彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第一章:Les Fenêtres(窓)

『開かれた窓を通して外を見る者は、決して閉ざされた窓を見る者ほど多くのものを見はしない』

『ろうそくの火に照らされた、曇ったガラスの向こう側。そこには生があり、夢があり、苦悩がある』

 

 詩人はそう語りました。

 彼は窓の奥にある他人の人生を勝手に想像し、物語を捏造し、それによって「自分は他人のなかに生きたのだ」と誇るのです。

 

 なんと羨ましい、そして不誠実な生き方でしょう。

 想像で埋められる余白があるなんて。

 

 私にとっての「窓」は、詩的想像を許さないほど鮮明で、残酷なほど高解像度な現実(とうめい)しか映さないのですから。

 

 ◆

 

「もう、先生! 先月の領収書、また趣味の玩具が混ざってるじゃないですか!」

「あはは、バレたか……いや、これには深いわけがあってね? 教材としての側面も……」

「言い訳無用です! 計算する私の身にもなってください!まったくもう…」

 

 放課後のシャーレ。

 夕陽が大きなガラス窓を焼き、室内を粘着質な琥珀色に染め上げています。

 私の目の前で繰り広げられているのは、いつもの光景。いつもの日常。

 

 怒ったふりをするユウカちゃんと、困ったふりをする先生。

 「ふり」と記述したのは、そこに本気の拒絶も、本気の困惑も存在しないからです。

 私はその音声を文字データとして脳内で変換、記録していきます。

 

 私と二人との間には、目に見えない透明な壁があります。

 いいえ、壁ではありませんね。それは「窓」です。

 

 二人は、二人だけの閉じた部屋の中にいて、温かな暖炉の火を囲んでいる。

 私はその窓の外、冷たい暗闇の中に立ち尽くし、ガラス越しにその幸福な(ドラマ)を観測する唯一の観客であり、記録者。

 あるいは、窓ガラスそのもの。

 ぼんやりと幸せを映して溶かす、透明な板。

 

 そう、ガラスは透明であるべきです。

 記録者(観測者)は、対象に影響を与えてはならない。

 だから私は微笑みます。いつもの、完璧な「書記」としての仮面を被って。

 

「ふふっ。ユウカちゃん、そう言いながらも嬉しそうですよ?」

「なっ、ノア!? なに言ってるの、全然嬉しくないわよ! これはただ先生に呆れてるだけだから!」

 

 ユウカちゃんが慌ててこちらを向きます。

 その反応速度、動揺の幅、全てが愛おしく、全てが眩しい。

 

 彼女は「生きて」います。

 計算し尽くされた合理の世界に生きているようで、その実、彼女は誰よりも感情という不可解な海を自由に泳いでいる。

 

 私にはそれができません。

 私の翼――膨大すぎる記憶能力は、一度濡れてしまえば重くなりすぎて、私を海底へと引きずり込んでしまうから。

 だから私は、水面に触れないように、上空からただ眺めるしかないのです。

 

「でもノア、助かったよ。ノアが事前に整理しておいてくれたおかげで、これでもだいぶ早く終わったんだ」

 

 不意に、先生がこちらを見ました。

 窓の内側から、外側にいる私へ。

 その目は優しく、穏やかで、何の疑いもなく私を肯定します。

 

「……当然の仕事をしたまでですよ、先生」

 

 私は平静を装って答えます。

 けれど、胸の奥で何かがミシリと軋む音がしました。

 先生。貴方はご存じないでしょう。

 貴方がユウカちゃんに向ける情熱的な眼差しと、私に向ける信頼の眼差しの決定的かつ物理的な違いを。

 前者は「熱」を帯び、後者は「光」を帯びている。

 光はガラスを透過しますが、熱はガラスに吸収され、蓄積されるのです。

 貴方の視線(ひかり)は、私を素通りして、何も残さずに彼方へ抜けていく。

 

 けれど、貴方がユウカちゃんに向けて放つ視線(ねつ)の余波は、一番近くにいる私というガラスに容赦なく伝わり、逃げ場を失って内部に溜まっていく。

 

 熱い。

 貴方が私を見れば見るほど、私というガラスは熱を持ち、歪んでいきそうになる。

 透明でありたいのに。

 ただの記録装置でありたいのに。

 熱を持ったガラスは、やがて風景を歪めて映すようになってしまう。

 客観(事実)主観(感情)が混ざってしまう。

 

「そうだ、ノア。この後、少し時間ある? 新しいカフェのチケットをもらったんだけど、ユウカと三人でどうかな」

「えっ、私も行くんですか?」

「もちろん。仕事に付き合ってくれたんだから」

 

 三人。

 その言葉は、私を「窓の内側」へ招き入れる招待状のように聞こえます。

 けれど、それは錯覚です。

 三人でいるとき、私はより鮮明に「二人と一人」であることを理解してしまう。

 

 カップルとその友人。主役と記録係。星と天体望遠鏡。

 群衆の中に紛れるよりも、幸福な二人の傍にいる時こそが、最も孤独なのです。

 

 断るべきです。

 賢明な判断をするならば、適当な理由をつけて退室し、一人で寮の白い天井を見上げるべきです。

 しかし、私の口は、脳の指令を裏切りました。

 

「いいですね。ちょうど甘いものが食べたかったんです。たまには先生も、気が利きますね?」

「たまにはって」

 

 嘘です。甘いものなんて欲しくない。

 私が欲しいのは、その窓の内側にある空気でした。

 

 たとえそれが、窒息するほど濃密で、私を異物として浮き上がらせるものだとしても。

 私は、二人だけの幸福な空気に混ざり込み、その匂いを嗅いでいたいのです。

 たとえそれが、私の肺を焼く毒ガスだとしても。

 意味のない、私に向けられたものではない残滓だとしても。

 

 ユウカちゃんが「もう、先生ったら」と笑い、鞄を手に取ります。

 自然な仕草。先生の隣が自分の指定席だと信じて疑わない無邪気さ。

 その圧倒的な「主人公性」に、私は軽いめまいを覚えます。

 それは私が決して持ちえぬものだから。

 

 夕暮れの窓ガラスには、二人の姿と、それに重なるように薄く私の顔が映り込んでいます。

 そこに映る私は、とても綺麗に笑っていました。

 

 まるで、何も感じていないかのように。

 まるで、心なんて最初から持っていない機械のように。

 私は手元の手帳を閉じました。

 黒い表紙の中に、書き切れなかった記録が消えていきます。

 

 見たくないものは記録しない。

 記録しないものは、存在しない。

 だから、今のこの痛みも、存在しない。

 

「行きましょう、ノア」

 

 差し出されたユウカちゃんの手。

 私はその温かい手を取りました。

 

 パリン。

 耳の奥で、微かな音がした気がしました。

 いいえ、気のせいです。

 私のガラスはまだ割れていない。

 そこから何かが漏れ出していたとしても、まだ誰も気づかない。

 私は完璧な笑顔で、親友の手を握り返しました。

 

「はい、行きましょう。ユウカちゃん」

 

 さあ、私たちはこれから、人が溢れる街へ向かいます。

 孤独を紛らわせるための「群衆」へ。

 あるいは――私の孤独を際立たせるための、喧騒へ。

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