『神の子のなさったことは、このほかにまだ数多くある』
――ヨハネによる福音書、第21章
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今日も、トリニティの庭園には穏やかな風が吹いています。
葉の擦れる音は柔らかく、陽光は白磁のテーブルにやさしく反射し、私たちの影を薄く地面に落としました。
今日のティーパーティーは、いつになく幸福な空気に満ちていました。
「それでね、今度は先生と遊園地に行く約束したの! ねー、楽しみだよね先生?」
「そうだね、でもその前に、ちゃんと仕事終わらせてからね」
「もう! そこはナギちゃんにお願いしてさ☆」
「ふふふ、ミカさん…またロールケーキぶちこまれたいんですか?」
「う、嘘嘘!嘘だよー!ちゃんと自分でやるってば!」
白いガーデンテーブルを囲む、三人の影。
ミカさんは太陽のように笑い、先生は困ったように、けれど満更でもなさそうに微笑んでいます。
二人の間に目に見えない「契約」が結ばれていることは、誰の目にも明らかです。
言葉より先に、空気がそう告げていました。
呼吸の速度。視線が戻る場所。何気ない沈黙の居心地の良さ。
これが「正典」です。
誰もが祝福し、誰もが認めるべき、正しい愛の物語。
私は、その傍らでポットを傾けます。
黄金色の液体が、カップに注がれる優雅な音。
香りは芳醇。温度は適温。
私の淹れる紅茶は、今日も変わらず完璧です。
完璧であることは、安心です。
少なくとも紅茶は裏切らない。
蒸らし時間、湯温、茶葉の量。守ったぶんだけ、きちんと応えてくれる。
感情よりずっと素直で、ずっと従順で、ずっと扱いやすい。
「でも、ミカさん、あまり先生を困らせてはいけませんよ?」
私は口を挟みます。
ホストとして。親友として。二人の保護者として。
そして、私はその“役”に助けられます。
「私の言葉」は危うい。けれど「"役割"の言葉」なら安全です。
「うん……ありがとね」
不意に、ミカさんが真面目な顔をして私を見ました。
「私がこうしていられるの、きっとナギちゃんのおかげだから」
「……」
「ありがとう、私を――また、信じてくれて」
その言葉には、一点の曇りもありません。
純粋な感謝。絶対的な信頼。
だからこそ、刺さる。
刃物ではなく、針。深くはないのに、抜けない棘。
ありがとう。
その五文字を、私はかつて望んだはずでした。
なのに今は、喉の奥が小さく攣って、声が一瞬だけ遅れます。
それでも私は、微笑みました。
口角の角度も、声の温度も、過不足なく。
「礼には及びませんよ。ミカさんの幸せが、私の幸せですから」
嘘ではありません。
ミカさんが笑っていると、私も嬉しい。それは事実です。
けれど、それと同じくらいの質量の「乾いた虚無」が、胸の奥にあります。
嬉しいと感じた直後に、同じ速度で乾いていく。
まるで、濡れた指先を風に晒した時みたいに。温度だけが奪われていく。
私は自分の手元のティーカップに視線を落としました。
ボーンチャイナの白磁。美しく透き通るような器。
紅茶を飲み干したその内側――底の縁に、うっすらと茶色い輪がこびりついています。
……小さな輪。
小さすぎて、気づかないふりもできる程度の汚れ。
それでも私は、見てしまう。
見てしまうことを、やめられない。
どれだけスポンジで擦っても、漂白剤を使っても、この汚れは落ちませんでした。
いいえ、正確には私が「落とさなかった」のかもしれません。
落としてしまえば、これはただの汚れになります。
残しておけば、これは“記録”になる。
私の中でたしかに起きたことの、消えない証拠になる。
「私の方が、彼を理解していたのに」
「私の方が、彼を愛していたのに」
「私の方が、正しかったのに」
それらの言葉は、もう熱を持ちません。
ただの記録として、事実として、カップの内壁に焼き付いているだけ。
この焦げ付いた苦味だけが、今の私に残された「恋」の味。
ミカさんが味わっている「愛」という甘露とは違う、私だけが知っている、苦くて、渋くて、焦げ臭い、敗北の味。
これは、誰にも読ませてはいけません。
この茶渋が「恋」の成れの果てだなんて、誰も知ってはいけない。
もし知られれば、この美しい「正典」に泥を塗ることになる。
ミカさんの笑顔を曇らせ、先生に罪悪感を植え付け、平和なエデンを崩壊させてしまう。
だから、沈めなければならない。
新しい紅茶で覆い、香りで誤魔化し、見えない場所に押し込んで、なかったことにするふりをする。
私が飲み干し、私が隠し、私が墓場まで持っていく。
外典とは、そういうものです。
誰にも読まれず、誰にも裁かれず、ただ“存在してしまった”という事実だけが残る。
「二人とも、お代わりはいかがですか?」
私は再びポットを持ち上げます。
注がれる紅茶が、茶渋の輪を覆い隠していきます。
そう、見えなくなれば、存在しないのと同じこと。
……いいえ。
本当は知っています。
飲み干せば、また輪が現れる。
いくら注いでも、いずれ底が見える。
隠すことは消すことではない。
ただ、次に露出するまでの時間を稼ぐだけ。
それでも私は注ぎます。
時間を稼ぐことが、私の得意分野だから。
崩れる瞬間を先延ばしにすることが、私の“才能”だから。
ミカさんと先生の物語は、これからも光の中で続いていくでしょう。
私の物語は、このカップの中で永遠に閉ざされます。
けれど、それでいいのです。
外典には外典の、焦げ付いた矜持がありますから。
誰にも祝福されない感情を、祝福のふりで抱え切る。
その不格好さを、私はもう恥だと思わない。
甘い香りが風に流れます。
焦げた匂いは、もう誰にも届きません。
……届かない。
届かないはずなのに、私はまだ自分の胸の奥でそれを嗅ぎ分けられる。
誰にも届かない匂いを、私だけが知っている。
それは罰であり、同時に、私の最後の所有物でした。
絶望も、嫉妬も、渇望も、すべて飲み干して。
今日も、桐藤ナギサは祝福しているのです。
【桐藤ナギサは祝福している 了】