『なんと! 君は色つきのガラスを持っていないのか?』
『薔薇色のガラス、赤いガラス、青いガラス、魔法のガラス、天国のようなガラスを!』
『透明なガラスしか持っていない厚かましい男め! 君のその商品を、階段の下へ突き落としてやる!』
『そして狂気の中で私は叫ぶのだ!――美しい人生を! 美しい人生を!』
詩人は通りがかりの硝子屋に理不尽な難癖をつけ、その背中に植木鉢を落とします。
一見すればただの狂気。
けれど、今の私にはその衝動が痛いほど理解できてしまう。
私たちは時として、あまりに整然とした「事実」や、あまりに透明な「正しさ」に窒息しそうになるのです。
だから、破壊したくなる。
その透明なガラスを粉々に砕いて、世界を歪な色で塗りつぶしてしまいたくなる。
今の私にとって、目の前にいるこの人は、世界で一番タチの悪い「硝子屋」でした。
◆
翌日の夕暮れ。シャーレの執務室。
雨上がりの空は、憎らしいほど澄み渡っていました。
昨夜の湿度が嘘のように、世界は乾いた輪郭を取り戻しています。
私は入室するなり、デスクの端を確認しました。
そこには、綺麗に畳まれ、紙袋に入れられた私のパジャマが置かれていました。
「うっかり忘れてしまった」という体裁で残した、私の痕跡。
先生はそれを、あくまで「生徒の忘れ物」として丁寧に、迅速に処理しました。
先生はいつものように、人懐っこい笑顔で私を迎えます。
「あ、ノア。昨日は遅くまでごめんね。パジャマ、忘れてたよ? シワにならないように畳んでおいたから」
……ああ、そうですか。
貴方は私の残した「爪痕」さえも、ただの「親切心」で綺麗にパッケージして返すのですね。
そこには何の色も、躊躇いも、背徳感もない。
私の匂いも、想いも、全て無臭化された「透明で誠実な対応」があるだけ。
「……ありがとうございます。お手数をおかけしました」
「いえいえ、こちらこそ。ノアがいつ帰ったのかも知らなくて…あはは、面目ないよ」
私は完璧な笑顔で答えます。
彼の中では、昨晩の出来事は「寝てしまった」という空白の事実だけ。
私が彼の寝顔に触れたことも、耳元で愛を乞うたことも、何ひとつ知らない。
彼はどこまでも無防備に、私に対して「透明な信頼」というガラスを向けてきます。
――もう、飽き飽きです。
その曇りのない瞳。私を「優秀な生徒」としてしか見ていない瞳。
どうして貴方は、私に
人生を美しく誤認させる、色付きのガラスは持っていないのですか?
「……あのさ、ノア」
「はい、なんでしょう」
先生が手を止め、少し決まり悪そうにこちらを見ました。
「昨日の夜なんだけど……私、何か変なこと言ってなかったかな? 夢見が悪かったというか、夢の中で誰かと話していたような気がして」
その問いを聞いた瞬間。
私の中で、張り詰めていた理性の弦が、プツンと音を立てて切れました。
ああ、貴方は覚えているのですね。
夢の中で、愛しい人の名前を呼んだ感触を。
そしてそれを、よりにもよって親友である私に確認しようとする。
「ユウカの名前を呼んでいたよ」という、
私が「ノロケですか? ご馳走様です」と笑って、この場を平和に収めることを期待している。
許せない。
そんな透明なガラスなんて、もう要らない。
色付きのガラス、魔法のガラス、天国のようなガラスを、私は探すのです。
私は手に持っていたペンを置きました。
カツン、という音が
詩人が、植木鉢を手に取ったように。
私は「嘘」という名の凶器を手に取りました。
「……ええ、言っていましたよ。先生」
私はゆっくりと彼に近づきます。
私の影が、夕陽に伸びて彼の足元に落ちる。
今から私がすることは、記録の改竄。歴史の捏造。
