カレンダーが九月にめくれた途端、この山を取り巻く空気……季節の風は、その色をゆるやかな速度で塗り替え始めた。盆を過ぎればマシになると何処かで聞いたが、それは本当のことであったらしい。暑いといえばだいぶ暑いのだが、相対的にはかなり過ごしやすい。身体が慣れただけ、という可能性も全然あるけど。
空の青はどこまでも高く、透き通るような広がりを見せていた、この辺りは、まだ夏の空気を残している。
代わりに、あれほど狂暴だった蝉たちの合唱は、いつの間にやら遠くへと退いている。蝉の暴力的な鳴き声から打って変わって、耳に届くのは、朝方や夕暮れに響くヒグラシの物悲しい調べや、夜の訪れと共に始まる鈴虫、コオロギたちの涼やかな合奏だ。こちらの場合は耳をすませば心が休まる。虫にも様々な個性があるようだ。
もっとも、二人目の弟弟子であるケンにとっては、それらはただの「ノイズの質が変わった」程度の認識らしい。そりゃあまあ、アメリカでいうと虫の鳴き声って、種類がなんであれやかましい騒音扱いっていうからな。
「チッ、また違う虫が鳴き出しやがった。うるせえやつらだな……。それに、なあ、日本の夏ってのは、いつになったら湿度が下がるんだよ。不快指数が限界突破してんだけど」
オレはカレンダーを差して、気休めにもならないことを言ってやった。
「一応、カレンダー的には、今月からは「残暑」とか「初秋」ってことになるらしいぜ?」
「秋ぃ? この気温が? だとしたら体感がトチ狂ってるだろ……」
相変わらずの悪態だ。九月に入ってもなお残る熱気と、肌にまとわりつく湿気に、こいつは毎日毒づいていた。アメリカのどこから来たのかは詳しく聞いていないが、「日本の美しい四季」は、こいつにとってはただの「過酷な気候」でしかないようだ。
オレもまあ、今を「秋」と断言するのは、流石にちと無理があると思う。
――だが、そんなオレたちの泣き言も、師匠の唐突な宣告によって吹き飛ぶことになった。
「今日から一週間、あちらの山の中で生活しろ。麓に戻ってきたら……分かっておるな? しばくぞ」
あちら、と言いつつ、朱雀城から少しばかり離れた方面の……本気で何一つ整備されていない、ただの生えっぱなしの山を指してそう言うのだ。朝稽古の直後、まだ汗を拭う暇さえ与えられずに放たれたその言葉に、オレは耳を疑った。リュウとケンは、唐突な提案に呆然としている。当たり前すぎる。戦前……を通り越して原始時代かよ、セルフで少年漂流記を再現する趣味はないんだが。とツッコミを入れる間もなく、師匠は淡々と話を続ける。
「今日とは言ったが……荷物をまとめる猶予くらいは要るな、よし、今から……」
話が進みそうになっている!! と、止めなければ!!
「待ってくださいよ師匠! あなたの意図はこの際無視して言いますけど!! いきなりあんなとこに放り出すなんて無茶ですよ。この寺の周辺は最低限……ほんと最低限ですけど、そりゃまあ、人が行き来できる程度には整えてあります。でもあっち側ってマジでただの野山なんすけど!? あのへんの山道って険しいし、勝手に入って何かしら問題になったらどうするんですか。不法侵入とか、森林法違反とか……」
「案ずるな、ダン。この山域一帯はわしの所有地だ。誰に気兼ねする必要もない」
「……え?」
オレは固まった。格闘家かと思っていたら、このおっさん、実は地主だったのかよ!
地主。不動産オーナー。だいたい全部山だけど。その単語が頭を巡ると同時に、これまでの数々の疑問が解けていった。修行で木をなぎ倒しても、地面をクレーターができるほど抉っても、果ては豪鬼さんが乱入してきて地形を変えかかっても、どこからも苦情が来なかった本当の理由。
道理でやりたい放題なわけだ……。だが、それならそれで、もっとインフラを整えてくれてもいいじゃないか。
地主ならさ……。この山に生えてる高価そうなキノコとか、生え放題の樹だって定期的に業者を呼んで整えれば多少は換金出来るかもだし、そのへんの資源を全部売っ払えば、ガスぐらい引けたんじゃないのか? 水道は無理でも、プロパンガスなら……ギリギリ……。いや、いっそ山ごと売れば……あ、それはダメだな、親父から聞いたことがある、「日本の山地ってやつは、地価自体はびっくりするほど安い」って……。
というか、こんな森しかない山ばっかり持っててなにがしたいんだよ……!! 都会どころか県庁所在地からもとんでもなく離れてるし、金にする気がないならなんに使うんだよこんな僻地を……。不便なだけな土地なのに……。修行で暴れ回るためなのか??
