彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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第五章:Le Vieux Saltimbanque(老いた曲芸師)

『いたるところ歓楽、利得、放蕩。いたるところ未来への爆発がある祭りの日』

『その中でただひとり、あばら屋の柱にもたれて、老いた曲芸師がうずくまっている』

『彼はあきらめている。もはや何も望まぬ、絶対的な無私。あるいは、救いようのない没落』

 

 詩人は、祭りの中、老いた曲芸師を見て自分の将来を幻視しました。

 私の祭りは終わりません。  

 青春の祭典は、今日も明日も、輝かしく続いていきます。    

 放課後。私は一人、窓ガラスに映る自分と対峙していました。  

 鏡像の私は、美しく整えられた制服を着て、手入れの行き届いた銀髪をなびかせ、完璧な微笑みを浮かべています。    

 けれど、私には見えます。  

 その皮一枚下にある、しわがれた魂が。  

 誰にも見向きもされない見世物小屋の隅で、膝を抱えてうずくまる「老いた曲芸師」の姿が。

 

 ◆

 

 あの日、先生に「嘘」という名の毒を盛ってから、数日が過ぎました。  

 効果は覿面でした。  

 先生は私と目を合わせるたび、ほんの一瞬、戸惑いの色を浮かべるようになりました。    

 

『本当に冗談だったのか?』  

『もしかして、自分は本当に名前を呼んでいたのではないか?』

 

 その疑念の種は、彼の心の中で静かに発芽し、私という存在を「ただの生徒」から「異物」へと変質させました。  

 透明だったガラスは、もう戻りません。  

 会話のテンポはわずかに遅れ、視線は不自然に逸らされ、そこには常に薄い緊張感が漂うようになりました。    

 私はそれを、満足げに記録し続けています。  

 これでいいのです。  

 愛されないのなら、せめて惑わせたい。  

 透明なまま通り過ぎられるくらいなら、濁った染みとして記憶に残りたい。  

 なんと醜く、なんと滑稽なエゴイズムでしょう。

 

「――あら、ノア。まだ残ってたの?」

 

 ガチャリ、と扉が開き、祭りの主役が現れました。  

 早瀬ユウカ。  

 私の親友であり、この物語の正当なヒロイン。  

 彼女が入ってきただけで、薄暗かった部屋がパッと明るくなった気がします。  

 彼女は生命力に溢れ、未来を信じ、愛し愛される者のオーラを纏っている。

 

「ええ、少し整理することがありまして。ユウカちゃんこそ、先生のお手伝いは終わったんですか?」

「もう、聞いてよ! 先生ったらまた書類を溜め込んでて……結局、全部片付けるのに二時間もかかっちゃった」

 

 プリプリと怒りながらも、その声は弾んでいます。  

 彼女は語る。先生との時間を。二人の苦労を。共有された幸福を。    

 私はそれを聞く。  

 いつものように。完璧な相槌を打って。    

 彼女の背後には、見えない「群衆」がいます。  

 祝福という名の喝采。正しさという名の光。  

 彼女の見世物小屋は大盛況です。誰もが彼女の演技(人生)を見に来る。

 

 対して、私はどうでしょう。  

 隣にいながら、私は決定的に「外側」にいる。  

 私の小屋の前には、誰も立ち止まらない。  

 中には、書きすぎた記録と、捏造した記憶と、乾いた嫉妬が転がっているだけ。

 

「……ねえ、ノア」

 

 ふと、ユウカちゃんが言葉を切り、心配そうに私の顔を覗き込みました。  

 

「最近、元気ない? なんかこう……笑ってるけど、目が笑ってないというか」

 

 詩人は、老いた曲芸師を見て涙し、金を恵もうとしましたが、人波に流されて果たせませんでした。  

 彼女もまた、私に何かを恵もうとしてくれているのでしょうか。  

 同情か、友情か、あるいは敗者への無自覚な慈悲か。

 

 私は首を振りました。  

 これ以上、優しさを恵まれてしまえば、私は本当に惨めになってしまう。

 

