彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第四章:Le Mauvais Vitrier(悪い硝子屋)

『なんと! 君は色つきのガラスを持っていないのか?』

『薔薇色のガラス、赤いガラス、青いガラス、魔法のガラス、天国のようなガラスを!』

『透明なガラスしか持っていない厚かましい男め! 君のその商品を、階段の下へ突き落としてやる!』

『そして狂気の中で私は叫ぶのだ!――美しい人生を! 美しい人生を!』

 

 詩人は通りがかりの硝子屋に理不尽な難癖をつけ、その背中に植木鉢を落とします。  

 一見すればただの狂気。

 けれど、今の私にはその衝動が痛いほど理解できてしまう。    

 私たちは時として、あまりに整然とした「事実」や、あまりに透明な「正しさ」に窒息しそうになるのです。  

 だから、破壊したくなる。  

 その透明なガラスを粉々に砕いて、世界を歪な色で塗りつぶしてしまいたくなる。

 

 今の私にとって、目の前にいるこの人は、世界で一番タチの悪い「硝子屋」でした。

 

 ◆

 

 翌日の夕暮れ。シャーレの執務室。  

 雨上がりの空は、憎らしいほど澄み渡っていました。  

 昨夜の湿度が嘘のように、世界は乾いた輪郭を取り戻しています。

 

 私は入室するなり、デスクの端を確認しました。  

 そこには、綺麗に畳まれ、紙袋に入れられた私のパジャマが置かれていました。

 

 「うっかり忘れてしまった」という体裁で残した、私の痕跡。  

 先生はそれを、あくまで「生徒の忘れ物」として丁寧に、迅速に処理しました。  

 先生はいつものように、人懐っこい笑顔で私を迎えます。

 

「あ、ノア。昨日は遅くまでごめんね。パジャマ、忘れてたよ? シワにならないように畳んでおいたから」

 

 ……ああ、そうですか。  

 貴方は私の残した「爪痕」さえも、ただの「親切心」で綺麗にパッケージして返すのですね。  

 そこには何の色も、躊躇いも、背徳感もない。

 私の匂いも、想いも、全て無臭化された「透明で誠実な対応」があるだけ。

 

「……ありがとうございます。お手数をおかけしました」

「いえいえ、こちらこそ。ノアがいつ帰ったのかも知らなくて…あはは、面目ないよ」

 

 私は完璧な笑顔で答えます。  

 彼の中では、昨晩の出来事は「寝てしまった」という空白の事実だけ。  

 私が彼の寝顔に触れたことも、耳元で愛を乞うたことも、何ひとつ知らない。  

 彼はどこまでも無防備に、私に対して「透明な信頼」というガラスを向けてきます。    

 ――もう、飽き飽きです。

 

 その曇りのない瞳。私を「優秀な生徒」としてしか見ていない瞳。  

 どうして貴方は、私に現実(とうめい)しか見せてくれないのですか?  

 人生を美しく誤認させる、色付きのガラスは持っていないのですか?

 

「……あのさ、ノア」

「はい、なんでしょう」

 

 先生が手を止め、少し決まり悪そうにこちらを見ました。

 

「昨日の夜なんだけど……私、何か変なこと言ってなかったかな? 夢見が悪かったというか、夢の中で誰かと話していたような気がして」

 

 その問いを聞いた瞬間。  

 私の中で、張り詰めていた理性の弦が、プツンと音を立てて切れました。

 

 ああ、貴方は覚えているのですね。  

 夢の中で、愛しい人の名前を呼んだ感触を。  

 そしてそれを、よりにもよって親友である私に確認しようとする。  

 「ユウカの名前を呼んでいたよ」という、正しい記録(とうめいなガラス)の提示を求めている。

 私が「ノロケですか? ご馳走様です」と笑って、この場を平和に収めることを期待している。

 

 許せない。  

 そんな透明なガラスなんて、もう要らない。

 色付きのガラス、魔法のガラス、天国のようなガラスを、私は探すのです。

 

 私は手に持っていたペンを置きました。  

 カツン、という音が引き金(トリガー)です。  

 詩人が、植木鉢を手に取ったように。  

 私は「嘘」という名の凶器を手に取りました。

 

「……ええ、言っていましたよ。先生」

 