それに、こんな範囲の土地を管理できるだけの甲斐性はあるのか? 森って定期的に切らないと逆に弱るとか聞いたことあるけど、だいぶ放置されてねえか? いや……師匠の家族からこの辺の土地を押し付けられて、ついでだから修行に使ってるとか……? わ、わからない……。なにも……。
この無茶すぎる提案に、リュウまで口を出してきた。
「あちら側とは、朱雀城の東側のことですよね? 小さな川があって、谷があって、獣が多少は居ますけど……他にはなにもないでしょう。そんな山中で過ごすというのは……無謀だと思うんですが」
師匠はリュウの不満すらにべもなく突っぱねた。
「丸腰で行けとは言わん。必要な道具はあとで渡す。それで、期間内は山から戻ってこないこと。戻ってきたら……分かってるな? 折檻だ。なに、それほど大げさに考えることはない。人の手の入っていない山中で何カ月も過ごした人間だって何人か知り合いに居る、わしだってそのぐらいのことはやったことがある」
基準がおかしくなってんだろ!! どういうコミュニティを築いてんだよ!! 人選が偏りすぎだろ!!
山籠りってなに? そんな修行聞いたことがないんだが。どこの修験者の話だ? オレたちは天狗になりたいわけではないが??
……そこでオレの頭に、この間読んだ本の内容がちらついた。弟弟子と一緒に座学をやっているときに、武道の心得的な本を読んで……ケンが不思議そうにしていた。「格闘家と宗教って関係ないだろ」と言われたんだ……。そう、その本の中に、「修験道」の文字が、あったような、なかったような。
そんな……格闘家と天狗はイコールどころかニアリーでもねえだろ……。
そこで、リュウがなにかに気が付いた顔をした。確かめるように、師匠に聞いた。
「師匠。なぜそのような試練を? 俺たち三人にやらせる意図はなんなのでしょうか」
「よくぞ聞いた。……その意図に自力で気が付くことこそが、この試練の肝である」
答えに……なってなくないか……???
そんな俗世的な不満がぐるぐると渦巻く中、オレたちの「サバイバル」は強制的に開始された。
師匠から「必要な道具」として手渡されたのは、最低限の支給品だった。
一人分の携行食料が数日分(一週間ぶんには到底足りない)、小型のろ過装置(……こんなもん、サバイバル・ガイドでしか見たことがねえんだけど?)、狩猟用の弓矢(これは本当に何!?)、釣り道具(意味は分かる)。それに研ぎ澄まされた短剣が一本……これはまあ、使い道は多いだろう、それと、ビニールシート、杭、何種類もあるロープ。寝袋と着替え、洗濯用具一式。この辺りを持たせる辺り、野晒しで寝させるつもりはないようだ。だからといって、良心を感じるとまではいかねえけど。
「……ありえないだろ」
ケンの引きつった声が隣で聞こえる。こいつは……両親がマスターズ家を出たあとだって、アメリカでの庶民暮らしをしていたわけで、先進国の庶民的な暮らしというのは、現代文明の恵まれた部分を強く受ける場所に決まっている。そんな場所で育ってきたのだ。アメリカの基準で暮らしが質素だった可能性はあるかもしれないが、インフラそのものが存在しない「山」なんて、異空間そのものだろう。この寺でのそこそこ不便な生活を経たところで、その暮らしはケンにとって絶望以外の何物でもないらしい。
一方、オレは渡された道具を手に取った瞬間、妙な感覚に襲われていた。
この短剣……。刃の角度と厚みからして、実戦用っていうよりは、解体に適してるな。皮を剥ぐにも部位を分けるにも手間取ることはないだろう。というか、アレか? 仕留めるというか、動けなくするまではあの弓矢を使って、この短剣でシメて血抜きしてバラせってことか? なんつうサバイバルだよ。
それからこのロープ、細いのも太いのもあるし、いくつかの繊維の混紡か。んー、なかなか頑丈な気がする。それに、一番太いロープなら、オレたちの体重的には崖を登る補助ぐらいになら使えるはず。耐荷重的には楽に耐えられるはず……。
本で読んだからかな……「なにをどう使うべきか」が、次から次へと頭の中に浮かんでくる。自分の指先が、どう動けばいいのかを本能的に理解しているような感覚。修行って、やっているうちはなんのためにやってんだよこの型って思うときもあるけど、試合中にぱっと気が付くときもある。このときのために必死でやってたのかって。そういう感覚に近い。
