その山には、冬になると「神様の吐息」と呼ばれるほど深い霧と雪が降りた。
宵咲月唯(よいさき るい)にとって、その冷たさは恐怖ではなく、安らぎだった。隣の家に住む時透家の兄弟、有一郎と無一郎。彼らと共に過ごす時間は、凍てつく冬の中に灯った、小さな焚き火のような温かさを持っていたからだ。
「月唯、またそんな薄着で。風邪を引いたら、お前の親父さんに顔向けできないだろ」
ぶっきらぼうに言いながら、有一郎が自分の古い羽織を月唯の肩に掛けた。
「ありがとう、有一郎。でも、私は雪が好きだから大丈夫だよ」
「……ふん。お気楽なもんだ」
有一郎は顔を背けたが、その耳たぶが少しだけ赤い。
隣では、無一郎が真っ白な雪面に指で何かを描いていた。
「ねえ、見て。月唯、有一郎。これは僕たち三人の印だよ」
無一郎が描いたのは、三つの円が重なり合った不思議な形。雪の結晶のようにも見える。
「僕たちは、ずっと一緒だよ。雪が溶けても、また来年降るみたいに」
無一郎の無垢な笑顔に、月唯は小さく頷いた。その約束が、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
惨劇は、あまりにも静かに訪れた。
その夜、月唯は麓の町へ薬を買いに出た帰りで、山道を急いでいた。胸騒ぎがしたのは、山頂付近に立ち込める霧が、いつもより黒ずんで見えたからだ。
「……あ、あぁ……」
月唯が時透家の敷地に踏み込んだ時、鼻を突いたのは冷気ではなく、鉄の匂いだった。
地面を赤く染めているのは、夕焼けではない。血だ。
家の中では、有一郎が虫の息で横たわっていた。左腕を失い、それでも弟を守ろうとした執念だけが、その瞳に宿っている。
「有一郎……! しっかりして!」
「……る、い……か……逃げ、ろ……むい、ちろう……を……」
有一郎の手が、がくりと落ちた。
その傍らで、無一郎は放心したように座り込んでいた。彼の瞳からは光が消え、まるで深い霧の底に沈んでしまったかのように、月唯の声さえ届かない。その時、暗闇から這い出してきた影があった。血に飢えた鬼だ。
月唯は腰に差していた手斧を握りしめた。勝てるはずがない。それでも、有一郎の最期の願いを、この温かな無一郎を、失うわけにはいかなかった。
絶体絶命の瞬間、銀色の閃光が走った。
鬼の首が宙を舞い、月唯と無一郎の前に、白装束の剣士が降り立った。
それから、二人の道は分かたれた。
無一郎は産屋敷の屋敷へ運ばれ、月唯は自分を救った剣士の元で修行を積むことになった。
月唯が選んだのは、かつて時透兄弟と愛した「雪」を刃に変える道。
『雪の呼吸』。
それは、ただ冷たいだけではない。全てを包み込み、眠らせ、そして静かに断ち切る刃。
修行は過酷を極めた。呼吸を整えるたびに肺が凍りつくような痛みに襲われる。それでも、月唯は足を止めなかった。目を閉じれば、有一郎の厳しい声と、無一郎の穏やかな笑顔が、昨日のことのように蘇るからだ。
「私は、もう二度と、雪の中で誰かを失いたくない」
わずか一年。
驚異的な速度で鬼を狩り続けた月唯は、十四歳という若さで「雪柱」の称号を授かった。