蝶屋敷の一室は、常にひんやりとした空気に包まれていた。
雪柱・宵咲月唯は、無限列車での戦いから二週間、一度も目を覚まさずにいた。漆ノ型『永久欠片』。自らの血を凍らせ、心臓の鼓動を極限まで遅らせる禁忌の術は、彼女の体を内側から蝕んでいた。
その傍らには、任務以外の時間をすべてここで過ごしている時透無一郎の姿があった。
「……月唯。今日はね、竈門炭治郎がひょっとこのお面の人に追いかけ回されてたよ。……面白いね」
無一郎は月唯の冷たい手を握り、とりとめのない話を繰り返す。記憶は戻っていない。けれど、彼女がいないのは、彼にとって耐え難いほど「空っぽ」だった。
ある日の午後。
月唯の指先が微かに動いた。それを見逃さなかった無一郎が身を乗り出す。
「……月唯? 聞こえる?」
「……ん……。むい、ちろう……?」
長い睫毛が震え、薄氷のような瞳がゆっくりと開く。
「……あ、よかった。……本当によかった、月唯」
無一郎は安堵のあまり、彼女の胸に顔を埋めた。
そこへ、大きな足音と共に、眼帯をした男が部屋に入ってきた。引退し、私服姿の煉獄杏寿郎だ。
「目覚めたか、宵咲! よもやよもや、君の生命力には驚かされるばかりだ!」
煉獄の声に、月唯は弱々しく微笑んだ。
「煉獄、様……。ご無事で、何よりです……」
「うむ! 君が繋いでくれたこの命、俺は最大限に活用するつもりだ。昨日、御館様にもお伝えした。俺は今日から、若き剣士たちを育てる『育手』となる!」
煉獄は月唯の手を力強く握りしめた。
「君も今は休め。君の雪は、いつかまた必ず、誰かを守るための恵みの水となるはずだ!」
煉獄が去った後、部屋には再び静寂が訪れた。
無一郎は月唯の手を離そうとせず、じっと彼女を見つめている。
「……月唯。煉獄さんが言ってたよ。君は煉獄さんを守るために、自分の命を捨てようとしたって」
「……捨てようとしたんじゃないわ。ただ、守りたかったの。」
月唯は震える手で、無一郎の頬に触れた。
「私が、あなたを覚えている限り……私は、どこへも行かない」
「……うん。僕も決めたんだ。……僕、もっと強くなるよ、月唯。君がもう、そんな危ない型を使わなくてもいいくらいに。君を守れるくらいに」
無一郎の瞳に宿る光は、以前よりも強く、深いものへと変わっていた。
月唯は、羽織の裏地に縫い付けられた有一郎の形見に触れる。その藍色の布地は、煉獄が灯した新しい「希望」の火に照らされているようだった。
月唯が療養を続ける間、鬼殺隊は大きく動き始めていた。
引退した煉獄は、独自の指導法で隊士たちの基礎体力を底上げし始め、炭治郎たちはその厳しい修行に食らいついていった。
月唯は窓から見える冬の景色を見つめながら、静かに呼吸を整える。
雪はまだ、降り積もっている。
けれど、その下では春に咲くための芽が、確実に育まれていた。
「……待っていてね、みんな。私も、すぐに行くから」
雪柱・宵咲月唯の心には、燃えるような闘志が静かに、けれど消えることのない炎として宿っていた。