親父は強かった。あの人はいつだってかっこよかった。
あの人が立つ姿はまばゆく光るように輝き、誇らしかった。オレンジの道着がよく似合っていた。使い古しで色あせているけど、あの人の歩いてきた道が見えるような、カンロクのある道着だった。
オレは道を並んで歩くたびに、親父の背を見上げるたびに、こうありたいと願ったものだ。
オレが物心つくかつかないか、そのぐらいのときにお袋は死んだ。言葉をいくつか覚えた頃、小さかった妹が……実質的に死んだ。
家族が減ってしまって親父と二人で生きていくしかなかったが、オレはそれでも不思議と、自分の身の上を不幸だとは思わなかった。
生まれた土地の香港を離れ、世界中を旅する親父についていく生活は幸せだった。
行く先々で親父は戦っていた。いつだって親父は勝っていたし、余裕だった。そういうふうに見えた。
余裕があるってのを見せびらかすように、オレに格闘の手ほどきまでしてくれたんだ。今から思えば、自分の修行だけで手一杯だったんだと今なら思う。でも、あの人はオレの親父であろうとしたんだ。
ああ、たぶんオレが幸せだと思えたのはそのせいだろう。
頼れて、尊敬できる人間がいた。その人がオレにいろいろなものを残してくれた。
オレの中には、数え切れない宝物が積み上げられていった。
その宝の山が切り崩されるようなことがあるなんて、思いもしていなかった。
「ダン、今日の試合は特別だ」
オレは、親父の深刻そうに言う声を聞いてもまだ、いまいちその言葉の重要性に気がついていなかった。ある冬のことだった。一室六畳ってところか、そのぐらい狭いホテルの部屋で、親父はオレと向かい合っていた。暖房が効いていなくて、オレは凍えてしまい背を丸めていた。
「特別ってさ、なにが? そりゃ、相手はムエタイの裏チャンプとか言ってるけどよ。親父にかかりゃ誰だってイチコロだろ」
オレは麻のすり切れたシーツの薄汚いベッドに座ってのんきだった。この後なにが起こるのか知っていたら、とてもこんな風ではいられなかっただろう。
親父はオレの無知を嘲るでもなく、ただうっすらと笑っていたんだ。ひび割れた壁の、安っぽい部屋で薄く笑っていた。なにかを予知しているようだった、でもオレはその、親父が見た未来がわかんないものだから笑い返すしかなかったんだ。
このときに気がつけばよかったのだろうか。気がついたところで、他のやりようなんか思いつきもしなかっただろうけど。
あのときのオレは、ちっぽけな力の無いガキでしかなかったんだから……。
タイの地方都市にある、地下闘技場……。あの死合いは、そこであった。
入り組んだ商店街の中、狭い路地の一角にその扉はあった。立て付けの悪そうな、塗装のはがれかかった扉。いくつもの張り紙がしてある。その中の一枚に、その日の試合のことが書かれてあった。オレは扉を開いた。すると照明がほとんどついていない室内と、明るい外のギャップにオレはつい後ずさる。気を取り直し、足を踏み入れた。周りの大人がじろじろと見てきたけど、振り切った。
コンクリートの床面を十歩も歩かないうちに、階段にさしかかった。狭い天井と壁に囲まれたトンネル状の下り階段を一段一段慎重に歩く。限りなく暗い、わずかな照明を頼りに進む。先客の姿が見えた。
そのうち、熱を帯びた声が聞こえてきた。トンネルの抜けた先にある景色に、そのまぶしさに、目を細める。
先に来ていた客をかき分け、前払いのチケットを受付に手渡す。やや怪しまれたが、無視して立ち見できる場所を探した。リングがよく見える位置はすぐ見当がついたので、すぐさま陣取った。
「サーガッ! サーガッ! 帝王、帝王が来たぞ!」
観客たちは叫び、「今日はどんな試合になるだろう」とささやきあっていた。オレは、異様な熱気に包まれた観客席の後ろに立って、リングを見下ろしていた。正式なレフェリーはいない。いるのは、代々こういう試合を取り仕切ってる立会人だ。立会人は年を相当重ねているようで、腰までやや曲がっているようだったが、これから殺し合い(になるかもしれない試合)があるというのに平然としていた。
あのリングにいる人間は普通の精神じゃいられないのかもしれない。なんせ、相手がつぶれるまでやったって構わないって試合だ。まともなレフェリーではとてもつとまらないだろう。相手が悲鳴を上げても腕や足が逆向きに曲がっても、気絶するまでは基本的に声はかけられないってんだから、精神がもつわけがない。
騒がしい会場の真ん中に設けられているリングの端と端に、二人が立っていた。親父とアイツ、ひょろながくて、それでも鍛えられてる手足。背後に冷たい影を背負っている男。
……サガットが向かい合った。
試合開始の、声が響いた。
オレの記憶はここからあいまいだ。たしか、サガットの上段蹴りがあっという間に決まって……。そこから、記憶にもやがかかったようになってしまってる。
親父も負けてはいなかったんだが、始終劣勢だった。だが、サガットのほうにも隙はあった。少しだけガードを引き、攻勢がゆるんだ。そのとき、親父は腰を下げタメを作った。
「昇、天……」
一気に飛び上がり、サガットの右顔面に膝が直撃した。親父の追撃は続く。
「無頼脚!」
膝のコンビネーションだ、右、左と蹴る足を切り替えた連続攻撃。サガットの体勢が崩れる。コレで決まった。
かと、誰もが思っていた。
サガットが、ゆらりと立ち上がった。照明の影の中から這いだしてきたような恐ろしさだった。
立会人が、なにかを叫んだ! タイ語は聞き取れるはずなのに、なにを言っていたのかノイズがかかって思い出せない。
サガットの右目からは大量の血が流れていた。完全に、タガが外れているようにも見えた。
そして、奴は、あいつは……!
