彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第三章:Enivrez-vous(酔え) あるいは Les Etoiles(星)

『常に酔っていなければならない。すべてはそこにある』

『君の肩を押しつぶし、地面へと折れ曲がらせる、あの「時間」という恐ろしい重荷を感じないために』

『酒でも、詩でも、美徳でも、君の好きなもので。――とにかく、酔いたまえ』

 

 詩人の言葉は、いつだって逃避者のための福音です。  

 私の肩には時間どころではない、「記憶」という名の全重量がのしかかっているのですから。          

 一秒ごとに増え続ける膨大なログ。

 忘却という逃げ場を持たない脳髄。  

 それを支え続ける理性の背骨が砕け散る前に、私は麻酔を求めていました。

 酔いたかったのです。休みなく、酔い続けたかったのです。

 

 ◆

 

 深夜一時、シャーレの執務室。  

 予報通りの雨が、窓ガラスを叩いています。  

 世界を遮断するカーテンのような雨音。  

 空調の低い駆動音だけが、時折、夜の底を撫でていく。

 

 ユウカちゃんは急用でずいぶんと先に帰りました。  

 『先生をよろしくね』という、残酷なほどの信頼を私に残して。  

 私はシャワーを借り、持参したパジャマに着替えました。  

 仕事着である制服を脱ぎ捨て、無防備な布一枚になること。

 それは、ここを「職場」ではなく「私の部屋」だと錯覚するための儀式です。

 

 目の前のソファでは、先生が泥のように眠っています。  

 連日の激務で限界だったのでしょう。  

 書きかけの書類が散らばるローテーブル。緩んだネクタイ。上下する胸元。  

 普段の「先生」という鎧を脱ぎ捨てた、無防備な一人の男性の姿。

 

 私は本来、彼を起こしてベッドへ促すか、あるいは毛布をかけて退出すべきです。  

 それが「書記」としての、「ノア」としての正解。  

 けれど、私は動けませんでした。

 

 どのくらいそうしていたでしょうか。

 私はついに意を決して、手元の手帳を裏返し、デスクの上に伏せました。  

 パタン、と音がして、記録の目は塞がれました。

 

 私は音もなく立ち上がり、ソファへ近づきます。  

 カーペットの上を裸足で歩く。

 足の裏から伝わる冷たさが、逆に体内の熱を煽ります。

 

 部屋の隅では、微かに香りが漂っています。  

 かつて先生が私の部屋に置いてくれたのと同じ、ディフューザーの香り。  

 雨に濡れて咲く百合のような、甘くて優しい香り。  

 それが、目の前にいる先生自身の匂い――珈琲と、インクと、体温の混じった匂いと融合し、この部屋を濃密な密室へと変えている。

 

 吸い込むたびに、頭がくらくらします。  

 ああ、いい匂い。  

 吸い込むたびに、酔いが回るような錯覚。  

 私の理性を溶かし、記憶の解像度を強制的に下げる、甘美な毒ガス。

 

 私はソファの前にしゃがみ込み、先生の寝顔を覗き込みました。  

 距離はたったの15センチ。  

 ユウカちゃんだけが許された特等席。

 

 私は、頭の中である本をめくりました。  

 アルフォンス・ドーデ。『風車小屋だより』。  

 詩人の毒気に満ちた詩とは違う、清らかで美しい物語。  

 

 そしてその中の一編、『星(Les Etoiles)』のページを頭の中で開きました。  

 羊飼いの少年が、道に迷ったお嬢様を一晩だけ守り、その寝顔を見守りながら美しい星空に想いを馳せる、純愛の物語。

 

 私は静かに朗読を始めます。  

 眠る貴方への、届かない寝物語(ラブレター)として。

 貴方が褒めてくれた、この透明な声で。

 

「……するとそのときです。あの中で一番美しく輝いている星が……」

 

 そこで言葉を区切り、先生の寝顔を見つめました。  

 物語の中では、星はお嬢様で、僕は羊飼い。  

 

 ――ねえ、先生。  

 今の貴方は、まるで道に迷った星ですね?  

 本当はユウカちゃんの隣にいなければならない星が、どうして今夜は、こんな寂しい羊飼い(わたし)の元に降りてきてしまったのですか?

 

 私はそっと身を乗り出しました。  

 鼻先が触れそうな距離。    

 いっそ、このまま目覚めなければいいのに。  

 夜が明けなければ、星は帰らなくて済むのに。

 

 私は、自分のパジャマの袖を握りしめました。

 今は、酔いましょう。  

 今夜だけは、私があなたの側にいたいのです。  

 たとえそれが、親友から盗んだ台本の上だとしても。    

 私は先生の耳元で、物語の結びを囁きました。  

 吐息がかかるほどの距離で。

 

「……道に迷ったのか、私の足元で眠ってしまいました」

 

 おやすみなさい。 私のそばで。 

 私だけの、道に迷ったお星様(エトワール)

 

 その時です。  

 先生が身じろぎをしました。  

 ビクリと肩が跳ね、目が覚めるかと思いました。  

 しかし違いました。彼は夢の淵を彷徨ったまま、小さく唇を動かしただけでした。

 

「……ゆう、か……」

 

 その瞬間、酔いも、熱も―すべてが凍りつきました。  

 熱に浮かれた頭から、サーッと血の気が引いていく音。  

 朗読の余韻が、ひび割れたガラスのように喉に刺さります。

 

 そう、無意識の底、夢の中でさえ、彼が呼ぶのは私ではない。  

 一番輝いている星は、道になんて迷っていなかった。  

 最初から、彼女の元にあるべきものだったのです。

 

 当然です。分かっていました。  

 分かっていたはずなのに、胸の奥がナイフで抉られたように痛い。

 

 私は唇を噛み締めました。

 鉄の味がするほど強く。  

 涙が滲みます。  

 けれど、私は離れませんでした。  

 むしろ、より深く、執拗に、彼のシャツを握り締めました。

 

 間違えればいい。  

 夢現の中で、私を彼女と誤認すればいい。  

 この銀髪が、この香りが、貴方の夢を撹乱するノイズになればいい。

 

「……いいえ、先生」

 

 私は彼の耳元で、呪詛のように、あるいは祈りのように囁きました。

 

「私は、ノアですよ」

 

 それは、ただの事実の提示でありながら、文脈としては最大の「嘘」への入り口でした。  

 なぜなら、今ここにいるのは、貴方が信頼する「いつものノア(とうめい)」ではないのですから。

 

 私は身体を起こし、歪んだ笑顔でガラス窓を見ました。  

 雨に濡れた窓には、ひどく醜く、熱っぽく、泣きそうな顔をした女が映っています。

 今日が雨でよかったと思いました。

 この醜い姿も、すぐに消えてしまうから。

 

 ああ、今日は十分に酔いました。  

 思考は停止し、理性は死に絶え、残ったのはドロドロとした感情の澱だけ。

 

 ガラスはもう、透明には戻りません。  

 熱を吸いすぎたガラスは、脆く、危うくなっています。    

 あとは、ほんの少しの衝撃でいい。  

 理不尽な怒りでも、突発的な衝動でもいい。  

 何かを叩きつければ、粉々に砕け散るでしょう。

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