法律というものは便利だ。
解釈次第で、黒を白に、白を黒に変えることができるのだから。
そしてその解釈をする権利を握っているのが私である以上、私が「白」と言えば、それは白になる。
たとえそれが、どんなに薄汚れた私情であったとしても。
あの決意から、わずか三日。
私の理性は、早くも限界を迎えていた。
足りない。
圧倒的に、先生が足りないのだ。
書類仕事をしていても、巡回をしていても、ふとした瞬間に思考が空白に落ちる。
そこに入り込んでくるのは、先生の笑顔や、淹れてくれたコーヒーの香り、頭を撫でる手の温もり。
それは禁断症状にも似た渇望だった。
一度知ってしまった安らぎを断たれることが、これほど苦しいとは知らなかった。
「……はぁ、めんどくさい」
ため息とともに、手元の書類を睨む。
『美食研究会による、給食部備品の爆破に関する損害報告』
被害規模は小。実害は軽微。
通常であれば、誰かに処理を任せて決済印を押すだけで終わる、取るに足らない案件だ。
けれど、私はそれを黒い革鞄に滑り込ませた。
「……これ、私が直接届けてくるわ」
誰もいない執務室で、独り言が響く。
誰に対する言い訳でもない。強いて言うなら、自分に対する言い訳だ。
『細かいニュアンスを直接伝える必要がある』
『ついでにシャーレの近況確認も兼ねて』
『これは公務だ。治安を守るための、必要不可欠な連携だ』
次から次へと、言葉が湧いてくる。
それらが全て、ただの「言い訳」であることを理解しながら、私は必死に自分を説得している。
これは私的な感情ではない。「会いに行かなければならない」という業務上の正当理由なのだ、と。
私は立ち上がり、鏡の前で少しだけ襟元を直した。
髪の乱れはないか。目の下のクマは隠せているか。
……馬鹿みたいだ。
公務に行くはずの委員長が、まるでデートに向かう少女のように自分を点検しているなんて。
◆
シャーレへの道中、私の足取りは重く、そして速かった。
矛盾する速度。
会いたい。会いたくない。
顔を見たら、きっとまた勘違いしてしまう。
また、都合のいい甘い夢を見てしまう。
エントランスの自動ドアが開く。
聞き慣れた電子音と共に、懐かしい空調の匂いが鼻孔をくすぐる。
「あ、ヒナ! いらっしゃい」
デスクの奥から、先生が顔を上げて笑顔を見せた。
その笑顔。
私に向けられたその表情を見ると、胸の奥が温かくなり、同時にキリキリと痛む。
「お疲れ様、先生。……少し、報告事項があって」
「わざわざ来てくれて、ありがとね。ちょうど息抜きしたいと思ってたんだ。ヒナもどう?」
先生は私の手から鞄を受け取り、ソファへと促す。
その一連の動作があまりに自然で、あまりに優しいから、私は自分が「嘘の理由」でここに来たという罪悪感に押し潰されそうになる。
いつものソファ。いつもの景色。
けれど、座った瞬間に違和感を覚えた。
クッションの位置が、いつもと違う。
サイドテーブルに置かれた雑誌が、先生の趣味ではない。
そして何より――私の知らない「生活」の粒子が、この部屋の隅々に付着している。
「コーヒーでいいかな? それとも紅茶?」
「……コーヒーで、お願い」
「了解。あ、そうだ。ちょうど良いお茶菓子があるんだよ」
先生が何かを手に給湯室から戻ってくる。
トレーに乗せられていたのは、いつものコンビニの袋菓子ではなかった。
綺麗にラッピングされた、手作りのクッキー。
市販品ではない。明らかに、誰かが「先生のために」焼いたものだ。
「これ、すごく美味しくてさ。ヒナも食べてみてよ」
先生は屈託なく笑う。
その無邪気さが、鋭利な刃物となって私を貫く。
『誰からもらったの?』とは聞けない。
聞けば、私の立場が崩れてしまう。
私はただの生徒で、風紀委員長で、事務的な報告に来ただけなのだから。
「……いただきます」
私は手袋を外し、クッキーを一つ口に運んだ。
サクッ、という軽快な音が響く。
バターの香りと、控えめな甘さが広がる。
美味しい。悔しいけれど、丁寧に作られた、優しくて家庭的な味がする。
これは、私には作れない味だ。
戦場に立ち、書類に埋もれ、鉄と血の匂いが染み付いた私の手からは、こんなに幸せな味は生まれない。
それに何より面倒だ。食事にこんなに手間をかけることを私はしない。
…私には、作れない。
「どう? 美味しいでしょ?」
「……ええ」
飲み込むのが辛かった。
まるで砂を噛んでいるようだった。
喉を通る塊が、私の内側を傷つけながら落ちていく。
先生は嬉しそうだ。
彼にとって、これは単なる「美味しいものの共有」なのだろう。
私が今、自分以外の女の影を無理やり嚥下させられていることになんて、気づきもしない。
私は今、彼らの幸福の「おこぼれ」を恵んでもらっている。
愛の余り物を処理する、まるで便利なゴミ箱のよう。
―その思考に、少なくない悪意が含まれていることは明らかだ。
「報告書、確認したよ。ありがとね。……でもこれ、わざわざヒナが持ってくるほどの内容だった?」
読み終わった書類を傍らに置いて、先生が不思議そうに首を傾げる。
心臓が止まりそうになる。その後ろにある理由が見透かされたかと思って。
「い、一応、現場の空気感を伝えた方がいいと思って……」
「そっか。ヒナは本当に真面目だね。いつも助かるよ、ありがとう」
先生の手が伸びてきて、私の頭を撫でた。
ポンポン、と優しく。
子供を褒めるように。ペットを愛でるように。
かつては、この手のひらが私の全ての救いだった。
この温もりのためなら、どんな激務も耐えられた。
でも今は、熱い。その優しさが、焼印のように痛い。
『真面目』じゃない。違う。私は真面目なんかじゃない。
私は、職権を乱用して、嘘をついて、ただ貴方に触れてほしくてここに来た、卑しい女だ。
それでも貴方の手で撫でられて喜んでいる、惨めな道化だ。
「……先生」
「うん?」
「……ううん、なんでもない」
『私だって』と言いかけて、飲み込んだ。
私は、今、何を言うつもりだった?
『私だってクッキーくらい焼ける』?
『私だって女の子扱いされたい』?
言えるわけがない。
「そろそろ、戻らないと。……ごちそうさま」
私は逃げるように立ち上がった。
これ以上ここにいたら、鉄の仮面が剥がれてしまう。
「え、もう? もっとゆっくりしていけばいいのに」
「まだ仕事が残っているから。……またね、先生」
「そっか…。忙しいのにゴメン。来てくれて嬉しかったよ。またね、ヒナ」
私はシャーレの執務室を出た。
背中で閉まるドアの音が、世界の断絶の音のように響いた。
廊下を歩く足取りは、来る時よりもずっと重かった。
口の中には、まだあのクッキーの甘ったるい後味が残っている。
他人の幸せの味。
私が永遠に手に入れられない、普通の女の子の味。
正当理由なんて、どこにもなかった。
ここにあるのは、見苦しい執着と、それを隠蔽するための嘘だけ。
私の心の中で、何かが静かに軋んだ。
頑丈な鉄が、湿気を含んだ風に晒されて、赤黒く変色していく音だ。
最後まで書こうと思ったら止まってしまった。
早めに書き上げます。