「止めろ!! 誰か、帝王を止めろーーっ!!!」
「あれは潰れるだけじゃすまねえ……、あいつ、死ぬぞ」
観客たちがどよめき、叫んでいる。オレは、そうだ、あのとき確かにこう叫んだはずだ。
「親父いいぃぃぃぃーーーーッ!!!」
オレは、布団から身を起こした。布団はオレの流した汗でじっとりと濡れ、気色が悪い。湿度の上がった布団の中から出て、オレは無言で布団を担いで屋根の上に向かった。
障子張りの引き戸を開け、ウグイス張りの廊下を歩いて行った。きゅ、きゅ、と鳴る音で思考が冴えていく。
外を見ると、庭に植わっている桜のつぼみが見えた。そういえば、カレンダーは四月に変わったばかりだったか……。もう、そんな季節になってしまった。
階段を上がり、屋根裏部屋に入る。部屋の中にある屋根に上がるための扉を足でちょちょいと開き、外に出た。屋根の上に上がり、物干し竿に布団をセットしていると、山の向こうで鳥たちが甲高い声を上げていることに気がついた。
見渡す限り、山ばかりだ。もう少し視線を遠くにやると、みすぼらしい城が建っていた。
ここは人間の住むような土地では無い。
いちおう、山を下りれば整備された道路がありはするが、こんな僻地を行き来するのはオレと、オレの
そうだ。オレはこの山奥の古い寺に住んでいる格闘家に弟子入りしたのだ。
「オレは一人になってしまって頼る人間もいないし、自分の身を守れるだけの力を身につけたい」と嘘をついて、この寺の門を通り抜けた。師匠はオレの言い分を黙って聞いて受け入れてくれた。
なんのために、そんなことをしたのかって?
決まってるだろ。親父の敵を討つためだ。
オレは親父の遺品を片付けている最中、親父の日記帳を見つけた。
そこに書かれていたのは、親父が戦ってきた格闘家についてのくわしい注意書きだった。そこからこの古寺に強い男が住んでいることを知った。その拳が、身につけさえすればどんな相手も滅することが出来る「無銘の暗殺拳」だとも書かれてあった!
親父はその拳に宿る危うさについても書き残してはいたが……そんなのはどうでもいい。オレは、オレの目的を果たすことが出来ればいい!