「いいえ、考えすぎですよ。私はいつも通りです」

 

 私は最高の笑顔を作りました。  

 頬の筋肉を引きつらせ、口角を完璧な角度に固定して。  

 これが私の芸です。  

 誰にも気づかれず、誰の心も動かさず、ただそこに在るだけの曲芸師。

 

「そう? ならいいんだけど……あ、そうだ。これ、先生から預かってきたの」

 

 ユウカちゃんがカバンから取り出し、差し出したのは、小さな小瓶でした。  

 新しいアロマオイル。  

 

「『ノアが疲れてるみたいだから』って。……先生、ノアのこと気にかけてたわよ」

 

 受け取った小瓶は、ひんやりと冷たく、重い。

 それはまるで、先生の「罪悪感」を凝縮した塊のようでした。

 ラベルを見れば、私の好きな百合の香り。いつか先生がくれた香り。

 ああ、先生。貴方は本当に、残酷な硝子屋ですね。

 割れたガラスを修復する代わりに、こんな小手先の慰めを寄越すなんて。

 自分の手で渡すことすら避けて、よりにもよってユウカちゃんを「運び手」にして。

 私の傷口に蓋をするための絆創膏を、私を傷つけたナイフに持たせて寄越すのですか。

 気にかけている?  

 違います。

 貴方は、私がついた()が怖くて、機嫌を取っているだけでしょう?  

 あの日の嘘で生じた気まずさを埋めるために、直接渡すことさえ避けて、ユウカちゃんを介して。

 ああ、なんて愚かな人。

 ああ、なんて愛しい人。

 

 だから、私はそれを受け取ります。  

 

「ありがとうございます。……嬉しいです、と伝えておいてください」

「ノアが直接伝えたらいいじゃない」

「…ちょっと、立て込んでまして。シャーレにはしばらく寄ることができないかもしれないので」

「…そうなの?私にできることがあれば手伝うわよ?」

「いいえ、大丈夫ですよ。ユウカちゃんは先生の側にいてください」

「な、なぁっ!?ノア!?」

 

 言葉とは裏腹に、心の中では何かが完全に停止しました。    

 諦め、と言えばいいのでしょうか。  

 詩人はそれを「退位(アブディカシオン)」と呼びました。    

 私は、戦うことを辞めました。  

 逃げることも、泣き叫ぶことも、ガラスを割って暴れることも、もうしません。  

 ただ、この場所に立ち続けましょう。  

 親友の幸福を記録し、先生の偽善を受け入れ、作り笑いを浮かべる「生塩ノア」という役を、死ぬまで演じ続けましょう。

 

 それは、緩やかな自殺と同義です。  

 鉄仮面の内側で、肉体が腐り落ちて骨だけになっても、私は記録を止めない。    

 だって、私は「記録係」なのですから。  

 

「帰ろうか、ノア」

「はい、ユウカちゃん」

 

 私たちは並んで歩き出します。

 夕陽が二人の影を長く伸ばしていました。  

 一つの影は濃く、力強く。  

 もう一つの影は薄く、今にも闇に溶けてしまいそうに。

 

 私のポケットの中には、先生からのアロマオイルが入っています。  

 甘い百合の香り。  

 私はこの香りを、一生手放さないでしょう。  

 たとえ中身が空になっても、瓶が古びても。

 

 私の心臓は、まだ動いています。  

 けれど、私の心はもう死んでいるのかもしれません。    

 もし、誰かが私の胸に耳を当てたとしても、何も聞こえないでしょう。  

 悲鳴も、嗚咽も、破砕音も。    

 腐敗とは、発酵とは、本来とても静かな現象なのです。  

 水が澱み、バクテリアが繁殖し、清らかだったものが毒へと変わるプロセスは、無音で進行する。    

 だから、安心して笑ってください、先生。ユウカちゃん。  

 貴方たちの幸せな世界に、不快なノイズは混ざりません。    

 私の壊れる音は、誰にも聞こえないのですから。

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