 私はゆっくりと彼に近づきます。  

 私の影が、夕陽に伸びて彼の足元に落ちる。  

 今から私がすることは、記録の改竄。歴史の捏造。  

「記録者」としての私が、最も忌むべき禁忌。

 

「え…?なんて、言ってた?というか、ちょっと近くないか、ノア?」

 

 不安そうな、でもどこか「ユウカの名前であってほしい」という期待を含んだ彼の瞳。  

 私はその瞳に向かって、植木鉢を振り下ろしました。

 

「『ノア』……って。私の名前を、何度も呼んでいました」

 

 時が止まりました。  

 先生の目が見開かれ、呼吸が止まるのが分かります。

 

「え……?」

「とても切なそうで、熱っぽい声でした。……あんな声で名前を呼ばれたら、私、勘違いしてしまいそうです」

 

 嘘です。真っ赤な嘘。  

 貴方が呼んだのはユウカちゃん。私ではありません。    

 けれど、言葉にしてしまえば、それは「事実」としてこの部屋に定着する。    

 先生の顔が、みるみるうちに赤く染まり、そして蒼白になっていきます。  

 動揺。混乱。そして、後ろめたさ。    

 

『まさか、自分が無意識のうちに、ノアをそういう目で?』  

『ユウカという恋人がいながら?』

 

 思考が彼の中を駆け巡り、彼の視界を歪めていくのが分かります。    

 ざまあみろ。厚かましい硝子屋め。  

 私は心の中で、詩人のように喝采を上げました。    

 これで、私のガラスは割れました。  

 私と貴方の間にある「透明な信頼関係」は粉々です。  

 貴方はもう、私を今まで通りの目では見られない。  

 私の顔を見るたびに、身に覚えのない罪悪感と、ありもしない情熱の残滓に惑わされることになる。

 

 世界は美しくなりましたか?  貴方の視界は、私の()で染まりましたか?

 

 だから私は、固まったままの先生の顔を覗き込み、今日一番の笑顔を作りました。  

 できるだけ悪戯っぽく。  

 できるだけ残酷に。

 

「――なーんて」

 

 私が舌を出すと、先生の肩がビクリと跳ねました。

 

「冗談ですよ、先生。真に受けました?」

「え……じょ、冗談?」

「はい。昨日の先生は爆睡でしたよ。ぐーぐーいびきをかいていました。何度も起こしたのですが、起きてもくださいませんでした」

 

 私はケラケラと笑ってみせます。  

 それはまるで道化のように。いいえ、真実、道化なのでしょう。

 

 先生が、へなへなと椅子に背中を預けました。  

 安堵のため息をついていました。

 

「な、なーんだ、嘘かぁ」「よかった」と。

 

 愚かな人。愛しい人。

 その「安堵」こそが、ガラスが割れた証拠なのに。  

 もし貴方が、私に対して本当に透明なら、「そんな馬鹿な」と即座に否定できたはずです。   

 一瞬でも動揺したということは、貴方の心のどこかに、私という「色」が混ざる余地があったということでしょう?

 

 あるいは、そうであってほしいという、私の願望でしょうか。  

 どちらでも構いません。

 ガラスは、確かに割れたのです。

 

「もう、心臓に悪いよノア……」

「ふふっ、すみません。先生の反応が可愛くて、つい」

 

 私は自分のパジャマが入った紙袋を手に取りました。  

 パリン、パリン。    

 彼には聞こえないでしょうが、私には聞こえます。  

 この部屋の床一面に、信頼という名のガラスの破片が散らばった音が。

 

「じゃあ、今日の記録はこれで終わりですね。……お疲れ様でした、先生」

 

 私は背を向け、出口へと向かいます。    

 美しい人生を。…美しい、人生を。  

 たとえそれが、記録者として最も卑劣な嘘で塗り固められたものだとしても。

 

 扉を閉める瞬間、チラリと振り返ると、先生はまだ複雑な顔をしていました。  

 その目にはもう、昨日までの透明な私は映っていないでしょう。  

 これからは、私を見るたびに思い出してください。  

 貴方が無意識に呼んだかもしれない、私の名前を。

 

『狂気の悪ふざけには代償が伴う。当然だ。しかし、一瞬でも無限の快楽が得られるならば、永遠の罰など何の意味があるだろうか?』

 

 詩人は、散々な目に遭った硝子屋を見て、最後にそう言いました。

 私もきっと、そう思っていました。

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