上弦の肆・鳴女が操る無限城の空間。絶え間なく変化する壁と床を潜り抜け、甘露寺蜜璃と伊黒小芭内が死闘を繰り広げていたその時だった。
「伝令! 伝令! 宵咲月唯・時透無一郎・不死川実弥・悲鳴嶼行冥により上弦の壱、討伐ッ! 討伐ッ!!」
一瞬、蜜璃の顔に明るい光が差した。最古かつ最強の鬼を仕留めた。それは勝利への大きな一歩だ。
「やったわ伊黒さん! 無一郎君と月唯ちゃんが……!」
だが、鴉の震える声は、無慈悲に続いた。
「……霞柱・時透無一郎、雪柱・宵咲月唯、死亡ッ!! 両名、上弦の壱ト刺し違エ、死亡ッ!!」
その瞬間、世界から音が消えた。
「……え?」
蜜璃は、手にしていた日輪刀をあやうく落としそうになった。
脳裏をよぎるのは、つい先日まで共に笑い、一緒に作ったご飯を食べていた、月唯の笑顔だ。自分を慕ってくれた、あの白銀の髪の少女。
「嘘……嘘よ。月唯ちゃん、死んじゃうなんて……あの子、まだ、あんなに若いのよ……っ!」
蜜璃の瞳から、滝のような涙が溢れ出す。膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる彼女を、背後から伊黒が無理やり支えた。
「甘露寺、前を見ろ! 敵の術が来るぞ!」
「嫌よ伊黒さん! 月唯ちゃんがいないなんて、そんなの嫌!! 誰か嘘だって言ってぇぇ!!」
蜜璃の悲痛な叫びが、虚しく城内に響く。彼女にとって月唯は、ただの同僚じゃなく、いつか平和な世界で幸せになってほしいと願っていた、本当の家族のような存在だったのだ。
伊黒は、蜜璃を支えながら、包帯に隠れた口元を血が出るほど強く噛み締めていた。
「自分を綺麗で優しい人だと言ってくれた」あの日の言葉。彼女を抱きしめた時に感じた、あの「生」への微かな執着。それを守れなかった自分への、激しい怒りと悔恨が、彼のオッドアイを燃え上がらせる。
「……甘露寺。泣くな、今は泣く時間ではない」
伊黒の声は、氷のように冷たく、けれど酷く掠れていた。
「……彼奴らは、己の役割を全うしたんだ。最年少の二人にお膳立てをさせて、俺たちがここで立ち止まってどうする」
伊黒は、蜜璃を無理やり立たせた。彼の視線の先には、怒りで赤く染まり始めた日輪刀がある。
「月唯の……そして時透の命を無駄にするな。あいつらが命を賭して道を拓いたなら、俺たちはその道を通って無惨の首を獲る。それだけだ」
蜜璃は、伊黒の言葉にハッとしたように顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔を拭い、震える手で刀を握り直す。
月唯が生きていたら、きっと「泣かないで、蜜璃さん」と言うだろう。あの凛とした、雪のような声で。
「……そうね。……そうね、伊黒さん。……私、頑張る。月唯ちゃんの分まで、絶対に無惨を倒すわ……!」
伊黒は何も言わず、ただ蜜璃の肩を一瞬だけ強く叩いた。
二人の胸の中には、今、共通の炎が灯っていた。それは愛する者を失った悲しみではなく、その遺志を継ぐための、烈火のような闘志だ。
蛇柱と恋柱。
残された二人は、月唯と無一郎が命を懸けて繋いだ希望を胸に、地獄の深淵へと再び走り出した。
閑話:蛇柱の痛切なる抱擁・呪われた血と白銀の慈悲
稽古の最中、他の隊士たちが去った後の静まり返った道場で、伊黒小芭内と宵咲月唯は向かい合っていた。
月唯の首筋には、はっきりと「痣」が浮かび、彼女の命を刻一刻と削っている。
伊黒は鏑丸を首に這わせたまま、じっと月唯を見つめていた。そのオッドアイの瞳には、かつてないほどの葛藤が渦巻いている。
「……宵咲。お前は、自分が死ぬことに恐怖はないのか。甘露寺のように、未来を夢見ることはないのか」
伊黒の声は、包帯越しに低く、震えていた。
「恐怖は……あります。無一郎や、蜜璃さんや、伊黒様たちと、もっとずっと一緒にいたいから」
月唯は真っ直ぐに伊黒を見つめ返した。
「でも、この戦いが終わるなら。……私の『呪い(痣)』が、誰かの幸せを守れるなら、私はそれを喜んで受け入れます」
「……っ、馬鹿なことを言うな!」
伊黒は一歩踏み出し、衝動的に月唯を正面から強く抱きしめた。
伊黒の抱擁は、硬く、冷たく、しかし壊れ物を守るような必死さに満ちていた。
彼は自分の汚れた血筋を、忌むべき過去を、月唯のような無垢な子供が背負う「寿命の呪い」と重ねていた。
「……なぜお前のような子供が、そんなことを言わねばならん。なぜ、真っ当な幸せを願うことすら許されんのだ」
伊黒の腕に力がこもる。彼は、蜜璃を心から愛しているからこそ、蜜璃が妹のように可愛がっている月唯が、自分たちと同じ「救われない側」へ足を踏み入れていることが、耐え難かった。
「……伊黒様、温かいです」
月唯は、伊黒の細い身体をそっと抱き返した。
「伊黒様……あなたは、ご自分が思っているよりずっと、綺麗で、優しい人です」
伊黒はハッとしたように身体を離した。包帯に隠れた口元で、何を呟いたのかは分からない。
だが、その瞳に宿っていた暗い影は、月唯の「雪」のような言葉に触れて、少しだけ和らいでいた。
「……甘露寺を、悲しませるな。死ぬなとは言わん。だが、俺の目の届く範囲にいる間は、勝手に果てることは許さん」
「はい。……ありがとうございます、伊黒様」
伊黒は背を向け、去り際に一度だけ鏑丸を月唯の方へ向かわせた。鏑丸は月唯の頬を優しく撫で、伊黒の深い親愛と案じる心を伝えた。
伊黒にとって、月唯を抱きしめるという行為は、自分自身の「救われなさ」を許すための儀式でもあった。
蜜璃が愛するこの少女を守る。それが、自分の汚れた生を繋ぐための、新たな理由の一つになったのである。