彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

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『空崎ヒナは遵守している』
Prologue:基本規則(General Provisions)


 風紀とは、規律である。

 規律とは、線引きである。  

 ここから先は行ってはいけない、これ以上は望んではいけない。  

 混沌(カオス)に満ちたゲヘナにおいて、私が「空崎ヒナ」であり続けるために必要なものは、いつだって明確なルールだった。

 

 だから私は、遵守する。  

 たとえそのルールが、どれほど面倒で私の心を内側から腐らせる毒であったとしても。

 

  ◆

 

 執務室の窓から見える空は、今日も鬱陶しいほど晴れていた。  

 積み上げられた書類の山。鳴り止まないホットライン。

 アコの金切り声と、イオリの怒鳴り声。  

 日常だ。私が守り、維持し、愛すべき、騒がしい日常。

 

 けれど、世界の色がほんの少しだけ変わってしまったことを、私は知っている。

 

「――それで委員長、来週のシャーレへの定例報告ですが」

 

 アコがタブレットを操作しながら、事務的に問いかけてくる。  

 今までなら、その言葉を聞くだけで、鉛のように重い身体が少しだけ軽くなった。  

 先生に会える。  

 ただそれだけの事実が、この地獄のような重労働に対する唯一の報酬だったから。  

 先生の淹れたコーヒー。頭を撫でてくれる大きな手。  

 「ヒナ、お疲れ様」という、世界で一番優しい声。

 

 でも、もう、それは私のものじゃない。  

 誰か別の人のための優しさを、お裾分けしてもらっていただけだったんだ。

 

「……今回は、書面での提出にしておいて」

 

 私が返した言葉に、アコが驚いたように顔を上げた。

 

「え? でも、ずっと直接行かれていたじゃないですか。先生も、委員長が来るのを待っていると仰ってましたし」

「忙しいから。……向こうも、私もね、知ってるでしょ?」

 

 嘘ではない。  

 私はいつだって忙しいし、先生も忙しい。  

 けれど、決定的な嘘が一つだけ混ざっている。

 

 私は、逃げているのだ。見たくないから。  

 先生が幸せそうに誰かの話をするのを。  

 私に向ける「生徒への信頼」と、誰かに向ける「愛」の温度差を、肌で感じてしまうのが怖いから。

 

 私は、聞き分けの良い子でいなければならない。  

 先生は私のことを「優しくて、いい子」だと言った。  

 風紀委員長として気丈に振る舞う私を、信頼してくれていると言った。

 だから、二度と醜態を見せてはいけない。  

 その信頼に応えることこそが、空崎ヒナの存在意義。

 

 だから、私は規定する。  

 先生の幸せを祝福すること。  

 先生の負担にならないよう、距離を置くこと。  

 自分の感情(エゴ)で、先生を困らせないこと。

 

 ――ズキリ、と。  

 胸の奥で、鉄が軋むような音がした。

 

「……分かりました。では、そのように手配します」

「ええ。お願い」

 

 アコが部屋を出ていく。  

 静寂が戻った執務室で、私はペンを握りしめた。  

 指先が白くなるほど強く。  

 ミシミシと、ペンの軸が悲鳴を上げる。

 

 痛い。苦しい。嫌だ。

 

 そんな感情なんて、この書類の山のどこにも記されていない。  

 風紀委員会の規則にも、ゲヘナの法律にも、どこにもない。

 だから、これは抱いてはいけないものだ。

 

 大丈夫。私は平気。  

 これまでだって、全部一人で背負ってきた。  

 先生という安らぎを知る前の私に戻るだけ。  

 少し冷たくて、少し息苦しくて、少し寂しいだけの、元の私に。

 

 ――プルルルル。

 

 不意に、デスクの上の私用端末が震えた。

 ディスプレイに表示された名前は『先生』。

 心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。

 

 出ないほうがいい。

 今はまだ、冷静に声を出せる自信がない。

 けれど、私の指は条件反射のように通話ボタンを押していた。

 私はいつだって、彼からの呼び出しを最優先にしてしまう。

 

「……もしもし」

『あ、ヒナ? お疲れ様。今、大丈夫かな』

 

 耳元で響く、あの日々と変わらない優しい声。

 私を気遣い、私を労り、私を特別扱いしてくれるような、残酷な声。

 

「ええ、大丈夫よ。……どうしたの、先生」

『いや、アコから連絡が来てさ。来週の報告、書面にするって聞いたから。もしかして、体調でも崩したのかと思って』

 

 それは心配で、純度100%の善意だった。

 彼は気づいていない。

 その優しさが、今まさに私の首を真綿で絞めていることに。

 

 私が避けている理由なんて、微塵も疑っていない。

 だって、私たちは「先生と生徒」だから。

 それ以上でも以下でもない、清廉潔白な関係だと、彼は信じて疑っていないから。

 

「……ううん。ただの繁忙期だから。心配しないで」

『そっか、ならいいんだけど。……あ、もし疲れてるなら、いつでもシャーレにおいで。美味しいコーヒー用意するからね』

 

 ――おいで。

 

 その言葉が、喉の奥に刺さった棘を深く押し込む。

 行ってはいけない。

 もうそこは、私だけの聖域ではないのだから。

 誰かの痕跡がある部屋で、誰かに向ける愛の余り物を分け与えられて、それで満足できるほど、私は強くない。

 

 断れ。行かないと言え。それがルールだ。私が私に課した、新しい法律だ。

 

「……わかった」

 

 けれど、私の唇から零れたのは、情けない肯定だった。

 

「……時間ができたら、行く」

『うん、待ってるよ。ヒナに会えないと、俺も寂しいからさ』

 

 ――ズルい。

 あなたは、本当にズルい人だ。

 その「寂しい」に、私の望む意味なんて一ミリも入っていないくせに。

 

 通話が切れた後、私は机に突っ伏した。

 視界が暗くなる。

 先生にとって私は、手のかかる子供で、可愛い生徒で、そして――性別のない「委員長」なんだろう。

 

 空崎ヒナは遵守している。

 先生の迷惑にならないように。先生の幸せを壊さないように。

 そこに自分の感情が介在する余地は、微塵もない。

 ―ないはず、だった。

 

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