オレは布団を干すと、下に降りていった。師匠が起きていたようで、廊下の向こうから足音がしてきた。オレは相手の姿を確認してから頭を下げる。
「師匠。おはようございます。今日は早いですね」
「いつもどおりだろう。とりたてて遅くは無いと思うが、早いとは言えん」
「そうでしたっけ?」
オレは、はははと乾いた笑いを見せた。時間の感覚が狂ったのだろうか。なんのせいで? 今朝見た夢のせいだろうか、いや、そんなこと、今は気にしなくていい。
「それより、今日は組み手に付き合ってくれるんですよね」
「ああ」
「オレ、楽しみですよ。なんせここに来てから気を練り上げる練習だの走り込みだの藁人形に波動を打ち込むだの……とにかく、試合をしてませんから」
「ごちゃごちゃ言うとらんで、集中してろ」
「はいはい、分かってますって」
オレは師匠に背を向けると、道着に着替えるため自分の部屋にもどった。そうだ。オレは強くなるんだ。師匠を踏み台にしてでも……。
組み手の時間がやってきた。森の中に入っていき、息を調える。師匠を向かい合わせになり、自然と互いに構えを取った。
森全体の空気が震えている。師匠と打ちあう拳に緊張が走る。足さばきが変わる、その瞬間を掴めなかった。師匠の拳はオレを捉えた。……避けきれない。まともに受けた。これはさばけねえっ。無理だ! そのまま、オレはみぞおちに拳を食らい吹き飛んだ。風圧で体全体が押さえつけられたようになって、受け身もまともに取れないままオレは地面に倒れた。ロクに手入れもされていない森林の中だ、その辺の草木が身を刺してきて痛い。ちくちくする。
「……お前の拳には、血が見える」
師匠の声が聞こえる。オレはまだ起き上がることが出来ない。だから、その顔を見ることも出来ない。だけど、わかる。師匠はいま、すごく怒っているのだ。何に対してなのか、オレにはまだ分かんないけど、そういうことだ。声でわかるんだ。それにしても血が見える、って……? はっきりしない思考の中で、疑問がぼんやりと浮かぶ。
陽の光が、生い茂る木の葉の隙間からまばらに降り注いでくる。雲の流れが変わったからか、一瞬だけオレの目を強く照らしてきてそのときだけ目をつぶった。
師匠は、怒りを口に含んだまま続ける。
「お前、最初から人を殺すためにここへ来たんだろう。あんな嘘みえみえの口上を述べてまで入門するとは、執念深いやつだ」
びきびきと背骨にいやな音が走った気がした。
「えっ、そんな、そんなことは……」
「あと一月、猶予はそれまでだ」
オレは、ただではすまないという予感に気づく。肘を支えにして、なんとか上半身だけ起き上がる。なんのことだか聞いてみる。
「なんのことすか、猶予って?」
「一月後に、もう一度組み打ちをやる。そのとき、まだ、お前の拳が血に濡れているようなら……そのときは、破門だ」
「はあっ、ちょっと、師匠? いま、あんた、なんて」
「聞こえなかったか? 破門だ、破門。破門というのはな、今後一切この寺と道場の門は跨がせないし、わしとお前は一生他人という意味での破門だ」
「……はあああああああ?」
オレは地面を蹴って立ち上がった。寝ている場合じゃない! 抗議しようと師匠のところまで走って行こうとして、ふらついた。くそ、身体がまともに動かねえ。衝撃がまだ残ってやがる。
オレがもたついてると、師匠は一人で勝手に寺の方へと戻って行った。くっそお、なんなんだよ! 血が見える、だって? そりゃあ、組手をすれば血の一つや二つ、付くだろうよ。はあ、……そういうことじゃねえって? それは例えの表現であって、ようするに、人を殺す汚い格闘家に成り下がるような、そんな弟子はいらねえってか? だったら、それは、それは……。
そんなものは、あんたの知ったこっちゃないだろうが!! オレが、手に入れた力をどう使ったって勝手だろ? こんな、ケンカの技術なんてなあ、相手をブチ負かしてやるためだけのもんだッ! きれいごとなんか聞けねえ! オレには、あの男を殺すための力が要るんだ。そのためにここの門を叩いた。親父の遺した日記帳を頼りにここまで来た!!
それなのに、この仕打ちはなんだってんだよ。あんまりじゃねえか。弟子を修行の途中で放り出すってのか? くそ、こんな、こんなことになるなんて、オレにどうしろってんだよ。ああ!?
オレは胃のむかむかを抑えられないまま、師匠のあとにつづいた。ああもう、オレがそんな、すぐに変われるわけがねえし、だいいちオレは変わりたくもねえんだよ。あの男が憎いんだよ!!