これが出来るからって特別優れてるわけでもないだろう。これぐらいのこと、大層なことだとはまるっきり思わない。
オレはただ、「まあ、昔から雑学が好きだったからな」と自分を納得させ、荷物を詰めることにする、後で出すときに困らないよう仕分けしつつ詰めていった。
いよいよ出発……という間際になって、師匠はあとからつけ足すように言い出した。
「必ず、三人一組で行動しろ。一人の脱落も許さんからな」
師匠のその条件を聞いて、オレははっと気が付かされた……いや、周りを見ると、三人ともが同じことを察していたようだ。
これは単なる生存訓練じゃない。逃げ場のない極限の状態を共有させることで、新入りのケンの心の壁を物理的に、あるいは精神的にぶち壊そうという、師匠なりの『荒療治』なのだ。
動機が親切心であるというなら――くそ、逃げ出すわけにはいかなくなっちまったじゃねえか。オレは強制的に、ハラを括らされる羽目になってしまった。
リュウがはきはきと、迷いなく進んでいる。
「行くぞ、二人とも。まずは水場を確保し、今夜の拠点を決める必要がある」
山を修行場として、そして「家」として愛しているらしい……豪鬼さんとの生活が垣間見えた気がする。リュウは、一切の不満を漏らさず先頭を歩き出した。
迷いのないその背中を見ながら、ケンは顔をしかめて愚痴をこぼす。
「……やり方が時代遅れなんだよな、あのおっさん。ボーイスカウトのキャンプじゃねえんだぞ」
「同感だ。だが、あの頑固親父は言ったことは絶対に曲げない。それに……いや、なんでもない。ほら、行くぞ、ケン。リュウに置いていかれたら、マジで遭難するぞ」
オレたちは重い荷物を背負い、湿った獣道へと足を踏み入れた。ぬかるみに足を取られないよう、注意を払って先へと進む……。
前半戦は、予想通りケンの悪態のオンパレードだった。
湿った泥に足を取られ、急勾配に息を切らし、そして日本の「虫」たちの洗礼を受ける。
「うおっ!? デカい蛾! なんだよこいつ、つーか、寺に居たときから思ってたけど……この辺、虫全般が多すぎるぜ! 虫と戯れるなんて変人のやることだろ!!」
「んー、そうか。そういえば、アメリカってそんな文化圏だった気がするな……」
確か、とんぼのことを悪魔の手先かなんかのように言っていた気がするし……。虫が嫌いという以前に、親しみがないらしい。いや、オレだって別に特別好きということはないが。
極めつけは、初日の夕方だった。
リュウが茂みからガサリと這い出てきたかと思うと、その手には数匹のコオロギと……イマイチ区別がつかねえけど、イナゴの類も混ざってるような……そういう、ギリ食用になる虫が握られていた。マジか。しかし携行食料に頼れば早晩底を尽きるのは分かっているわけで……はあ、目ぇ瞑れば食えんこともないか……。
リュウは淡々と、きわめて事務的な口調であった。
「貴重な蛋白源だ。今夜はこれを焼いて食おう。糧食はあくまでも補助だと考えたほうがいい」
オレも「進んで食いたくはねえけど、足しにはなるわな……」と嫌々ながら同意していると、ケンが「お前ら、頭打ってんじゃねえのか!?」と言ってきた。正気を問われているらしい。
「冗談だろ!? んなもん食えるかよ! オレはまだ飢え死にしちゃいねえ! 焼いても無理だ、というよりも、焼いたところでなんなんだ、ソレは!? 見た目がもうエイリアンだろ!」
ケンは本気で、顔を真っ青にして飛び退いた。オレたちのことまで嫌そうな目で見てくる。未開の土地に住む、文化の違うような人間だと思ってんのかね、オレたちを。これは師匠が無茶振りしてくるからやってるだけなんだがな……。
アメリカ仕込みのオーバーリアクションで拒絶するその姿は、普段の「スカしたガキ」の面影など微塵もなく、ただの「年相応のガキ」そのものだった。……虫のことは、土地柄ゆえの親しみのなさと関係なく、普通に嫌なのかもしれない。まあ、どっちにしろ一週間も居れば虫なんて慣れるだろう。これ、なんて言うんだっけ。ショック療法ってやつ?
