『常に酔っていなければならない。すべてはそこにある』
『君の肩を押しつぶし、地面へと折れ曲がらせる、あの「時間」という恐ろしい重荷を感じないために』
『酒でも、詩でも、美徳でも、君の好きなもので。――とにかく、酔いたまえ』
詩人の言葉は、いつだって逃避者のための福音です。
私の肩には時間どころではない、「記憶」という名の全重量がのしかかっているのですから。
一秒ごとに増え続ける膨大なログ。
忘却という逃げ場を持たない脳髄。
それを支え続ける理性の背骨が砕け散る前に、私は麻酔を求めていました。
酔いたかったのです。休みなく、酔い続けたかったのです。
◆
深夜一時、シャーレの執務室。
予報通りの雨が、窓ガラスを叩いています。
世界を遮断するカーテンのような雨音。
空調の低い駆動音だけが、時折、夜の底を撫でていく。
ユウカちゃんは急用でずいぶんと先に帰りました。
『先生をよろしくね』という、残酷なほどの信頼を私に残して。
私はシャワーを借り、持参したパジャマに着替えました。
仕事着である制服を脱ぎ捨て、無防備な布一枚になること。
それは、ここを「職場」ではなく「私の部屋」だと錯覚するための儀式です。
目の前のソファでは、先生が泥のように眠っています。
連日の激務で限界だったのでしょう。
書きかけの書類が散らばるローテーブル。緩んだネクタイ。上下する胸元。
普段の「先生」という鎧を脱ぎ捨てた、無防備な一人の男性の姿。
私は本来、彼を起こしてベッドへ促すか、あるいは毛布をかけて退出すべきです。
それが「書記」としての、「ノア」としての正解。
けれど、私は動けませんでした。
どのくらいそうしていたでしょうか。
私はついに意を決して、手元の手帳を裏返し、デスクの上に伏せました。
パタン、と音がして、記録の目は塞がれました。
私は音もなく立ち上がり、ソファへ近づきます。
カーペットの上を裸足で歩く。
足の裏から伝わる冷たさが、逆に体内の熱を煽ります。
部屋の隅では、微かに香りが漂っています。
かつて先生が私の部屋に置いてくれたのと同じ、ディフューザーの香り。
雨に濡れて咲く百合のような、甘くて優しい香り。
それが、目の前にいる先生自身の匂い――珈琲と、インクと、体温の混じった匂いと融合し、この部屋を濃密な密室へと変えている。
吸い込むたびに、頭がくらくらします。
ああ、いい匂い。
吸い込むたびに、酔いが回るような錯覚。
私の理性を溶かし、記憶の解像度を強制的に下げる、甘美な毒ガス。
私はソファの前にしゃがみ込み、先生の寝顔を覗き込みました。
距離はたったの15センチ。
ユウカちゃんだけが許された特等席。
私は、頭の中である本をめくりました。
アルフォンス・ドーデ。『風車小屋だより』。
詩人の毒気に満ちた詩とは違う、清らかで美しい物語。
そしてその中の一編、『星(Les Etoiles)』のページを頭の中で開きました。
羊飼いの少年が、道に迷ったお嬢様を一晩だけ守り、その寝顔を見守りながら美しい星空に想いを馳せる、純愛の物語。
私は静かに朗読を始めます。
眠る貴方への、届かない
貴方が褒めてくれた、この透明な声で。
「……するとそのときです。あの中で一番美しく輝いている星が……」
そこで言葉を区切り、先生の寝顔を見つめました。
物語の中では、星はお嬢様で、僕は羊飼い。
――ねえ、先生。
今の貴方は、まるで道に迷った星ですね?
本当はユウカちゃんの隣にいなければならない星が、どうして今夜は、こんな寂しい
私はそっと身を乗り出しました。
鼻先が触れそうな距離。
いっそ、このまま目覚めなければいいのに。
夜が明けなければ、星は帰らなくて済むのに。
私は、自分のパジャマの袖を握りしめました。
今は、酔いましょう。
今夜だけは、私があなたの側にいたいのです。
たとえそれが、親友から盗んだ台本の上だとしても。
私は先生の耳元で、物語の結びを囁きました。
吐息がかかるほどの距離で。
「……道に迷ったのか、私の足元で眠ってしまいました」
おやすみなさい。 私のそばで。
私だけの、道に迷った
その時です。
先生が身じろぎをしました。
ビクリと肩が跳ね、目が覚めるかと思いました。
しかし違いました。彼は夢の淵を彷徨ったまま、小さく唇を動かしただけでした。
「……ゆう、か……」
その瞬間、酔いも、熱も―すべてが凍りつきました。
熱に浮かれた頭から、サーッと血の気が引いていく音。
朗読の余韻が、ひび割れたガラスのように喉に刺さります。
そう、無意識の底、夢の中でさえ、彼が呼ぶのは私ではない。
一番輝いている星は、道になんて迷っていなかった。
最初から、彼女の元にあるべきものだったのです。
当然です。分かっていました。
分かっていたはずなのに、胸の奥がナイフで抉られたように痛い。
私は唇を噛み締めました。
鉄の味がするほど強く。
涙が滲みます。
けれど、私は離れませんでした。
むしろ、より深く、執拗に、彼のシャツを握り締めました。
間違えればいい。
夢現の中で、私を彼女と誤認すればいい。
この銀髪が、この香りが、貴方の夢を撹乱するノイズになればいい。
「……いいえ、先生」
私は彼の耳元で、呪詛のように、あるいは祈りのように囁きました。
「私は、ノアですよ」
それは、ただの事実の提示でありながら、文脈としては最大の「嘘」への入り口でした。
なぜなら、今ここにいるのは、貴方が信頼する「
私は身体を起こし、歪んだ笑顔でガラス窓を見ました。
雨に濡れた窓には、ひどく醜く、熱っぽく、泣きそうな顔をした女が映っています。
今日が雨でよかったと思いました。
この醜い姿も、すぐに消えてしまうから。
ああ、今日は十分に酔いました。
思考は停止し、理性は死に絶え、残ったのはドロドロとした感情の澱だけ。
ガラスはもう、透明には戻りません。
熱を吸いすぎたガラスは、脆く、危うくなっています。
あとは、ほんの少しの衝撃でいい。
理不尽な怒りでも、突発的な衝動でもいい。
何かを叩きつければ、粉々に砕け散るでしょう。