炭治郎と禰豆子に別れを告げ、月唯は一人、蝶屋敷の長い廊下を歩いていた。中庭に差し掛かった時、一人の少女が目に入った。
蟲柱の継子の栗花落カナヲだ。彼女はまるでお人形のように、一羽の蝶が指先に止まるのをじっと見つめていた。その瞳には、色があるのに光がない。
「……栗花落さん」
月唯が声をかけると、カナヲはゆっくりとこちらを向き、いつも通りの、どこか空虚な微笑みを浮かべた。けれど、彼女は何も答えない。
カナヲは懐から一枚の銅貨を取り出し、高く放り投げた。
チリン、と澄んだ音がして、手の甲に落ちた硬貨を確認する。表が出たのを見て、彼女はようやく口を開いた。
「……こんにちは。お見舞い、ご苦労様です」
その声には感情の起伏がなく、ただ決められた手順をなぞっているだけのように聞こえた。
月唯は、その様子に胸の奥が締め付けられるのを感じた。自分の意志を持たず、霧の中に漂っているようなその姿は、かつて絶望の淵にいた自分や、記憶を失った無一郎とどこか重なって見えたから。
「……自分で決められないことは、辛くない?」
月唯が歩み寄り、カナヲの隣に座る。カナヲはまた、硬貨を投げようとした。
その手を、月唯が優しく、けれどしっかりと包み込んだ。
「……指示がなくても、あなたの心が動くときはあるはずよ」
月唯は、カナヲの冷たい手に自分の体温を分かつように握りしめた。
「私の『雪の呼吸』はね、冷たいけれど、雪は冷たいだけじゃないのよ。冬の間、土の中で春を待つ花たちを、冷たい風から守る布団にもなるの」
カナヲの大きな瞳が、微かに揺れた。月唯は羽織の裏地に触れ、有一郎の形見の温もりを感じながら微笑む。
「無理に話さなくてもいい。でもね、もし今、あなたが私の手を『温かい』と感じてくれたなら……それは硬貨が決めたことじゃなくて、あなたの心が感じたことよ」
月唯は、自分の髪に飾っていた小さな雪の結晶の形のピンを外し、カナヲのサイドポニーの根元にそっと添えた。
「これは、私からのお守り。次に会うときは、硬貨を投げなくてもいいわ。……あなたが、あなたの声で、私を呼んでくれたら嬉しい」
月唯が去った後、カナヲは一人、中庭に残された。
掌の中の銅貨を握りしめる。月唯の体温が残っていて、驚くほど温かかった。
カナヲは、髪に触れた。そこには、月唯がくれた雪の結晶が、夕日を浴びてキラキラと輝いている。
いつもなら「どうすればいいか」を硬貨に聞く場面。けれど今、彼女の胸の奥で、小さな雪のひとひらが溶けて、一滴の水になったような感覚があった。
(……温かい……)
カナヲは、声に出さず、心の中でその言葉を繰り返してみた。
月唯の後ろ姿を、カナヲは硬貨を投げることも忘れて、いつまでも見つめ続けていた。