オレとリュウは顔を見合わせ、思わずニヤリとしてしまう。
「あいつ、意外と普通の感性なんだな」
「ああ。少し安心した……それに、オレも少し共感出来る」
オレはリュウの言いようにちょっと驚いた。素手でコオロギを掴むやつが、虫嫌いのなんの気持ちをわかるというんだ。
「どの部分でだよ!?」
「ほら、オレだって蜘蛛だけはどうしても慣れないからな……」
ああ〜。そういえば、そんな話も聞いた気がする……。オレが「脚が多い虫が嫌ってことか?」と聞いたら、「ムカデやゲジゲジは平気だな」と返されて、頭の中の疑問符が消えなくなったような。なんでだよ、見た目でいうならムカデとかゲジゲジのほうが圧倒的に怖くないか? ……もしかすると、蜘蛛にまつわる縁起がどうとかの怪談を豪鬼さんに聞かされたのかもな、うん。
オレはここで、わざとらしくケンの肩を叩き、兄貴風を吹かせてみた。
「ほらケン、これがお前の言う『看板』や『名声』より、今この瞬間には大事な『チームワーク』ってやつだぞ。リュウだって蜘蛛が居るかもしれねえ林に突っ込んでいって勇ましく獲物を捕まえてくれたわけじゃん? 食わないならオレがお前のぶんまで食っちゃうけどいいのか?」
「うるせえよ! そのクドい顔を近づけるな、余計に暑苦しいんだよ!」
ぐっ、激しい抵抗だ……!! まあ、そう簡単に打ち解けるわけもないか。だが、こいつの中の「鎧」が少しずつ、物理的な不自由さによって剥がされているのは確かに感じられた。
二日目。そういえばオレって兄弟子なのになんにもやってなくない? 焦ったオレは巻き返しを図った。
周囲の警戒と食料調達はもはやリュウが担当しているし……となれば、オレがやるのは「拠点作り」あたりか。うし、やるぞ。
こっちの指示を聞くかは知らんが、とりあえずは言ってみる。
「ケン、向こうのほうの……丈夫そうな枝を何本か拾ってくれねーかな、掴めるくらいの……予備でもうちょい多くてもいいな。やれるか?」
ケンは怠そうに起き上がると、「やりゃあいいんだろ」と案外素直に従った。やけっぱちの可能性もあるが。オレは「あんま深いとこまでは行くなよー」と声をかけておく。
ケンは真面目に指示を請け負ってくれたらしい。往復するまでもなく、枝を背負ってきた。「掴めるくらい」でこれをやってくるあたり、やる気というよりヤケを感じる。
「じゃあ、やってやるか。えーと、キャンプ用のテントって構造的にはどういうもんだっけ……よし、思い出した」
オレは枝をロープで組んで柱として一応成立しそうな高さまで仕上げる。それからだいたいの図面を枝で土に描き、始める。
ビニールシートをてきと〜な塩梅で張り、目印としていくつか石を置く。このあとは……いい感じに杭を打ってはシートを折ってまた杭を打って……入り口にあたる場所からテントの中に入って、中央の部分に柱を立てれば勝手に三角になるはずだが、この場合どこに杭を打つんだ……?? 何回か杭を打っては「これテントになんねえ」というのを繰り返し、三回目あたりで要領をつかむ。……いや!? 一応三角テントにはなってるけど、穴だらけになってんぞこれ! ……シート一枚で一人ぶんのテントになるっぽいし、この穴が空いてるのはオレが使うか。
一度覚えてしまえばなんてことはない。ビニールシートに杭を打っては柱を立て、残り二つを仕上げた。まったく、ポールもないのにテントを張らせるとは……。
予備のシートが余ってしまった。雨が降ったときの屋根ぐらいは作っておくか……。なんだっけ、麓にある小学校で運動会をやってるときに、外から見えた気がする……。雨除けならあんなもんでいいだろう。
オレが雨除けの骨組みを組んでいると、横で見ていたケンが「……オレがやることはねえのかよ」と尋ねてきた。いや、オレが一人でやったほうが早いし……と言いそうになって飲み込んだ。これは「チームワーク」の試練だった。
「そうだな……じゃあ、そっちの柱を支えててくれよ。オレ一人で組むと歪みそうだし」
「そうか」と請け負い、ケンが立った。危ない、オレが台無しにするところだった……。
あっ!? そういえばリュウのやつは……? と辺りを見回すと、昨日までなかったはずの石組みのなにかが建っていた。リュウのやつ、ほっといているうちに、頑丈そうな「石組みの竈」を作っていたようだ。いや!? どうなってんだよ!? オレもそんなの作れねえけど!? と聞くと、「父さんが趣味でピザを焼きたかったんで、付き合ってるうちに覚えた」んだとさ。豪鬼さんって、興味を持ったらなんでもやる人なのかな……?
