『開かれた窓を通して外を見る者は、決して閉ざされた窓を見る者ほど多くのものを見はしない』
『ろうそくの火に照らされた、曇ったガラスの向こう側。そこには生があり、夢があり、苦悩がある』
詩人はそう語りました。
彼は窓の奥にある他人の人生を勝手に想像し、物語を捏造し、それによって「自分は他人のなかに生きたのだ」と誇るのです。
なんと羨ましい、そして不誠実な生き方でしょう。
想像で埋められる余白があるなんて。
私にとっての「窓」は、詩的想像を許さないほど鮮明で、残酷なほど高解像度な
◆
「もう、先生! 先月の領収書、また趣味の玩具が混ざってるじゃないですか!」
「あはは、バレたか……いや、これには深いわけがあってね? 教材としての側面も……」
「言い訳無用です! 計算する私の身にもなってください!まったくもう…」
放課後のシャーレ。
夕陽が大きなガラス窓を焼き、室内を粘着質な琥珀色に染め上げています。
私の目の前で繰り広げられているのは、いつもの光景。いつもの日常。
怒ったふりをするユウカちゃんと、困ったふりをする先生。
「ふり」と記述したのは、そこに本気の拒絶も、本気の困惑も存在しないからです。
私はその音声を文字データとして脳内で変換、記録していきます。
私と二人との間には、目に見えない透明な壁があります。
いいえ、壁ではありませんね。それは「窓」です。
二人は、二人だけの閉じた部屋の中にいて、温かな暖炉の火を囲んでいる。
私はその窓の外、冷たい暗闇の中に立ち尽くし、ガラス越しにその幸福な
あるいは、窓ガラスそのもの。
ぼんやりと幸せを映して溶かす、透明な板。
そう、ガラスは透明であるべきです。
だから私は微笑みます。いつもの、完璧な「書記」としての仮面を被って。
「ふふっ。ユウカちゃん、そう言いながらも嬉しそうですよ?」
「なっ、ノア!? なに言ってるの、全然嬉しくないわよ! これはただ先生に呆れてるだけだから!」
ユウカちゃんが慌ててこちらを向きます。
その反応速度、動揺の幅、全てが愛おしく、全てが眩しい。
彼女は「生きて」います。
計算し尽くされた合理の世界に生きているようで、その実、彼女は誰よりも感情という不可解な海を自由に泳いでいる。
私にはそれができません。
私の翼――膨大すぎる記憶能力は、一度濡れてしまえば重くなりすぎて、私を海底へと引きずり込んでしまうから。
だから私は、水面に触れないように、上空からただ眺めるしかないのです。
「でもノア、助かったよ。ノアが事前に整理しておいてくれたおかげで、これでもだいぶ早く終わったんだ」
不意に、先生がこちらを見ました。
窓の内側から、外側にいる私へ。
その目は優しく、穏やかで、何の疑いもなく私を肯定します。
「……当然の仕事をしたまでですよ、先生」
私は平静を装って答えます。
けれど、胸の奥で何かがミシリと軋む音がしました。
先生。貴方はご存じないでしょう。
貴方がユウカちゃんに向ける情熱的な眼差しと、私に向ける信頼の眼差しの決定的かつ物理的な違いを。
前者は「熱」を帯び、後者は「光」を帯びている。
光はガラスを透過しますが、熱はガラスに吸収され、蓄積されるのです。
貴方の
けれど、貴方がユウカちゃんに向けて放つ
熱い。
貴方が私を見れば見るほど、私というガラスは熱を持ち、歪んでいきそうになる。
透明でありたいのに。
ただの記録装置でありたいのに。
熱を持ったガラスは、やがて風景を歪めて映すようになってしまう。
「そうだ、ノア。この後、少し時間ある? 新しいカフェのチケットをもらったんだけど、ユウカと三人でどうかな」
「えっ、私も行くんですか?」
「もちろん。仕事に付き合ってくれたんだから」
三人。
その言葉は、私を「窓の内側」へ招き入れる招待状のように聞こえます。
けれど、それは錯覚です。
三人でいるとき、私はより鮮明に「二人と一人」であることを理解してしまう。
カップルとその友人。主役と記録係。星と天体望遠鏡。
群衆の中に紛れるよりも、幸福な二人の傍にいる時こそが、最も孤独なのです。
断るべきです。
賢明な判断をするならば、適当な理由をつけて退室し、一人で寮の白い天井を見上げるべきです。
しかし、私の口は、脳の指令を裏切りました。
「いいですね。ちょうど甘いものが食べたかったんです。たまには先生も、気が利きますね?」
「たまにはって」
嘘です。甘いものなんて欲しくない。
私が欲しいのは、その窓の内側にある空気でした。
たとえそれが、窒息するほど濃密で、私を異物として浮き上がらせるものだとしても。
私は、二人だけの幸福な空気に混ざり込み、その匂いを嗅いでいたいのです。
たとえそれが、私の肺を焼く毒ガスだとしても。
意味のない、私に向けられたものではない残滓だとしても。
ユウカちゃんが「もう、先生ったら」と笑い、鞄を手に取ります。
自然な仕草。先生の隣が自分の指定席だと信じて疑わない無邪気さ。
その圧倒的な「主人公性」に、私は軽いめまいを覚えます。
それは私が決して持ちえぬものだから。
夕暮れの窓ガラスには、二人の姿と、それに重なるように薄く私の顔が映り込んでいます。
そこに映る私は、とても綺麗に笑っていました。
まるで、何も感じていないかのように。
まるで、心なんて最初から持っていない機械のように。
私は手元の手帳を閉じました。
黒い表紙の中に、書き切れなかった記録が消えていきます。
見たくないものは記録しない。
記録しないものは、存在しない。
だから、今のこの痛みも、存在しない。
「行きましょう、ノア」
差し出されたユウカちゃんの手。
私はその温かい手を取りました。
パリン。
耳の奥で、微かな音がした気がしました。
いいえ、気のせいです。
私のガラスはまだ割れていない。
そこから何かが漏れ出していたとしても、まだ誰も気づかない。
私は完璧な笑顔で、親友の手を握り返しました。
「はい、行きましょう。ユウカちゃん」
さあ、私たちはこれから、人が溢れる街へ向かいます。
孤独を紛らわせるための「群衆」へ。
あるいは――私の孤独を際立たせるための、喧騒へ。