「記録者」としての私が、最も忌むべき禁忌。
「え…?なんて、言ってた?というか、ちょっと近くないか、ノア?」
不安そうな、でもどこか「ユウカの名前であってほしい」という期待を含んだ彼の瞳。
私はその瞳に向かって、植木鉢を振り下ろしました。
「『ノア』……って。私の名前を、何度も呼んでいました」
時が止まりました。
先生の目が見開かれ、呼吸が止まるのが分かります。
「え……?」
「とても切なそうで、熱っぽい声でした。……あんな声で名前を呼ばれたら、私、勘違いしてしまいそうです」
嘘です。真っ赤な嘘。
貴方が呼んだのはユウカちゃん。私ではありません。
けれど、言葉にしてしまえば、それは「事実」としてこの部屋に定着する。
先生の顔が、みるみるうちに赤く染まり、そして蒼白になっていきます。
動揺。混乱。そして、後ろめたさ。
『まさか、自分が無意識のうちに、ノアをそういう目で?』
『ユウカという恋人がいながら?』
思考が彼の中を駆け巡り、彼の視界を歪めていくのが分かります。
ざまあみろ。厚かましい硝子屋め。
私は心の中で、詩人のように喝采を上げました。
これで、私のガラスは割れました。
私と貴方の間にある「透明な信頼関係」は粉々です。
貴方はもう、私を今まで通りの目では見られない。
私の顔を見るたびに、身に覚えのない罪悪感と、ありもしない情熱の残滓に惑わされることになる。
世界は美しくなりましたか? 貴方の視界は、私の
だから私は、固まったままの先生の顔を覗き込み、今日一番の笑顔を作りました。
できるだけ悪戯っぽく。
できるだけ残酷に。
「――なーんて」
私が舌を出すと、先生の肩がビクリと跳ねました。
「冗談ですよ、先生。真に受けました?」
「え……じょ、冗談?」
「はい。昨日の先生は爆睡でしたよ。ぐーぐーいびきをかいていました。何度も起こしたのですが、起きてもくださいませんでした」
私はケラケラと笑ってみせます。
それはまるで道化のように。いいえ、真実、道化なのでしょう。
先生が、へなへなと椅子に背中を預けました。
安堵のため息をついていました。
「な、なーんだ、嘘かぁ」「よかった」と。
愚かな人。愛しい人。
その「安堵」こそが、ガラスが割れた証拠なのに。
もし貴方が、私に対して本当に透明なら、「そんな馬鹿な」と即座に否定できたはずです。
一瞬でも動揺したということは、貴方の心のどこかに、私という「色」が混ざる余地があったということでしょう?
あるいは、そうであってほしいという、私の願望でしょうか。
どちらでも構いません。
ガラスは、確かに割れたのです。
「もう、心臓に悪いよノア……」
「ふふっ、すみません。先生の反応が可愛くて、つい」
私は自分のパジャマが入った紙袋を手に取りました。
パリン、パリン。
彼には聞こえないでしょうが、私には聞こえます。
この部屋の床一面に、信頼という名のガラスの破片が散らばった音が。
「じゃあ、今日の記録はこれで終わりですね。……お疲れ様でした、先生」
私は背を向け、出口へと向かいます。
美しい人生を。…美しい、人生を。
たとえそれが、記録者として最も卑劣な嘘で塗り固められたものだとしても。
扉を閉める瞬間、チラリと振り返ると、先生はまだ複雑な顔をしていました。
その目にはもう、昨日までの透明な私は映っていないでしょう。
これからは、私を見るたびに思い出してください。
貴方が無意識に呼んだかもしれない、私の名前を。
『狂気の悪ふざけには代償が伴う。当然だ。しかし、一瞬でも無限の快楽が得られるならば、永遠の罰など何の意味があるだろうか?』
詩人は、散々な目に遭った硝子屋を見て、最後にそう言いました。
私もきっと、そう思っていました。