そして夕食。リュウが仕留めたウサギを前に、オレは短剣を抜いた。
「……解体かー。気は乗らねえけど。んじゃ、川行ってくる」
そう言いながら、近くの小川に向かう。トドメを刺してくれたのは、オレは性格的にやりにくいと思われたんだろうな……と思いつつ、オレは迷いなくウサギの頸動脈に刃を入れた。トドメを刺してから間もない、鮮やかな血が川を流れていく……。あらかた抜いてから、皮を剥ぎ、内臓……とくに消化器を傷つけないように取り出し、可食部を切り分ける。やってみれば案外出来るものだ。ウサギは元の姿を残さず、肉にしか見えないカタチに変わった。食わない部分は浅く埋めておく。そのうち、野生動物が片付けてくれるだろう。山に還ってくれ、と、……ただの自己満足だが、そう願っておく。
焚き火の爆ぜる音だけが響く中、ケンは黙りこくったまま、オレの手元を食い入るように見つめていた。
「……あんた」
直火で焼かれた肉の匂いが漂い始めた頃、ケンがぽつりと口を開いた。
「なんだ? やっぱり獣肉は食わないなんて言わないよな。ウサギちゃんがかわいそうとか、そういうタマかよ、お前が。それともあれか、塩すらかかってないのは……確かにキツイだろうが、勘弁してくれ。調味料を荷物に入れなかった師匠のせいだろ」
「……そうじゃねえよ。あんた、そのテントを張るだとか……短剣の使い方はどこで習ったんだよ? ボーイスカウトって柄でもないだろ、そのクドい顔で」
「クドイのが関係あるかあ!? じゃなくて、そんなもん、独学だよ、独学。これぐらい、やれば誰でも出来るんじゃねえの?」
おどけて返したが、ケンは冗談だとは思っていないようだった。
「独学でここまでできるわけがない。……あんた、どっかで軍事教練でも受けてきたのかよ」
「ありえねえって! 軍隊に入るわけなくないか!? このオレが!!」
どうやら、こいつはオレのことを……格闘技の腕はどうだか知らねえが、それなりに「出来る男」だと思い始めたらしい。勘違いが多分に混ざっている気がするので、訂正出来る部分はしてやりたい。
だが、その瞳には、侮蔑でも拒絶でもない、光が宿っていた。オレを見る目が変わったというのは……まあ、悪い気はしない。
自分のちょっとした小器用な技術が、こいつの頑なな心を、ほんの少しだけ動かしたのだとしたら。それはきっと「いいこと」であるに違いない。オレは焚き火の熱とは違う、確かな温かさを胸に感じていた。
五日目。山の天気は、前触れもなくその機嫌を損ねた。
秋の爽やかさはどこかへ消え、空は鉛色に低く垂れ込める。そして、肌を刺すような冷たい小雨が降り始めた。
「チッ、火が消えちまうな。ちょっと薪を拾ってくる。……そこの屋根から出ないほうがいいぞ、二人とも」
ケンが、焚き火の維持を理由に、少し遠くまで乾いた薪を探しに出た。少しずつだが、あいつの態度も柔らかくなってきた気がする。あと、ここで暮らすにあたって……「自分の役割」を見つけようとしている。そんな気もした。
だが、あいつが霧の向こうへ消えてから、しばらくしても戻ってこない。いや、それどころかどんどんと、気が遠ざかってるような……??
「……リュウ。ケンの気配が、急に遠くなった気がしないか」
「ああ、兄さん。……嫌な予感がする。あっちだ」
オレたちは拠点を飛び出した、雨がくすぶる森の中を駆けていく。
すると、深い霧の向こうに、崖の中腹にぽっかりと口を開けた「洞窟」が見えた。
ケンが向かっている……その洞窟は、異様な雰囲気だった。
雨音も、虫の声も、風の音さえも届かないような、不自然なほどの静かさ。
そこだけが、世界の環境から切り離されているような……。
そして、その闇の入り口で、吸い寄せられるように中に一歩踏み出していくケンの背中を、オレたちは見てしまった。
「ケン! 待て!」
叫んだが、届かない。あいつは、まるで何かに魂を引かれているかのように、暗闇の中へと消えていった。
洞窟の入り口に辿り着いた瞬間、鼻を突くような「冷たい気の淀み」がオレの肺に流れ込んできた。
……なんだ、この感覚。吐き気がするほど冷たい。まるで、死人がたむろしてるみたいな……。
ここは……ここで、なにがあったっていうんだ。
「……嫌な予感がするな、リュウ。ここは、空気が凍りついてやがる。まるで、洞窟そのものが獲物を食おうと口を開けて待ってるみたいだ」
「ああ、兄さん。……この洞窟、生きてるみたいだ」
リュウの瞳にも、かつてないほどの緊張が走っている。
だが、あの中には、オレたちの「弟」がいる。
