『わが父よ、もしできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』
『しかし、わたしの望みではなく、御心のままに』
――マタイによる福音書、第26章
◆
午前二時。トリニティの学生寮、私の個室。
重厚なカーテンは閉ざされ、月明かりすら届かない密室で、私は一人、ティーウォーマーの蝋燭を見つめています。
室内は静かです。
静かすぎて、耳の奥が勝手に音を探し始める。壁の向こうの配管が鳴る気配、遠い廊下の軋み、時計の針が刻むかすかな呼吸。
そのすべてが、私の孤独を輪郭づけていく。
蝋の匂いが甘く、熱がほんのわずかに空気を揺らします。
ガラスポットの中で、紅茶が静かに、しかし絶え間なく対流しています。
底から上がった熱が、液体を押し上げ、上の冷えた部分がまた沈んでいく。
循環――けれど、これは本来あるべき循環ではありません。
本来、紅茶は淹れたてを飲むものです。
いつまでも熱を加え続ければ、水分は飛び、成分は凝縮され、繊細な香りは焦げ臭い雑味へと変質してしまう。
それは紅茶にとっての死であり、今の私の心の在り様そのものです。
(……忘れましょう)
私は自分に言い聞かせます。
この感情は間違いでした。
抽出し、沈殿させてしまったこの不純物を、すべて排水溝に流してしまえばいい。
「私たちはただの先生と生徒です」と割り切ってしまえば、この胸の痛みから解放される。
それが最も合理的で、最も損害の少ない選択なのですから。
そう、この杯を私から過ぎ去らせてしまえば。
この独占欲を、嫉妬を、未練を、きれいに消し去ってしまえば。
明日目が覚めたら、あの無邪気なミカさんの笑顔を、一点の曇りもなく愛せるようになるのに。
――なのに。
私はポットの蓋に手をかけ、動きを止めました。
指先が熱で乾いている。
爪の先が、ガラスの縁に小さく当たって、かちりと音を立てた。たったそれだけで、胸が跳ねます。
私の中には今、驚くほど浅い振動で壊れてしまいそうなものがある。
(……嫌です)
理性の声に、感情が駄々をこねるのです。
(忘れたくない。……捨てたくない)
その本音が、喉元で焼き付きました。
口に出せば、煙みたいに溶けてしまう。だから私は、胸の奥に押し込んで、そこに「重さ」として残します。
だって、これがなくなってしまったら、私の中には何が残るのですか?
私は、誰かに甘えるより先に、場を整えました。
泣くより先に、微笑みました。
縋るより先に、支えました。
そうすることでしか生きられない自分を「高潔」と呼んで、守ってきた。
そして今、その高潔さが、私から“恋の役割”だけを奪っていく。
私は何も失わない代わりに、何かを削り続けてきたのに。
彼女のように愛されることも、無邪気に許されることもできない。
私に残された、たった一つの大切な感情。
痛みも、苦しみも、嫉妬も。
すべては、私が彼を愛したという証拠。
私が「桐藤ナギサ」という一人の女性として生きた証明。
それを捨ててしまったら、私は本当に、ただの「ティーパーティーのホスト」になってしまう。
“正しい人”のまま、上手に空っぽになってしまう。
私は小さく息を吸いました。
胸が痛む。
痛みがあるのに、安心してしまう。
この痛みは、私のものだ。誰にも渡っていない。誰にも汚されていない。
コポ、コポ……。
ポットの中で小さな気泡が上がります。
行き場を失った水は、ただ熱せられ続けます。
想いを伝え、受け入れられ、循環している時、水は清らかなままでいられる。
けれど、私の想いは一方通行です。
与えたいのに与えられない。届かせたいのに届かない。
出口を塞がれたポットの中で、熱量だけが限界まで高まっていく。
煮詰まった紅茶の色は、まるで血のように濃く、黒い。
タンニンの渋みと、カフェインの苦味が、極限まで濃縮された劇薬。
香りはもう「芳醇」ではなく、「焦げた甘さ」だ。
甘いのに、喉が拒絶する匂い。
これが貴方の選んだ道でしょう。
親友として、彼らを祝福すると決めたのでしょう。
私は自分の膝の上で、指をきつく組みました。
関節が白くなる。
祈りの形は作れる。いくらでも。
けれど――祈りの言葉が、出てこない。
私は口を開きました。
「もしできることなら、この杯を……」
声が掠れた。夜の乾きが、舌に引っかかる。
それでも続けようとして、私は一瞬、息を止めました。
過ぎ去らせてください。
本当なら、その次に続くはずの言葉。
けれど私は、そこで止まってしまう。
だって、過ぎ去らせたくないのです。
痛いほどに。
その語を、私は舌の上に乗せられませんでした。
代わりに、喉の奥から出たのは、もっと醜く、もっと人間らしい言葉。
「……私の、ままに」
言ってしまった。
蝋燭の火が、ふっと揺れた気がしました。
誰かが咎めたわけではない。
ただ、自分が自分を見てしまっただけです。
私は震える手でポットを持ち上げ、カップに注ぎました。
とろり、と。
液体が落ちる音が、濃すぎて、鈍い。
湯気だけでむせ返るような刺激臭がして、鼻の奥がつんと痛む。
一口、含みました。
「……っ」
舌が痺れる。喉が焼ける。
熱い。苦い。渋い。
不味い。
吐き気がするほど不味い。
これが、煮詰まった恋の味。
かつては甘く芳醇だったはずの想いが、行き場を失って変質した成れの果て。
涙が出そうになる。
でも、それは悲しみの涙ではありません。
身体が拒絶しているだけだ。
自分の中の本能が「毒だ」と告げているだけだ。
それでも、私は飲み込みました。
喉を通る熱い液体が、食道を焼き、胃の中で重くのたうち回ります。
胃が熱いのに、背中が冷える。
腹の底に落ちた瞬間、そこに「石」ができたみたいに重い。
私はこの杯を受け入れましょう。
私のエゴを、私の愛を、死ぬまで守り抜くために。
守る――そう言いながら、私は理解しています。
これは守るというより、抱え込むということ。
抱え込んだまま、腐らせるということ。
それでもいい。
少なくともこれは、私の内側に残る。
誰にも見えない場所で、私だけが知っている形で、私を刺し続ける。
カップの底に、黒い輪郭が残りました。
かき混ぜれば均一に広がるでしょう。
けれど、私はスプーンを取らない。
濁りを広げる勇気も、濁りを捨てる勇気もない。
私の内側で、理性の弁が壊れる音がしました。
それは金属が千切れる音ではなく、陶器がひび割れる音でもなく、
もっと静かで、もっと確実な音――
「もう戻らない」と確定する音。
もう熱は逃げません。
あとは、水分が飛び、焦げ付くまで煮詰め続けるだけ。
蝋燭が燃え尽きるまで。
私が、私でいることに飽きるまで。