彼女たちが壊れる音はしない   作:濃厚とんこつ豚無双

9 / 19
第一章:正当理由(Justifiable Cause)

 法律というものは便利だ。

 解釈次第で、黒を白に、白を黒に変えることができるのだから。

 そしてその解釈をする権利を握っているのが私である以上、私が「白」と言えば、それは白になる。

 

 たとえそれが、どんなに薄汚れた私情であったとしても。

 

 あの決意から、わずか三日。

 私の理性は、早くも限界を迎えていた。

 足りない。

 圧倒的に、先生が足りないのだ。

 

 書類仕事をしていても、巡回をしていても、ふとした瞬間に思考が空白に落ちる。

 そこに入り込んでくるのは、先生の笑顔や、淹れてくれたコーヒーの香り、頭を撫でる手の温もり。

 それは禁断症状にも似た渇望だった。

 一度知ってしまった安らぎを断たれることが、これほど苦しいとは知らなかった。

 

「……はぁ、めんどくさい」

 

 ため息とともに、手元の書類を睨む。

 

『美食研究会による、給食部備品の爆破に関する損害報告』

 

 被害規模は小。実害は軽微。

 通常であれば、誰かに処理を任せて決済印を押すだけで終わる、取るに足らない案件だ。

 

 けれど、私はそれを黒い革鞄に滑り込ませた。

 

「……これ、私が直接届けてくるわ」

 

 誰もいない執務室で、独り言が響く。

 誰に対する言い訳でもない。強いて言うなら、自分に対する言い訳だ。

 

『細かいニュアンスを直接伝える必要がある』

『ついでにシャーレの近況確認も兼ねて』

『これは公務だ。治安を守るための、必要不可欠な連携だ』

 

 次から次へと、言葉が湧いてくる。

 それらが全て、ただの「言い訳」であることを理解しながら、私は必死に自分を説得している。

 これは私的な感情ではない。「会いに行かなければならない」という業務上の正当理由なのだ、と。

 

 私は立ち上がり、鏡の前で少しだけ襟元を直した。

 髪の乱れはないか。目の下のクマは隠せているか。

 ……馬鹿みたいだ。

 公務に行くはずの委員長が、まるでデートに向かう少女のように自分を点検しているなんて。

 

  ◆

 

 シャーレへの道中、私の足取りは重く、そして速かった。 

 矛盾する速度。

 会いたい。会いたくない。

 顔を見たら、きっとまた勘違いしてしまう。

 また、都合のいい甘い夢を見てしまう。

 

 エントランスの自動ドアが開く。

 聞き慣れた電子音と共に、懐かしい空調の匂いが鼻孔をくすぐる。

 

「あ、ヒナ! いらっしゃい」

 

 デスクの奥から、先生が顔を上げて笑顔を見せた。

 その笑顔。

 私に向けられたその表情を見ると、胸の奥が温かくなり、同時にキリキリと痛む。

 

「お疲れ様、先生。……少し、報告事項があって」

「わざわざ来てくれて、ありがとね。ちょうど息抜きしたいと思ってたんだ。ヒナもどう?」

 

 先生は私の手から鞄を受け取り、ソファへと促す。

 その一連の動作があまりに自然で、あまりに優しいから、私は自分が「嘘の理由」でここに来たという罪悪感に押し潰されそうになる。

 

 いつものソファ。いつもの景色。

 けれど、座った瞬間に違和感を覚えた。

 クッションの位置が、いつもと違う。

 サイドテーブルに置かれた雑誌が、先生の趣味ではない。  

 そして何より――私の知らない「生活」の粒子が、この部屋の隅々に付着している。

 

「コーヒーでいいかな? それとも紅茶?」

「……コーヒーで、お願い」

「了解。あ、そうだ。ちょうど良いお茶菓子があるんだよ」

 

 先生が何かを手に給湯室から戻ってくる。

 トレーに乗せられていたのは、いつものコンビニの袋菓子ではなかった。

 綺麗にラッピングされた、手作りのクッキー。

 市販品ではない。明らかに、誰かが「先生のために」焼いたものだ。

 

