなくなってしまったら、私の中には何が残るのですか?

 

 私は、誰かに甘えるより先に、場を整えました。

 泣くより先に、微笑みました。

 縋るより先に、支えました。

 そうすることでしか生きられない自分を「高潔」と呼んで、守ってきた。

 そして今、その高潔さが、私から“恋の役割”だけを奪っていく。

 私は何も失わない代わりに、何かを削り続けてきたのに。

 

 彼女のように愛されることも、無邪気に許されることもできない。

 私に残された、たった一つの大切な感情。

 痛みも、苦しみも、嫉妬も。

 すべては、私が彼を愛したという証拠。

 私が「桐藤ナギサ」という一人の女性として生きた証明。

 

 それを捨ててしまったら、私は本当に、ただの「ティーパーティーのホスト」になってしまう。

 “正しい人”のまま、上手に空っぽになってしまう。

 

 私は小さく息を吸いました。

 胸が痛む。

 痛みがあるのに、安心してしまう。

 この痛みは、私のものだ。誰にも渡っていない。誰にも汚されていない。

 

 コポ、コポ……。

 

 ポットの中で小さな気泡が上がります。

 沸騰(シマーリング)

 行き場を失った水は、ただ熱せられ続けます。

 

 想いを伝え、受け入れられ、循環している時、水は清らかなままでいられる。

 けれど、私の想いは一方通行です。

 与えたいのに与えられない。届かせたいのに届かない。

 出口を塞がれたポットの中で、熱量だけが限界まで高まっていく。

 

 煮詰まった紅茶の色は、まるで血のように濃く、黒い。

 タンニンの渋みと、カフェインの苦味が、極限まで濃縮された劇薬。

 香りはもう「芳醇」ではなく、「焦げた甘さ」だ。

 甘いのに、喉が拒絶する匂い。

 

 これが貴方の選んだ道でしょう。

 親友として、彼らを祝福すると決めたのでしょう。

 

 私は自分の膝の上で、指をきつく組みました。

 関節が白くなる。

 祈りの形は作れる。いくらでも。

 けれど――祈りの言葉が、出てこない。

 

 私は口を開きました。

 

 「もしできることなら、この杯を……」

 

 声が掠れた。夜の乾きが、舌に引っかかる。

 それでも続けようとして、私は一瞬、息を止めました。

 

 過ぎ去らせてください。

 本当なら、その次に続くはずの言葉。

 けれど私は、そこで止まってしまう。

 

 だって、過ぎ去らせたくないのです。

 痛いほどに。

 その語を、私は舌の上に乗せられませんでした。

 代わりに、喉の奥から出たのは、もっと醜く、もっと人間らしい言葉。

 

 「……私の、ままに」

 

 言ってしまった。

 蝋燭の火が、ふっと揺れた気がしました。

 誰かが咎めたわけではない。

 ただ、自分が自分を見てしまっただけです。

 

 私は震える手でポットを持ち上げ、カップに注ぎました。

 とろり、と。

 液体が落ちる音が、濃すぎて、鈍い。

 湯気だけでむせ返るような刺激臭がして、鼻の奥がつんと痛む。

 

 一口、含みました。

 

 「……っ」

 

 舌が痺れる。喉が焼ける。

 熱い。苦い。渋い。

 不味い。

 吐き気がするほど不味い。

 

 これが、煮詰まった恋の味。

 かつては甘く芳醇だったはずの想いが、行き場を失って変質した成れの果て。

 

 涙が出そうになる。

 でも、それは悲しみの涙ではありません。

 身体が拒絶しているだけだ。

 自分の中の本能が「毒だ」と告げているだけだ。

 

 それでも、私は飲み込みました。

 喉を通る熱い液体が、食道を焼き、胃の中で重くのたうち回ります。

 胃が熱いのに、背中が冷える。

 腹の底に落ちた瞬間、そこに「石」ができたみたいに重い。

 

 私はこの杯を受け入れましょう。

 私のエゴを、私の愛を、死ぬまで守り抜くために。

 

 守る――そう言いながら、私は理解しています。

 これは守るというより、抱え込むということ。

 抱え込んだまま、腐らせるということ。

 

 それでもいい。

 少なくともこれは、私の内側に残る。

 誰にも見えない場所で、私だけが知っている形で、私を刺し続ける。

 

 カップの底に、黒い輪郭が残りました。

 かき混ぜれば均一に広がるでしょう。

 けれど、私はスプーンを取らない。

 濁りを広げる勇気も、濁りを捨てる勇気もない。

 

 私の内側で、理性の弁が壊れる音がしました。

 それは金属が千切れる音ではなく、陶器がひび割れる音でもなく、

 もっと静かで、もっと確実な音――

 「もう戻らない」と確定する音。

 

 もう熱は逃げません。

 あとは、水分が飛び、焦げ付くまで煮詰め続けるだけ。

 蝋燭が燃え尽きるまで。

 私が、私でいることに飽きるまで。

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