オレはまともに動かない足を引きずって寺に戻った。頭の中は、師匠への不信といらだちでいっぱいになっていた。
ぎゅるぎゅるぎゅるぎゅる……。ムクドリの声がうるせえ。目が覚めてしまった。やかましいぞ騒音発生器。オレは、布団からのろのろと這い出た。朝だ。外はまだ暗い。早く起きすぎたみてえだ。
あの破門宣告のあと、師匠になにを言っても聞き入れてはくれなかった。だからその夜は黙って飯を食って、風呂に入って、寝た。寝る前の瞑想は、する気になれなかったのでやってねえ。
なんなんだあの人。自分勝手だろ。だいたい、復讐のために使われたくねえとか、そんなん、あんたに言われるようなことかよ。あんたこそ、なんのために拳を振るってんだかわかんねえっての。なんでもかんでも自分の思うとおりになると思ってんじゃねえぞ……。そこまで考えて、腹が減って来たので厨房の方へ向かう。あの分からず屋の分は作らないでいようか。……いや、ここは機嫌をとったほうがいいのか。
ご機嫌取りのために師匠が好きそうなメニュー、具体的には釜で炊いた飯だとか、朝っぱらからこんな手間を掛けさせるなと言いたくなる出汁巻き卵だのを、作った。出汁巻き卵は朝食うもんじゃないとも思う。思うけどオレが作れる豪勢な料理といったらもうこれぐらいしかない。時間がかかってしょうがねえ。ちくしょうあんにゃろうめ。
そうやって手間暇かけた朝食をありがたみゼロでもごもご完食しやがった師匠は、「うまかった」とだけ言ってすっくと立ち上がった。おい、言うことはそれだけか。味噌汁と出汁巻きにとっておきの高い出汁を使ったとか、気づかなかったのか。おい。
「師匠」
「なんだ」
「なんだじゃないですよ。オレにどうしろと言いたいんですか。復讐をあきらめて、それでなんのためにこの拳を使えと? ……オレには、さっぱり分かりませんが」
「そうか。ならば一月後には破門だな」
「ぐっ……!!!」
そのまま居間を出て行ってしまうのだから、オレは感情のやり場がなくて、ちゃぶ台を殴った。気が晴れないので畳も殴りつけた。ちょっとだけ畳がめり込んだ。拳のあとがついてしまった。
ほんともうなんなんだあの野郎。強いだけしか取り柄がねえのか、このお。
……ちょっとぐらい、心配するふりぐらい、してくれたらよ。ちったあ話聞く気にも、なれるってもんなのによ。
そもそもなんでオレがこんな覚悟までしてるのかとか、聞こうとする気すらないのかよ……。
オレは自分の部屋に戻って、そこから縁側に出て、習った型をひととおりおさらいして、首を振った。だめだ。落ち着かねえ。こんなんじゃ技が決まらねえ。
そういうことなので、街に下りることにした。気分転換だ。寝間着にしてる浴衣からTシャツとジーパンに着替えて、道着や財布を詰めたリュックを背負う。ああ、今、手持ちはいくらだったかな。リュックから財布を一回取り出し、一万円札を数える。この間派手に稼いだので、十枚以上はある……。麓の町の中で、かろうじて栄えている繁華街……の路地裏。これ以上やったら、あそこのストリートファイトは当分出禁になるかも。あそこの胴元と仲が良いわけでもないからな。ま、そうなったら遠征でもしよう。そうなるとだいぶ交通費が嵩むので、出禁にならないほうがありがたいけど。
麓にある電話ボックスでタクシーを呼びつけ、到着したタクシーの助手席に乗り込む。そんで、街にある適当に目立つ建物の名前を言う。運転手はうんうんと頷いて、車は発った。きみどこから来たの、この山の子? ひとりでどうしたの、おうちの人は? とかなんとか。オレはそういうのにてきとーな答えを用意しているのでさくさく答えてやる。今日なんかは日曜だからましなほうだ。これが平日だったら、おお、考えるだけで面倒だ。子どもが一人で居ちゃあいけねえらしいぜ、へっ、知るもんか。こちとら親戚なんか、一人も残ってないんだぜ。オレの知る限りな。
オレが言っておいたビルの前に着くと、停車してドアが開いた。オレは金を渡しといて、釣りをもらい、「あんがとな」と言って手を振っておいた。運転手はにこにこして手を振り返す。ドアが閉まって、タクシーは客を拾いにどこかへ去った。さて、今日はどこに行こうか、この間あたらしいコンビニが出来たとか聞いたが、そんなとこ今さら行ってもな。そのぐらいうちの山から徒歩一時間のところにもあるぜ。コンビニを奉る時代でもないだろ、今って。
そんなこと考えつつ歩道をてくてくしていると、交番の前で見慣れない子どもが辺りを見回しているのを見つけた。
赤茶の髪で、整ってるけどどこか野暮ったい顔立ち。道着姿で、なんと靴を履いていない。素足だ。どういうこった、修行中なのか? いやあ、それにしたって、オレより二つぐらいは年下に見えるぜ。つうか、このへんの、まっとうな道場のやつだったらさせないよな。道着に素足で町歩きなんて。それに、……そういうとこの道着は、なんとなく頭に入っているけど。
どこの流派とも違う気がするんだよな。いやあ、正確に裾だか帯だかのデザインを覚えてるわけではねーんだけど、それにしたって、あんな、言っちゃあ悪いがみすぼらしい道着をだな。子どもが着てるんだぜ。同伴者も無く。交番でなにか聞きたがってるってことは、迷子か?
違うな、そんな感じじゃない。不安そうな顔はしてないんだ。そいつ。はっきり目的があって、そこに立っている感じなんだ。自分のやるべきことを認識していて、どこかに行きたがってる。背筋は正していて、考えのしっかりしてそうな面持ちだった。
オレは、そいつが何処に行くのか知りたくなってしまった。だって、あんなにまっすぐ前を見てるんだぜ。面白くもなるだろ、気にもなるだろ、そりゃ。
だから、オレは、その子どもに歩み寄った。足が勝手に動いていた。気になるから。なんだか無視できないから、そんな衝動がオレを動かした。