産屋敷邸の庭に、血の匂いが漂う。
縄で縛られ、地面に這いつくばる少年・竈門炭治郎。そして、箱の中に潜む鬼の妹・禰豆子。
柱たちが口々に処罰を唱える中、月唯は静かにその光景を見つめていた。
「鬼を連れた隊士など、隊律違反だ。即刻、斬首に処すべきだろう」
不死川実弥の冷酷な言葉が、冬を待つ庭の空気を切り裂く。
隣に立つ無一郎は、相変わらず空を流れる雲の形を数えているようだ。彼にとって、この少年がどうなろうと関心はないのだろう。
けれど、月唯の心は、炭治郎が叫んだ言葉に激しく揺さぶられていた。
「俺が必ず、妹を人間に戻します! 禰豆子は……禰豆子は、人を喰ったりしない!」
(……妹を、守るために……)
月唯は、羽織の裏地に縫い付けた藍色の端切れを、無意識に強く握りしめた。
もし、あの日。自分が家を離れていなかったら。もし、有一郎が無一郎を守って死なず、どちらかが鬼になっていたとしたら――自分は、彼らと同じように、世界を敵に回してでも二人を守り抜いただろうか。
不死川が禰豆子の入った箱を突き刺し、挑発するように血を流す。
苦しげに呻く箱の中の気配と、絶叫する炭治郎。
その光景が、あの日、血の海の中で倒れていた時透兄弟の姿と重なり、月唯の脳裏に激しい痛みを引き起こした。
「……やめてください」
月唯の小さな、けれど氷のように冷たく鋭い声が、庭の喧騒を止めた。
「宵咲? お前、まさかこのガキを庇うつもりかァ?」
不死川が不快そうに目を細める。
「庇うのではありません。ただ……」
月唯は一歩前に出た。その瞳は、怒りではなく、深い悲しみに満ちている。
「兄が命を懸けて妹を守り、妹がその想いに応えて飢えを堪えている。それが真実なら……それは、かつて私が見た、どの尊い命の輝きよりも美しいと思っただけです」
月唯の言葉に、隣にいた無一郎がふいに関心を示したように彼女を見た。
「……月唯。君、なんだか悲しそうな顔をしてるね。……どうして?」
「……何でもないわ、時透殿。ただ、少し昔のことを思い出しただけ」
お館様が登場し、鱗滝左近次からの手紙が読み上げられる。
冨岡義勇、そして鱗滝が、炭治郎と禰豆子のために命を賭けるという誓い。
それを聞いた瞬間、月唯の頬を、一筋の涙が伝った。
(有一郎……聞こえる? この世には、私たちと同じように……いえ、私たち以上に、絶望の中でも手を取り合おうとする人たちがいるよ)
月唯は、自らも一歩前に出て、お館様の前で膝をついた。
「お館様。私も……雪柱・宵咲月唯も、彼らの行く末を見守らせていただきたく存じます。」
月唯に、お館様は優しく微笑んだ。
「ありがとう、月唯。君の心にある雪は、とても温かいね」
不死川の稀血に耐え抜き、禰豆子が人を襲わないことが証明された直後のことだった。
お館様の許しが出て、緊迫した空気がわずかに緩む。隠(かくし)たちが炭治郎と禰豆子を連れて行こうとした、その時だった。
箱に戻ったはずの禰豆子が、ひょこりと扉を押し開けて出てきた。
彼女は周囲の柱たちを警戒するように見回していたが、ふと、その動きを止める。
彼女を焼き尽くそうとする太陽の光からは逃げられない。
炭治郎が「禰豆子、早く箱に戻れ!」と叫ぶ中、禰豆子はなぜか、箱とは反対の方向――柱たちが並ぶ列へと駆け出した。
真っ直ぐに向かった先は、雪柱・宵咲月唯の元だった。
その時、雪柱・宵咲月唯は、無意識に呼吸を極限まで深めていた。
彼女の周囲は、『雪の呼吸』が放つ凄まじい冷気によって、空気中の水分が氷晶となり、目に見えないほど細かい「光のフィルター」を作り出していた。
月唯の周囲だけ、気温が極端に低い。
さらに、彼女の放つ冷気が太陽光を乱反射させ、彼女の足元には、他の柱よりも濃く、涼しい影が落とされていた。月唯は咄嗟に、自分の大きな羽織を広げた。
それは、有一郎の形見が縫い付けられた、彼女にとって最も大切な盾。禰豆子は、月唯が広げた羽織の影に飛び込むようにして滑り込んだ。
月唯は自分の体を壁にし、羽織を傘のようにして禰豆子の上に被せる。
冷気を孕んだ純白の布が、禰豆子の体を優しく包み込み、死の光から彼女を隔離した。
「……う、む……」
先ほどまで日差しに怯えていた禰豆子が、月唯の膝元で安堵の溜息を漏らす。
月唯の体から放たれる『冷気』が、禰豆子の火照った肌を癒やしていく。
他の柱たちは、その異様な光景――鬼を守るように抱きかかえる雪柱の姿に、言葉を失った。
「宵咲……お前、自分の羽織を鬼の遮光幕にするつもりか?」
伊黒小芭内が信じられないといった風に呟く。
「……日差しが強いですから。この子は今、頑張って耐えたご褒美が必要なんです」
月唯は淡々と、けれど決然と言い放った。
その時、隣にいた無一郎が、ふらりと月唯の横に並んだ。
彼は特に何も言わなかったが、その立ち位置は、ちょうど月唯と禰豆子に当たる太陽の光を遮るような場所だった。
「……時透殿?」
「……別に。僕も、こっちの方が涼しいかなって思っただけだよ」
無一郎は空を見上げたまま、偶然を装って影を作っていた。
記憶はなくても、彼の体はあの雪山での日々を覚えていたのかもしれない。
純白の羽織と、霞のような少年の影。
二人の柱が作る小さな影の中で、鬼の少女は守られ、静かに目を閉じた。
それは、殺伐とした裁判の場に現れた、奇跡のような「雪解け」の光景だった。