『神の子は大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」』
『すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」』
――マタイによる福音書、第27章
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焦げ臭い匂いがします。
この鼻をつく刺激臭は、私の身体の内側――胸の奥底から漂ってきているのです。
呼吸をするたび、肺ではなく、心臓の裏側に煙が溜まっていくような感覚。
吐き出せない。換気できない。自分の中で燻るだけの匂い。
放課後のトリニティ。
私は、先生とミカさんを探していました。
二人が参加する予定の定例会議の時間になっても現れない二人を、ホストである私が呼びに行く。
それは正当な業務であり、あくまで公的な理由による探索でした。
そう、私はいつだって「正しい理由」がなければ動けないのです。
正しい理由があれば、足は勝手に動く。
正しい理由がなければ、感情が私を動かしてしまう。
それがどれほど醜いことか、私はよく知っているから。
人気のない回廊を歩くと、靴音がやけに乾いて響きました。
壁に掛かった聖像の眼差しが、暗がりから私を見下ろしている気がして、背筋が勝手に伸びる。
伸びた背筋のまま、胸の中だけがじわじわと縮む。
礼拝堂の扉は、重い。
取っ手の金属が冷たく、指先の熱を奪う。
扉を、ほんの少しだけ開けた時。
運命は私を、残酷な特等席へと導きました。
ステンドグラスから差し込む夕陽が、祭壇の前で向かい合う二人を劇的に照らし出していました。
赤。金。葡萄酒のような色。
聖なるはずの光が、どうしてこんなにも生々しいのでしょうか。
埃の粒が光の柱の中で舞い、まるで、誰かの吐息の残骸みたいに揺れていました。
「……っ、先生、ごめんね……私……」
「いいんだよ、ミカ。大丈夫だから」
ミカさんが泣いていました。
過去の罪悪感、周囲の視線、自分自身の弱さ。それらに押しつぶされそうになり、発作的に涙を流す彼女。
私は、その彼女にかける言葉を持たない。
いいえ、かける資格を持たない。
私は彼女を許すと決めた。信じると決めた。
何より、私は彼女を「祝福」すると決めた。
決めたはずだった。
だから、慰めの言葉を持たないのではない。
持っている言葉はすべて、形だけの“正しさ”になってしまう。
それが怖くて、私は沈黙を選んだ。
けれど、先生は違いました。
彼は泣きじゃくるミカさんを、躊躇いなく抱きしめたのです。
教師が生徒を慰めるハグではありません。
一人の男性が、愛しい女性を守ろうとする、力強く、情熱的な抱擁。
腕が回る。背中が引き寄せられる。
ミカさんの細い肩が、先生の胸に押し当てられる。
その距離。呼吸の重なり。
――私の知らない温度。
胸の奥が、きゅう、と音を立てた気がしました。
心臓が縮む音。血が一瞬で引く感覚。
それでも私は、動けない。
扉の隙間に指をかけたまま、まるで自分が“見ていない”ふりをするために、身体を固定してしまう。
そして。
「……大丈夫、ミカは魔女なんかじゃない」
その言葉は、祈りではなく、赦しでした。
赦されるべき者に、赦しを与える声。
救済の声。
同時に、私にとっては宣告でした。
ここに、私の入る余地はない、と。
二つの影が重なりました。
接吻。
契約の印。
私は、音を聞きませんでした。
見たのは光だけ。
赤い光が、二人の輪郭をひとつに縫い合わせていく。
縫い合わせる針は、祭壇の前で煌めきながら、私の瞼の裏にも縫い目を残していく。
「…………っ」
反射的に声を出そうとして、唇を噛んだその瞬間。
私の耳の奥で、何かが一瞬で蒸発する音がしました。
鍋底に残っていた最後の一滴が、高熱の鉄板の上で瞬時に気化する音。
あの音は、涙の前兆ではありません。
涙になるはずだった水分が、泣く前に蒸発した音です。
夕陽の赤が、網膜を焼くほど鮮烈に目に染みて、視界が真っ赤に塗りつぶされていく。
瞬きをすると痛い。
痛いのに、瞬きをやめられない。
焼けるのは目だけじゃない。
「見た」という事実が、私の中で焦げ目になって定着していく。
(私は、何を間違えたのでしょうか)
私は正しくあろうとしました。
感情を殺し、理性を保ち、貴方の生徒として、完璧であろうと努めました。
ミカさんはどうですか?