引っ張り出して来なくてはならない。兄として当然やるべきことだ。たとえその奥に、どんなものが待っていようとも、引くわけにはいかない。
「……行くぞ、リュウ。一番弟子の面目にかけても、あいつを必ず連れ戻す」
「ああ、兄さん。行こう」
オレたちは無言で顔を見合わせ、光の届かない暗い淵へと、迷うことなく足を踏み出した。
入り口を振り返る。洞窟の外は、土砂降りだった。こういう降り方を「秋雨」っていうんだろう……九月という、季節と季節の合間にある、その時期特有らしい天候。人間を力尽くで押し流そうとするかのような、狂暴な水流が地面を叩きつけるように降っていた。
叩きつける雨音は分厚い岩壁に遮られ、洞窟の奥へと進むほどに、世界から音が消えていく。湿り気を帯びた冷気が肌を撫でる、吐き出す息がかすかに白く濁る。不自然なほどの静けさだった。そこは、生きてるものの気配が一切絶たれた、真空のような場所だった。
「……っ、はぁ、はぁ……」
暗闇の先で、短い呼吸の音が聞こえた。
懐中電灯の細い光を向けると、そこには足をもつれさせ、岩肌に手をついているケンの姿があった。疲労と、それ以上に正体不明の「何か」に当てられたような、青ざめた横顔だ。
「ケン! 大丈夫か!」
オレが声をかけ、ケンに駆け寄るのとほぼ同時に、背後からリュウも追いついてきた。リュウを見ると、険しい表情で周辺を見回している。
だが、ケンはオレたちの呼びかけに応じない。ただ、あいつが座り込もうとしたであろう足元――その先に広がる「光景」に、釘付けになっていた。
「なんだよ……これ……」
ケンの震える声に誘われるように、オレもそちらへと視線を向けた。
そこにあったのは、およそ自然の産物とは思えない代物だった。
カビと埃にまみれ、洞窟の隅に無造作に転がっているのは、木製のトレーニング器具の数々。バーベル、歪な形をした木人、そして巨大な石を縄で縛り付けた重し。
それらは長い年月放置されていたはずなのに、腐り落ちることなく、そこにある。
それだけではない。その器具の表面からは、持ち主の凄まじい「執念」とでも呼ぶべき不気味な気配が、黒い不純物のように立ち上っていた。
「……っ」
隣でリュウが息を呑む。恐怖とはまた違う「おそれ」が、場を支配していた。
オレは内心の怯えを振り払うように、率先してその器具の一つに触れた。
ずしり、とした重みが指先から伝わる。木製のはずなのに、まるで高密度の鉛を触っているかのような、ありえない重量感。そして、その表面には、鋭い刃物で刻み込まれたかのような筆跡で、文字が躍っていた。
「……文字が入ってるな。『不退』……『覚悟』……『天』? 誰かがここに籠もって、修行をしていた跡なのか?」
それらの文字は、誰かの覚悟が刻まれていた。それも、尋常では考えられない程の質量だった。
オレの推測を裏付けるように、リュウが震える手で一本のバーベルを引き寄せた。
その瞬間、リュウの顔から血の気が引いた。
「どうした、リュウ」
「……この筆跡、見覚えがある……」
リュウが指し示した場所には、ひときわ深く、激情を叩きつけるかのように刻まれた一文字があった。
『滅』
「これは……父さんの書き癖だ……間違いない……」
リュウの声が、絶望に濡れて震えた。
そうだ、豪鬼さんが……出会ったときに言っていた。
『自分の実力に見合っていない、分不相応な奥義に手を出そうとした。それで一遍、悪鬼魔道に堕ちかけて……』
ここは、豪鬼さんが苦しみ抜いた場所なんだ。自分の内にある「鬼」と「人間」の狭間でもがいて苦しんで、狂気を振り切るために籠もった場所なんだ。殺意の波動の余韻が、今なおこの洞窟の底に沈んでいる。呪いは本人がこの地を離れても留まり、獲物を手招いている。ここは、人が入っちゃいけない場所だ。
かつて、豪鬼さんという男がここで、自分の中にいる「人間」を……それを捨てるかどうかの瀬戸際に立っていた、自分自身を壊しかねないほどの修行に明け暮れていた。この洞窟に染み付いた「執念」の正体は、豪鬼さんが鬼になるまいと、人であろうとしたこと、しがみついた軌跡そのものだった。「業」の名残……いや、そのものだったのだ。
リュウは激しくうろたえ、その場に膝をつきそうになっていた。
……ああ、そうか。
動揺するリュウを見て、オレは意外なほど冷静な自分に気づいた。
あの豪鬼さんだって、最初から今の「冗談好きで豪放な親父さん」だったわけじゃないんだ。ここで自分の内側にあるどす黒い力と向き合って、戦って、それでようやく「人間」としての道を選び直した。前、あの人が言っていた『発作』っていうのも、たぶんここで刻み込まれた葛藤の爪痕なんだろう。
