彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第四章:Golgotha(ゴルゴタの丘)

『神の子は大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」』

『すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」』

                           ――マタイによる福音書、第27章

 

 

 

 焦げ臭い匂いがします。

 この鼻をつく刺激臭は、私の身体の内側――胸の奥底から漂ってきているのです。

 呼吸をするたび、肺ではなく、心臓の裏側に煙が溜まっていくような感覚。

 吐き出せない。換気できない。自分の中で燻るだけの匂い。

 

 放課後のトリニティ。

 私は、先生とミカさんを探していました。

 

 二人が参加する予定の定例会議の時間になっても現れない二人を、ホストである私が呼びに行く。

 それは正当な業務であり、あくまで公的な理由による探索でした。

 そう、私はいつだって「正しい理由」がなければ動けないのです。

 

 正しい理由があれば、足は勝手に動く。

 正しい理由がなければ、感情が私を動かしてしまう。

 それがどれほど醜いことか、私はよく知っているから。

 

 人気のない回廊を歩くと、靴音がやけに乾いて響きました。

 壁に掛かった聖像の眼差しが、暗がりから私を見下ろしている気がして、背筋が勝手に伸びる。

 伸びた背筋のまま、胸の中だけがじわじわと縮む。

 

 礼拝堂の扉は、重い。

 取っ手の金属が冷たく、指先の熱を奪う。

 

 扉を、ほんの少しだけ開けた時。

 運命は私を、残酷な特等席へと導きました。

 

 ステンドグラスから差し込む夕陽が、祭壇の前で向かい合う二人を劇的に照らし出していました。

 赤。金。葡萄酒のような色。

 聖なるはずの光が、どうしてこんなにも生々しいのでしょうか。

 埃の粒が光の柱の中で舞い、まるで、誰かの吐息の残骸みたいに揺れていました。

 

「……っ、先生、ごめんね……私……」

「いいんだよ、ミカ。大丈夫だから」

 

 ミカさんが泣いていました。

 過去の罪悪感、周囲の視線、自分自身の弱さ。それらに押しつぶされそうになり、発作的に涙を流す彼女。

 

 私は、その彼女にかける言葉を持たない。

 いいえ、かける資格を持たない。

 

 私は彼女を許すと決めた。信じると決めた。

 何より、私は彼女を「祝福」すると決めた。

 決めたはずだった。

 だから、慰めの言葉を持たないのではない。

 持っている言葉はすべて、形だけの“正しさ”になってしまう。

 それが怖くて、私は沈黙を選んだ。

 

 けれど、先生は違いました。

 

 彼は泣きじゃくるミカさんを、躊躇いなく抱きしめたのです。

 教師が生徒を慰めるハグではありません。

 一人の男性が、愛しい女性を守ろうとする、力強く、情熱的な抱擁。

 

 腕が回る。背中が引き寄せられる。

 ミカさんの細い肩が、先生の胸に押し当てられる。

 その距離。呼吸の重なり。

 ――私の知らない温度。

 

 胸の奥が、きゅう、と音を立てた気がしました。

 心臓が縮む音。血が一瞬で引く感覚。

 それでも私は、動けない。

 扉の隙間に指をかけたまま、まるで自分が“見ていない”ふりをするために、身体を固定してしまう。

 

 そして。

 

「……大丈夫、ミカは魔女なんかじゃない」

 

 その言葉は、祈りではなく、赦しでした。

 赦されるべき者に、赦しを与える声。

 救済の声。

 

 同時に、私にとっては宣告でした。

 ここに、私の入る余地はない、と。

 

 二つの影が重なりました。

 接吻。

 契約の印。

 

 私は、音を聞きませんでした。

 見たのは光だけ。

 赤い光が、二人の輪郭をひとつに縫い合わせていく。

 縫い合わせる針は、祭壇の前で煌めきながら、私の瞼の裏にも縫い目を残していく。

 

 「…………っ」

 

 反射的に声を出そうとして、唇を噛んだその瞬間。

 私の耳の奥で、何かが一瞬で蒸発する音がしました。

 鍋底に残っていた最後の一滴が、高熱の鉄板の上で瞬時に気化する音。

 あの音は、涙の前兆ではありません。

 涙になるはずだった水分が、泣く前に蒸発した音です。

 

 夕陽の赤が、網膜を焼くほど鮮烈に目に染みて、視界が真っ赤に塗りつぶされていく。

 瞬きをすると痛い。

 痛いのに、瞬きをやめられない。

 焼けるのは目だけじゃない。

 「見た」という事実が、私の中で焦げ目になって定着していく。

 

 (私は、何を間違えたのでしょうか)

 

 私は正しくあろうとしました。

 感情を殺し、理性を保ち、貴方の生徒として、完璧であろうと努めました。

 

 ミカさんはどうですか?

