彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第二章:Les Foules(群衆)

『群衆、孤独。活動的で多産な詩人にとって、これらは対等で、交換可能な言葉である』

『あまねく人生を愛する者は、電気の流れる巨大な鏡となり、群衆という貯水池となる』

 

 詩人はそう謳いました。  

 自我という狭い殻を脱ぎ捨て、名もなき群衆の波に溶け込むこと。  

 人が「愛」と呼ぶものは、この言いようもない饗宴、魂の聖なる売春でもあると。

 

 私はその感覚を、知識として理解はしています。  

 けれど、体験することは永遠にないでしょう。  

 私にとっての群衆とは、身を委ねるべき甘美な羊水などではなく、処理すべき膨大なデータの濁流(洪水)でしかないのですから。

 

 ◆

 

 週末のD.U.中心街は、極彩色のノイズで満ちていました。  

 行き交う人々の話し声、ショップから漏れるBGM、車の走行音、デジタルサイネージの点滅。

 

 

 私は無意識のうちに、視界に入る全ての情報をスキャンし、タグ付けし、脳内の棚へ分類していきます。

 それは手慰み。あるいは逃避。

 そうしていなければ、耐えられないからです。  

 思考のリソースを環境情報の処理で埋め尽くしておかなければ、空いた隙間に、もっと残酷な情報(めのまえのせかい)が入り込んでくる。

 

 たとえば、私の二歩前を歩く、二人の背中。

 

「あ、見てください先生! このチケットのカフェです、パンケーキが人気みたいですよ」

「本当だ。すごい行列だな……ユウカ、並ぶけど平気?」

「ええ、もちろんです。…先生と一緒なら…」

「…え?なんだって?」

「なんでもありません!ほら!行きますよ!」

 

 ユウカちゃんが先生の袖を軽く引きます。  

 先生が苦笑しながら、その引力に従います。  

 そのあまりに自然な連動。  

 まるで二人は、最初から一つの生き物であるかのように、呼吸を合わせて人波を縫っていきます。

 

 私は、その背中を見失わないように追従するだけの衛星(サテライト)。  

 ああ、群衆の中に紛れてしまいたい。  

 すれ違う数百人の「誰か」の一人になって、このまま二人の視界からフェードアウトしてしまいたい。  

 けれど、私の持つ「完全記憶」という呪いは、私の座標を見失うことを許してくれません。

 

「おーい、ノア! ちゃんとついてきてる?」

 

 不意に先生が振り返り、私に手を振ります。  

 雑多な群衆の中で、彼だけが鮮明な色彩を帯びて、私の網膜に焼き付きます。  

 その笑顔は、私を呼んでいるようで、その実、私を「二人と一人」という構図の中に釘付けにするための楔です。

 

「はい、大丈夫です。子どもじゃないんですから、ちゃんとついていってますよ」

「なら、もうちょっと近くにいてもいいよ?」

「ふふっ、ユウカちゃんと先生の邪魔をしたくありませんから」

「なっ…!の、ノア!」

 

 私は笑顔で手を振り返します。  

 そう、私は迷子にはなれない。  

 どれほどこの情報の海に溺れたくても、私は自分の位置を、彼との距離を残酷なほど正確に把握できてしまう。

 

『自分の孤独を住まわせることを知らぬ者は、忙しい群衆のただなかで「ひとりでいる」こともまた知らない』

 

 詩人はそう言いました。

 私はきっと、「ひとりでいる」ことすらもできないのです。

 

 ◆

 

 私たちは目的のカフェに入り、窓際の席につきました。  

 注文したパンケーキが運ばれてくると、ユウカちゃんの目が輝きます。

 

「わあ……写真通りですね、先生! あ、ノア、ごめん、写真撮って!」

「はいはい、了解です。お二人とも、もう少し寄ってください」

 

 私は慣れた手つきで自分の端末を構えます。  

 液晶画面の中で、世界がトリミングされます。  

 フレームの中には、寄り添う先生とユウカちゃん。  

 背景の群衆は切り捨てられ、二人だけの世界が完成する。

 

 私はその「外側」にいます。  

 カメラを持つ者は、写真には写らない。  

 観測者は、風景の一部にはなれない。  

 これは物理法則であり、私の人生の縮図です。

 

「はい、撮りますよ。チーズ」

 

 カシャッ。  

 無機質な電子音が、時間を切り取りました。  

 この写真は私のデータフォルダに保存され、永遠に劣化することなく残るでしょう。  

「仲の良い三人組」の記録として。  

 そこに撮影者(わたし)が不在であるという事実とともに。

 

「ありがとうノア! わあ、すごくいい写真!」

「ありがとう、ノア。……次はノアも入ろうよ、店員さんに頼んでさ」

 

 先生の無邪気な提案。  

 その善意が、今はナイフのように突き刺さります。  

 この完成された「二人」という絵画に、余計な筆を入れろと言うのですか?  