……つらかったんだな、あの人も。この暗闇で、一人っきりで自分と闘うなんて、想像するのも難しいほどの苦痛だっただろう。
「――おい! リュウ!」
沈黙を破ったのは、ケンの鋭い一喝だった。
絶望の底に沈みかけていたリュウが、驚いたように顔を上げる。
「なにを情けないツラしてやがる! シャキッとしろよ! お前はいつも、どんなことがあっても、あるがままを受け入れて……前を向いてるんじゃねえのかよ!」
ケンの苛立った声。その裏側にあるものを、オレは敏感に察知していた。
ケンは、オレの知らないうちに……リュウに対して強い憧れを抱いていたんだ。どんな事情を背負っても揺らがない、リュウの「真摯な強さ」を。だからこそ、その理想のリュウが、過去の影に怯えて震える姿を見ていることが、たまらなく耐えられなかったんだ。
……さて。一番弟子のオレが、ここで黙っているわけにもいかないな。訳知り顔で突っ立ってるだけなら、木偶でも出来ることだ。
「リュウ、ケン。……たぶん、ここを見つけることも含めて、師匠の計画のうちなんだ」
オレは二人の間に割って入り、根拠なんて何一つないけれど、確信を持って言い切った。
「人間は、一人で暗闇に籠もると破滅しそうになる。豪鬼さんも、きっとこの洞窟でそれを痛いほど学んだんだ。……でも、オレたちは三人だ」
リュウが、動揺をいくらか抑えた声になった。
「兄さん……」
「自分一人でなんでも出来るなんて思い上がらなきゃ、大丈夫だって。豪鬼さんだって今はただの、なんでもないことですぐ笑って、やたらと声と態度がデカくて、しょっちゅう人をからかってくる、冗談好きのおじさんだろ? しかも今は、気になったら何にでも挑戦する趣味人と来たもんだ。そんな人が、今更「鬼」に負けるわけがない。あの人が耐え抜いたのなら、オレたちだって負けるわけがない。……だから、オレたちが鬼になるなんてこと、あるはずがないんだ。絶対にな」
オレの言葉は、ただの「お節介」だったかもしれない。
けれど、リュウが恐れていたのは、いつか自分の中にも目覚めるかもしれない「鬼」に頭ん中を乗っ取られて、守るべき兄弟さえも殺めてしまう未来だった。……推測になるけど、オレはそう考えてる。
オレが差し出したその「根拠のない肯定」は、リュウを繋ぎ止める一本の「蜘蛛の糸」になったようだ。こいつは蜘蛛が苦手なのに……妙なこともあるものだ。リュウは深く長い呼吸を繰り返し、次第にその瞳にいつもの静かな光を取り戻していった。
気がつけば、あれほど激しかった外の雨音が止んでいた。入り口からの光量が上がっている。……ここに留まる必要は、ない。
オレたち三人は無言のまま目線だけで合図し、重苦しい空気が沈んでいる洞窟を後にした。
外に出ると、九月の雨に洗われた森の匂いが、肺の奥まで清々しく満たしていく。
光の下へ戻ってきた安堵感の中、最後尾を歩いていたケンが、不意に足を止めた。気づいたオレが振り向くと、ケンはオレに近づいてきた。
「……おい」
低い、密やかな声。その声色は甘くすらあった。ケンは、今まで見たこともないような鋭く、それでいて射抜くような眼差しをオレに向けていた。それはオレを試すような……縋るような、聞いたことのない声だった。
「……もしもオレが、いつか実家との縁切りをするとして、それを「手伝え」って言ったら。……あんたはどうする?」
マスターズという巨大な鎖。こいつが背負わされている、あまりにも重い血の運命。
その問いに、オレは考えるより先に、笑って肩をすくめていた。
「手伝うに決まってんだろ。オレに出来ることがあるんなら、なんだってやってやるぜ。言っただろ? オレはお前の兄貴なんだからな!」
自分で言うのもなんだが、あまりにも即答だった。
だって、考える時間なんて必要のないコトだ。オレのリスクやデメリットなんて、微塵も勘定に入れる必要はない。
それを聞いたケンは、一瞬だけ呆然とオレを見つめ……やがて、我慢しきれないといった様子で、豪快に爆笑し始めた。
「――はははは! あーっはっは! ……はー、おかしい。ははは!」
「な、なんだよ、人が真面目に答えてるのに!」
「あんたってさあ! ……本気で他人の人生まで背負おうとしてんのか? だったらあんたは、本当の意味で『底抜けのバカ』だ! 自分のことが嫌いで、人をすぐ妬んで、情緒不安定で、そのくせ……」
ケンはそこで一度言葉を切り、どこか眩しそうな目でオレを見た。