 彼女は感情のままに、かつては貴方を裏切り、多くの迷惑をかけ、今もこうして貴方の手を煩わせている。

 

 なのに、どうして。

 

 どうして貴方が選ぶのは、正しい私ではなく、罪深い彼女なのですか?

 なぜ、私の献身は無視され、彼女のワガママは愛されるのですか?

 

 喉の奥で、言葉が泡立ちます。

 叫びたい。

 けれど叫べない。

 私はいつだって、自分の声を“正しい形”に整えてからしか外に出せない。

 だから、この叫びは外に出ない。出せない。

 内側で煮詰まり、焦げ付いていく。

 

 ……ああ。

 そうですか。そういうことですか。

 

 貴方は「救い主」なのですね。

 満たされた者、自律した者、一人で立てる者には、貴方の救いは必要ない。

 欠落し、壊れ、一人では生きられない「罪人」こそが、貴方の愛を受ける資格を持つのですね。

 私が失わなかったから――私に救われる資格はないのですね。

 

 その論理は、あまりにも整っていて、吐き気がしました。

 整っているからこそ、私の中のどこかが「正しい」と頷いてしまう。

 頷いた瞬間、私は自分の首を絞める。

 

 私の敗因は、私が「桐藤ナギサ」であったこと。

 私が、何も失っていないように見えること。

 ただ、それだけ。

 

 ジジジ、と。

 胸の奥で、何かが完全に焼き切れる音がしました。

 

 空焚き。

 煮詰まっていた想いは、この瞬間の衝撃によって一気に蒸発し、空っぽになりました。

 涙は出ません。

 泣くための水なんて、もう一滴も残っていないのですから。

 

 残ったのは、焦げ付き。

 鍋底にへばりついた、真っ黒な炭化物質。

 「好きだった」という感情の死骸。

 「選ばれたかった」という怨嗟の燃えかす。

 

 もう、元の銀色の底は見えません。

 どんなに洗っても、どんなに磨いても、この黒い汚れは落ちないでしょう。

 私はこの焦げ付いた心を抱えて、これからも生きていくのです。

 

 先生、先生(わが神、わが神)、なぜ、私を。

 

 私は言葉をそこで止めました。

 それ以上は祈りになる。

 祈りになった瞬間、私はまだ救いを求めていることになる。

 そんな惨めさを、今さら認めたくない。

 主よ、憐れみたまえ(Kyrie eleison)

 それは、私のためにある言葉ではない。

 

 私は扉をそっと閉めました。

 音もなく。気配もなく。

 壊れる音さえ立てずに。

 

 扉が閉まる、そのわずかな抵抗が、世界の蓋をする感触でした。

 あの光も、あの声も、あの温度も。

 全部、私の外側に追いやる。

 

 廊下を戻る私の足音は、驚くほど冷静でした。

 冷静というより、機械的でした。

 足は正確に前へ出る。呼吸は一定。視線はまっすぐ。

 “役割”はまだ生きている。

 

 唇の端が、勝手に吊り上がります。

 ああ、私はまだ笑えているのですね。

 心は炭になっているのに、顔だけはまだ「桐藤ナギサ」の形を保っている。

 なんと機能的であることでしょう。

 

 この日ほど、私は自分の理性に感謝したことはありません。

 理性は私を救わない。

 ただ、私が崩れる瞬間を、限りなく先延ばしにしてくれる。

 その先延ばしが、どれほど残酷な恵みであるかも知らずに。

 

 …そろそろ、会議の始まる時間ですね。

 遅れてやってくるはずのお二人を、優しく迎えて差し上げなければ。

 それが、私の務めですから。

 

 私は廊下の角で立ち止まり、指先でスカートの皺を軽く整えました。

 深呼吸を一つ。

 焦げ臭い匂いが、まだ胸の奥にいる。

 それでも私は、微笑みの形を作る。

 

 そして、思い出してしまうのです。

 先生が、何気なく言った言葉を。

 

 「ナギサの紅茶、美味しいね」

 

 なぜかその一言が、今になって、炭の底から火種みたいに立ち上がりました。

 私は確かに、好きだったと、愛していたと思い出させるように。

 だからこそ、私の中ではそれが“甘い”まま焦げる。

 既に焦げているのに、かつて綺麗だった姿だけが忘れられない。

 

 私は唇の裏で、ひとつだけ言葉を転がします。

 ――おめでとうございます。

 祝福の言葉。私が言うべき言葉。

 けれどその語尾が喉に触れた瞬間、胸の奥の焦げ付きが、きし、と鳴った。

 

 祝福は、誰かを軽くする行為ではなかったのですね。

 私にとって、それは自分を裂かないための蓋で。

 十字架に身体を磔にするための、楔でした。

 

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