『群衆、孤独。活動的で多産な詩人にとって、これらは対等で、交換可能な言葉である』
『あまねく人生を愛する者は、電気の流れる巨大な鏡となり、群衆という貯水池となる』
詩人はそう謳いました。
自我という狭い殻を脱ぎ捨て、名もなき群衆の波に溶け込むこと。
人が「愛」と呼ぶものは、この言いようもない饗宴、魂の聖なる売春でもあると。
私はその感覚を、知識として理解はしています。
けれど、体験することは永遠にないでしょう。
私にとっての群衆とは、身を委ねるべき甘美な羊水などではなく、処理すべき膨大なデータの
◆
週末のD.U.中心街は、極彩色のノイズで満ちていました。
行き交う人々の話し声、ショップから漏れるBGM、車の走行音、デジタルサイネージの点滅。
私は無意識のうちに、視界に入る全ての情報をスキャンし、タグ付けし、脳内の棚へ分類していきます。
それは手慰み。あるいは逃避。
そうしていなければ、耐えられないからです。
思考のリソースを環境情報の処理で埋め尽くしておかなければ、空いた隙間に、もっと
たとえば、私の二歩前を歩く、二人の背中。
「あ、見てください先生! このチケットのカフェです、パンケーキが人気みたいですよ」
「本当だ。すごい行列だな……ユウカ、並ぶけど平気?」
「ええ、もちろんです。…先生と一緒なら…」
「…え?なんだって?」
「なんでもありません!ほら!行きますよ!」
ユウカちゃんが先生の袖を軽く引きます。
先生が苦笑しながら、その引力に従います。
そのあまりに自然な連動。
まるで二人は、最初から一つの生き物であるかのように、呼吸を合わせて人波を縫っていきます。
私は、その背中を見失わないように追従するだけの
ああ、群衆の中に紛れてしまいたい。
すれ違う数百人の「誰か」の一人になって、このまま二人の視界からフェードアウトしてしまいたい。
けれど、私の持つ「完全記憶」という呪いは、私の座標を見失うことを許してくれません。
「おーい、ノア! ちゃんとついてきてる?」
不意に先生が振り返り、私に手を振ります。
雑多な群衆の中で、彼だけが鮮明な色彩を帯びて、私の網膜に焼き付きます。
その笑顔は、私を呼んでいるようで、その実、私を「二人と一人」という構図の中に釘付けにするための楔です。
「はい、大丈夫です。子どもじゃないんですから、ちゃんとついていってますよ」
「なら、もうちょっと近くにいてもいいよ?」
「ふふっ、ユウカちゃんと先生の邪魔をしたくありませんから」
「なっ…!の、ノア!」
私は笑顔で手を振り返します。
そう、私は迷子にはなれない。
どれほどこの情報の海に溺れたくても、私は自分の位置を、彼との距離を残酷なほど正確に把握できてしまう。
『自分の孤独を住まわせることを知らぬ者は、忙しい群衆のただなかで「ひとりでいる」こともまた知らない』
詩人はそう言いました。
私はきっと、「ひとりでいる」ことすらもできないのです。
◆
私たちは目的のカフェに入り、窓際の席につきました。
注文したパンケーキが運ばれてくると、ユウカちゃんの目が輝きます。
「わあ……写真通りですね、先生! あ、ノア、ごめん、写真撮って!」
「はいはい、了解です。お二人とも、もう少し寄ってください」
私は慣れた手つきで自分の端末を構えます。
液晶画面の中で、世界がトリミングされます。
フレームの中には、寄り添う先生とユウカちゃん。
背景の群衆は切り捨てられ、二人だけの世界が完成する。
私はその「外側」にいます。
カメラを持つ者は、写真には写らない。
観測者は、風景の一部にはなれない。
これは物理法則であり、私の人生の縮図です。
「はい、撮りますよ。チーズ」
カシャッ。
無機質な電子音が、時間を切り取りました。
この写真は私のデータフォルダに保存され、永遠に劣化することなく残るでしょう。
「仲の良い三人組」の記録として。
そこに
「ありがとうノア! わあ、すごくいい写真!」
「ありがとう、ノア。……次はノアも入ろうよ、店員さんに頼んでさ」
先生の無邪気な提案。
その善意が、今はナイフのように突き刺さります。
この完成された「二人」という絵画に、余計な筆を入れろと言うのですか?