「……そのくせ、あんたは誰よりも勇敢なんだな、本当に」
「なっ……!! はあ!? そんなこと急に言われたって……えーい!! お前はつまり、なにが言いたいんだよ!」
「ははは! つまり、言質は取ったってことだ! 忘れるなよ。あんたは『やる』って言ったんだ。……さあ、戻ろうぜ、兄貴!」
……兄貴。
初めてそう呼ばれた事実に、オレは口を半開きにして立ち尽くした。
「おう」という短い返事さえも、なんだか喉に詰まってうまく出てこない。
先を歩き出したケンの、少しだけ軽やかになった背中。
それを見て、オレは自分の顔が赤くなるのを感じながら、慌ててその後を追いかけた。
季節は巡り、十月の風が境内の木々を黄金色に染め始めた頃のことだ。イチョウって綺麗だけど、掃除が大変煩わしいんだよな……。しかしまあ……色づいてるうちぐらいは、眺めて楽しんでおくとするか。
ケンはすっかり、この不便な山寺の生活に馴染んでいた。かつての刺々しい空気はなりを潜め、朝稽古でリュウと競い合う姿にも、年相応の子供の勢いの良さが宿るようになっている。いい心がけじゃん? 口には出さないでおこう。上から目線と返されるに違いない。
そんなある日の、昼食の席でのことだ。
ケンがスープを口に運びながら、何気ない調子でさらりと言ってのけた。
「……決めたよ。オレ、マスターズ家の相続権を完全に放棄する。近いうちに書類も全部揃えるつもりだ」
「……そうか。ケンが決めたなら、それがいいんじゃないか」
リュウが当然のように頷く横で、オレは持っていた箸を落としそうになった。
……え? 相続権を放棄? え、待てよ。それってつまり、あの財団を真っ向から敵に回すってことか? 影響力は衰えてるって言っても、あいつら本気で怒ったら、陰湿な嫌がらせぐらいはしてきそうだけど?
……なんでそんな恐ろしいことを平然と……待て。待て待て待て。
脳裏に、あの雨上がりの洞窟前での会話が蘇る。なんか、「言質は取った」と言われた覚えが……ああっ!?
『……もしもオレが、いつか実家との縁切りをするとして、それを「手伝え」って言ったら。……あんたはどうする?』
『手伝うに決まってんだろ。なんだってやってやるぜ!』
つ、つまり、オレが『なんでもやる』って請け負ったから、こいつは安心して相続権をドブに捨てる決心がついたってことか!? これ、全部オレのせいか!? そんなことあるか!?
自分の「お節介」が招いた事態のスケールの大きさに、オレは今更ながら恐れおののき、冷や汗を流した。
だが、隣で晴れやかな顔をしてパスタを啜る弟を見ていると、「やめとけ」なんて言葉は口が裂けても出てこなかった。
それからの日々は、騒がしくも温かなものだった。
オレの指導(という名の、断る隙を与えないお節介)によって、ケンの料理の腕は劇的に上達した。
もっとも、アメリカ人としての意地なのか、こいつは絶対に和食だけは作ろうとしなかった。テーブルに並ぶのは、本格的なトマトソースのパスタや、香ばしいステーキ。
師匠は洋食が並ぶたびに「……また、カタカナのメシか」と渋い顔をするのだが、一口食べれば「む……悪くないな」と完食してしまう。その複雑そうな師匠の顔を見るのも、近頃のオレの密かな楽しみだった。
ある日の午後。オレはふと、蔵の奥で目にした古い文献のことを思い出した。
ほとんどは読めなかったが、そこには確かに記されていたのだ。
この流派がかつて――『暗殺拳』と呼ばれていたことを。
……でも、そんな名前、もういらないよな。
庭では、リュウとケンが互いの拳を合わせ、激しく、それでいてどこか楽しげに手合わせをしている。
かつて豪鬼さんを鬼に変えようとしたその技も、あいつらの手にかかれば、大切な家族を守り、自分を高めるための「光」に変わる。
オレたちの代で、この拳は人を殺さないものに変わる。……そんな予感がするんだ。
夕陽に照らされた二人の背中を見ていたら、なんだか急に視界が潤んできて、オレは慌てて目元を拭った。
「――おい! いつまで突っ立ってんだ、兄貴! あんたも来いよ、今のオレなら、あんたのクドい顔に一撃入れてやれるぜ!」
ケンの生意気な呼び声に、オレはしゃきっと背を正す。
「抜かしてやがれ! 一番弟子の厳しさを、その身体に刻み込んでやるよ!」
オレは庭へと駆け出した。
師匠をちらりと見てみると、縁側で、少しだけ誇らしげに目を細めている。
十月の澄んだ空気の中、オレたち三人の笑い声が、どこまでも高く秋の空へと吸い込まれていった。
まるで最終回かのような話なのですが、なんとここで終わらないのであった。