『強い香水というものは、どんな物質も貫き通す』
『いつか、記憶のあやしい戸棚の奥、うつろで、陰気な、埃っぽい片隅で、私が古びた香水瓶として見つかる時に』
『私はそこで証明しよう。君が私の命であり、死であったことを』
物語が終わってから、どれほどの月日が流れたでしょう。
季節は巡り、キヴォトスの空も少しだけ色を変えた気がします。
私は今も、記録を続けています。
相変わらず、私の部屋は白く、整然として、何もありません。
ただ一つ、変わったことと言えば。
あのサイドテーブルの上にあったディフューザーは、もう霧を吐き出しません。
先生。
貴方はもう、ここにはいない。
貴方はユウカちゃんを選び、彼女と共に歩む未来へ行きました。
それはとても喜ばしいこと。
私の記録上、最も美しく、最も合理的な
けれど。
私は空になったディフューザーを手に取ります。
鼻を近づけると、そこにはまだ、微かに香りが残っています。
雨に濡れた百合の香り。
貴方が私にくれた、優しさという名の毒の匂い。
詩人は『香水瓶』という詩の中で、こう語りました。
捨てられた古い香水瓶の中には、死んでしまった過去の魂が、蛹のように眠っているのだと。
私は、この香水瓶と同じです。
私という器の中身は、もう空っぽです。
貴方への恋心も、嫉妬も、期待も、すべて蒸発して消え去りました。
なのに、
私の「完全記憶」という能力は、なんと残酷な構造をしているのでしょう。
通常の人間なら、忘却という風が吹いて、匂いをさらってくれるはずなのに。
私の瓶は密閉性が高すぎて、あの日の湿度が、あの日の体温が、あの日の貴方の声が、そのまま真空保存されている。
『あの中で一番美しく輝いている星が、道に迷ったのか、私の足元で眠ってしまいました』
あの日、パジャマ姿で貴方に読み聞かせた、ドーデの一節。
あの時、私の肩で眠っていた星は、結局、元の軌道へと戻っていきました。
残されたのは、星屑の熱を帯びたまま冷えていく、一羽の鳥だけ。
私は瓶を元の場所に戻しました。
コトリ、と軽い音がしました。
詩人の詩の結び。
私はそれを、自分自身へのレクイエムとして呟きます。
「『――私は貴方の棺桶になるのだ、愛しい
ええ、そうです。
私は記録し続けます。貴方の全てを。
貴方が誰を愛し、誰と結ばれ、やがて老いて消えていったとしても。
私という瓶の中には、貴方という
誰にも渡さない。
誰にも触れさせない。
ユウカちゃん、貴方は「
けれど、「
私だけなのです。
窓の外では、今日も美しい雲が流れていきます。
私はそれを、ガラス越しに見つめました。
曇ったガラスの向こう側は、少しだけ歪んで、そして優しく見えました。
ふと、あの詩が頭をよぎりました。
――謎めいた人よ、いったい君は誰をいちばん愛しているんだい?
「……私は流れる雲を。あそこの……あの素晴らしい雲すら、もう愛せない」
ようやく私は、「異邦人」になれたのでしょうか。
いいえ、違いますね。
異邦人は、最初からどこにも属していなかった。
私は、属そうとして、属せなくて、諦めただけ。
本物の異邦人は、雲を愛せる。
私は、雲すらも愛せない。
【生塩ノアは記録している 了】
ノアが可愛かったので初投稿です。
次回予告
『空崎ヒナは遵守している』
『桐藤ナギサは祝福している』
『才羽ミドリは沈黙している』
現在プロットという名の殴り書きがあるこのうちのどれかだと思う。タブンネ。