私の笑顔というノイズを混ぜて、この完璧な幸福を濁らせろと言うのですか?
「いえ、私はいいです。記録してますから、写真は必要ありません」
私は笑顔で拒絶します。
本当は、記録なんてしたくない。忘れてしまいたいのに。
写真に残らないことで、私は自分の不在証明を積み重ねていく。
「ん、美味しい! 先生も一口どうですか?」
「じゃあ、お言葉に甘えて……うん、甘すぎなくていいね」
目の前で、二人がフォークを交わらせ、同じ皿の上の甘味を共有しています。
本当は、その二人の間に割り込んで、真ん中でピースサインをしてやりたい。
でも、そんなことをすれば、私は「透明な友人」ではいられなくなる。
こうして親友の恋路を特等席で覗き見て、そのおこぼれに預かって。
それでも捨てきれない、何かがあるのです。
滑稽でしょう。不可解でしょう。ええ、そうでしょうね。
何より私が一番、そう感じているのですから。
私は自分の分の紅茶を口に含みました。
無糖のアールグレイの渋みが舌を刺します。
「……ノア? どうしたの、ボーッとして」
不意に、先生の声が意識を引き戻しました。
ハッとして顔を上げると、心配そうな二つの顔が至近距離にあります。
「顔色が少し悪いよ。大丈夫?」
「え……あ、いえ」
先生の手が、私の額に伸びてきます。
自然な動作。熱を測ろうとする善意。
その指先が私の前髪に触れそうになった瞬間、私は「熱」を思い出しました。
熱い。
まだ触れてもいないのに、その指先から発せられる熱量が、私の許容量を超えている気がして。
拒絶しなければ。
この熱は、私のものではない。
ユウカちゃんに向けられるべき熱の余り火だ。
そんなものを恵んでもらって、喜んでいてはいけない。
そも、今、私というガラスは嫉妬と自己嫌悪で高熱を帯びているのです。
そこに貴方が触れたら、粉々に砕け散ってしまうかもしれません。
「……っ、大丈夫です!」
パシッ。
乾いた音が、楽しいティータイムの空気を凍らせました。
私は反射的に、先生の手を強く払いのけてしまったのです。
ユウカちゃんが目を丸くし、先生が驚いたように手を空中で止めています。
「あ……」
やってしまいました。
観測者は、対象に干渉してはいけないのに。
ましてや、拒絶するなど。
「すみません、私……静電気が、苦手で」
苦しい言い訳でした。
今日の湿度は60%以上。
科学的に見て、静電気が発生する条件ではありません。
そんなこと、ここにいる全員が知っているはずなのに。
場の空気を修復しようと、私は必死に口角を持ち上げます。
けれど、頬の筋肉がうまく動きません。
笑顔の仮面が、ひび割れていくのが分かります。
群衆のノイズが、急に遠ざかっていきます。
代わりに、耳鳴りのような静寂が私を包み込む。
ああ、もう限界なのかもしれません。
思考が焼き切れそうです。
この鋭敏すぎるセンサーを、今すぐ鈍らせてしまいたい。
何も考えられないように。何も感じないように。
私は渇望しました。
詩人が言った、「時間という重荷に潰されないための方法」を。
『――酒でも、詩でも、美徳でもいい』
『――酔う事だ。とにかく、酔いたまえ』
今の私には、正気を保つための狂気が必要でした。
そうでなければ、私はこの場で泣き叫び、ガラスを叩き割ってしまうかもしれないのですから。