 私の笑顔というノイズを混ぜて、この完璧な幸福を濁らせろと言うのですか?

 

「いえ、私はいいです。記録してますから、写真は必要ありません」

 

 私は笑顔で拒絶します。  

 本当は、記録なんてしたくない。忘れてしまいたいのに。  

 写真に残らないことで、私は自分の不在証明を積み重ねていく。

 

「ん、美味しい! 先生も一口どうですか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて……うん、甘すぎなくていいね」

 

 目の前で、二人がフォークを交わらせ、同じ皿の上の甘味を共有しています。

 本当は、その二人の間に割り込んで、真ん中でピースサインをしてやりたい。

 でも、そんなことをすれば、私は「透明な友人」ではいられなくなる。  

 こうして親友の恋路を特等席で覗き見て、そのおこぼれに預かって。

 それでも捨てきれない、何かがあるのです。

 滑稽でしょう。不可解でしょう。ええ、そうでしょうね。

 何より私が一番、そう感じているのですから。

 

 私は自分の分の紅茶を口に含みました。  

 無糖のアールグレイの渋みが舌を刺します。

 

「……ノア? どうしたの、ボーッとして」

 

 不意に、先生の声が意識を引き戻しました。  

 ハッとして顔を上げると、心配そうな二つの顔が至近距離にあります。

 

「顔色が少し悪いよ。大丈夫?」

「え……あ、いえ」

 

 先生の手が、私の額に伸びてきます。  

 自然な動作。熱を測ろうとする善意。  

 その指先が私の前髪に触れそうになった瞬間、私は「熱」を思い出しました。

 

 熱い。  

 まだ触れてもいないのに、その指先から発せられる熱量が、私の許容量を超えている気がして。

 

 拒絶しなければ。  

 この熱は、私のものではない。

 ユウカちゃんに向けられるべき熱の余り火だ。  

 そんなものを恵んでもらって、喜んでいてはいけない。

 

 そも、今、私というガラスは嫉妬と自己嫌悪で高熱を帯びているのです。

 そこに貴方が触れたら、粉々に砕け散ってしまうかもしれません。

 

「……っ、大丈夫です!」

 

 パシッ。

 

 乾いた音が、楽しいティータイムの空気を凍らせました。  

 私は反射的に、先生の手を強く払いのけてしまったのです。  

 ユウカちゃんが目を丸くし、先生が驚いたように手を空中で止めています。

 

「あ……」

 

 やってしまいました。  

 観測者は、対象に干渉してはいけないのに。  

 ましてや、拒絶するなど。

 

「すみません、私……静電気が、苦手で」

 

 苦しい言い訳でした。  

 今日の湿度は60%以上。

 科学的に見て、静電気が発生する条件ではありません。  

 そんなこと、ここにいる全員が知っているはずなのに。

 

 場の空気を修復しようと、私は必死に口角を持ち上げます。  

 けれど、頬の筋肉がうまく動きません。

 笑顔の仮面が、ひび割れていくのが分かります。

 

 群衆のノイズが、急に遠ざかっていきます。  

 代わりに、耳鳴りのような静寂が私を包み込む。

 

 ああ、もう限界なのかもしれません。  

 客観(事実)だけで構成されているはずの私の世界に、主観(感情)が溢れ出している。

 

 思考が焼き切れそうです。  

 この鋭敏すぎるセンサーを、今すぐ鈍らせてしまいたい。  

 何も考えられないように。何も感じないように。

 

 私は渇望しました。  

 詩人が言った、「時間という重荷に潰されないための方法」を。

 

 『――酒でも、詩でも、美徳でもいい』 

 『――酔う事だ。とにかく、酔いたまえ』

 

 今の私には、正気を保つための狂気が必要でした。  

 そうでなければ、私はこの場で泣き叫び、ガラスを叩き割ってしまうかもしれないのですから。

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