「これ、すごく美味しくてさ。ヒナも食べてみてよ」

 

 先生は屈託なく笑う。

 その無邪気さが、鋭利な刃物となって私を貫く。

 『誰からもらったの?』とは聞けない。

 聞けば、私の立場が崩れてしまう。

 私はただの生徒で、風紀委員長で、事務的な報告に来ただけなのだから。

 

「……いただきます」

 

 私は手袋を外し、クッキーを一つ口に運んだ。

 サクッ、という軽快な音が響く。

 バターの香りと、控えめな甘さが広がる。

 美味しい。悔しいけれど、丁寧に作られた、優しくて家庭的な味がする。

 

 これは、私には作れない味だ。

 戦場に立ち、書類に埋もれ、鉄と血の匂いが染み付いた私の手からは、こんなに幸せな味は生まれない。

 それに何より面倒だ。食事にこんなに手間をかけることを私はしない。

 …私には、作れない。

 

「どう? 美味しいでしょ?」

「……ええ」

 

 飲み込むのが辛かった。

 まるで砂を噛んでいるようだった。

 喉を通る塊が、私の内側を傷つけながら落ちていく。

 

 先生は嬉しそうだ。

 彼にとって、これは単なる「美味しいものの共有」なのだろう。

 私が今、自分以外の女の影を無理やり嚥下させられていることになんて、気づきもしない。

 私は今、彼らの幸福の「おこぼれ」を恵んでもらっている。

 愛の余り物を処理する、まるで便利なゴミ箱のよう。

 ―その思考に、少なくない悪意が含まれていることは明らかだ。

 

「報告書、確認したよ。ありがとね。……でもこれ、わざわざヒナが持ってくるほどの内容だった?」

 

 読み終わった書類を傍らに置いて、先生が不思議そうに首を傾げる。

 心臓が止まりそうになる。その後ろにある理由が見透かされたかと思って。

 

「い、一応、現場の空気感を伝えた方がいいと思って……」

「そっか。ヒナは本当に真面目だね。いつも助かるよ、ありがとう」

 

 先生の手が伸びてきて、私の頭を撫でた。

 ポンポン、と優しく。

 子供を褒めるように。ペットを愛でるように。

 

 かつては、この手のひらが私の全ての救いだった。

 この温もりのためなら、どんな激務も耐えられた。

 でも今は、熱い。その優しさが、焼印のように痛い。

 『真面目』じゃない。違う。私は真面目なんかじゃない。

 私は、職権を乱用して、嘘をついて、ただ貴方に触れてほしくてここに来た、卑しい女だ。

 それでも貴方の手で撫でられて喜んでいる、惨めな道化だ。

 

「……先生」

「うん?」

「……ううん、なんでもない」

 

 『私だって』と言いかけて、飲み込んだ。

 私は、今、何を言うつもりだった?

 『私だってクッキーくらい焼ける』?  

 『私だって女の子扱いされたい』?

 言えるわけがない。  

 正当理由(言い訳)がなければここに来ることすらできない私が、何を望むというの。

 

「そろそろ、戻らないと。……ごちそうさま」

 

 私は逃げるように立ち上がった。  

 これ以上ここにいたら、鉄の仮面が剥がれてしまう。

 

「え、もう? もっとゆっくりしていけばいいのに」

「まだ仕事が残っているから。……またね、先生」

「そっか…。忙しいのにゴメン。来てくれて嬉しかったよ。またね、ヒナ」

 

 私はシャーレの執務室を出た。 

 背中で閉まるドアの音が、世界の断絶の音のように響いた。

 

 廊下を歩く足取りは、来る時よりもずっと重かった。  

 口の中には、まだあのクッキーの甘ったるい後味が残っている。  

 他人の幸せの味。

 私が永遠に手に入れられない、普通の女の子の味。

 

 正当理由なんて、どこにもなかった。

 ここにあるのは、見苦しい執着と、それを隠蔽するための嘘だけ。

 私の心の中で、何かが静かに軋んだ。

 頑丈な鉄が、湿気を含んだ風に晒されて、赤黒く変色していく音だ。




最後まで書こうと思ったら止まってしまった。
早めに書き上げます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。