彼女は感情のままに、かつては貴方を裏切り、多くの迷惑をかけ、今もこうして貴方の手を煩わせている。
なのに、どうして。
どうして貴方が選ぶのは、正しい私ではなく、罪深い彼女なのですか?
なぜ、私の献身は無視され、彼女のワガママは愛されるのですか?
喉の奥で、言葉が泡立ちます。
叫びたい。
けれど叫べない。
私はいつだって、自分の声を“正しい形”に整えてからしか外に出せない。
だから、この叫びは外に出ない。出せない。
内側で煮詰まり、焦げ付いていく。
……ああ。
そうですか。そういうことですか。
貴方は「救い主」なのですね。
満たされた者、自律した者、一人で立てる者には、貴方の救いは必要ない。
欠落し、壊れ、一人では生きられない「罪人」こそが、貴方の愛を受ける資格を持つのですね。
私が失わなかったから――私に救われる資格はないのですね。
その論理は、あまりにも整っていて、吐き気がしました。
整っているからこそ、私の中のどこかが「正しい」と頷いてしまう。
頷いた瞬間、私は自分の首を絞める。
私の敗因は、私が「桐藤ナギサ」であったこと。
私が、何も失っていないように見えること。
ただ、それだけ。
ジジジ、と。
胸の奥で、何かが完全に焼き切れる音がしました。
空焚き。
煮詰まっていた想いは、この瞬間の衝撃によって一気に蒸発し、空っぽになりました。
涙は出ません。
泣くための水なんて、もう一滴も残っていないのですから。
残ったのは、焦げ付き。
鍋底にへばりついた、真っ黒な炭化物質。
「好きだった」という感情の死骸。
「選ばれたかった」という怨嗟の燃えかす。
もう、元の銀色の底は見えません。
どんなに洗っても、どんなに磨いても、この黒い汚れは落ちないでしょう。
私はこの焦げ付いた心を抱えて、これからも生きていくのです。
私は言葉をそこで止めました。
それ以上は祈りになる。
祈りになった瞬間、私はまだ救いを求めていることになる。
そんな惨めさを、今さら認めたくない。
それは、私のためにある言葉ではない。
私は扉をそっと閉めました。
音もなく。気配もなく。
壊れる音さえ立てずに。
扉が閉まる、そのわずかな抵抗が、世界の蓋をする感触でした。
あの光も、あの声も、あの温度も。
全部、私の外側に追いやる。
廊下を戻る私の足音は、驚くほど冷静でした。
冷静というより、機械的でした。
足は正確に前へ出る。呼吸は一定。視線はまっすぐ。
“役割”はまだ生きている。
唇の端が、勝手に吊り上がります。
ああ、私はまだ笑えているのですね。
心は炭になっているのに、顔だけはまだ「桐藤ナギサ」の形を保っている。
なんと機能的であることでしょう。
この日ほど、私は自分の理性に感謝したことはありません。
理性は私を救わない。
ただ、私が崩れる瞬間を、限りなく先延ばしにしてくれる。
その先延ばしが、どれほど残酷な恵みであるかも知らずに。
…そろそろ、会議の始まる時間ですね。
遅れてやってくるはずのお二人を、優しく迎えて差し上げなければ。
それが、私の務めですから。
私は廊下の角で立ち止まり、指先でスカートの皺を軽く整えました。
深呼吸を一つ。
焦げ臭い匂いが、まだ胸の奥にいる。
それでも私は、微笑みの形を作る。
そして、思い出してしまうのです。
先生が、何気なく言った言葉を。
「ナギサの紅茶、美味しいね」
なぜかその一言が、今になって、炭の底から火種みたいに立ち上がりました。
私は確かに、好きだったと、愛していたと思い出させるように。
だからこそ、私の中ではそれが“甘い”まま焦げる。
既に焦げているのに、かつて綺麗だった姿だけが忘れられない。
私は唇の裏で、ひとつだけ言葉を転がします。
――おめでとうございます。
祝福の言葉。私が言うべき言葉。
けれどその語尾が喉に触れた瞬間、胸の奥の焦げ付きが、きし、と鳴った。
祝福は、誰かを軽くする行為ではなかったのですね。
私にとって、それは自分を裂かないための蓋で。
十字架に身体を磔にするための、楔でした。