もしもダンが破門されなかったら   作:まりもまんじゅう

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第十三話 約束

 

 

 

 季節は十一月の頭を過ぎた。ともなれば、この山を取り巻く空気はもはや「涼しい」を通り越し、「寒い」の領域に踏み込み始めていた。あれ……寒くなるのが早くないか? 四季というのはこんなものなのか?

 道場の朝は早い。なぜ寒くなり始めた時期に、こんな朝方から行動しなくちゃなんねえんだ……??? 手足がすこーしばかし、かじかむ気さえするんだが。オレは理不尽を感じつつ、寝ぼけた目ををこすりながら井戸へと向かい、汲み上げたばかりの水をじっと見た。……目を覚ましたいなら、うってつけの方法がある。その、水がなみなみと入っている桶に手を差し入れる。瞬間、指先に走る鋭い痺れに、オレの意識は強制的に覚醒させられる。

「ヒィッ……! つ、つらッ……! つれえよぉぉぉ……!」

 オレの絶叫が、静まり返った境内に響き渡る。寝室のほうからなにか物音がした。たぶん、今の声で二人が目を覚ましたんだろう。オレはニワトリ扱いかよ……いや、さっきのは自主的にやったことだから……自分からニワトリになっている!! お、オレって浅はかだ……!!

 部屋に戻ってカレンダーを見れば、そこには確かに「十一月」の文字が刻まれていた。オレはふいに「二十四節気」という概念を思い出した。それぞれの名前は覚えているが、具体的にどの日かは部分的にしか知らない。日本でも暦に使っているらしいが……。カレンダーを凝視すると、十一月の七日に「立冬」と書いてあった。

「冬なのか!? 今!?」

ケンが眠そうな声で文句を言ってきた。

「なんの話で叫んでんだよ……」

「ああ……いや、今ってもう、冬になってるらしいぜ……?」

「ふーん……」

ケンは興味なさげに答えてから支度を始めた。オレはカレンダーに向き直る。そう書かれててもなんだか腑に落ちないのだが……。中国と日本じゃあ多少は緯度が違うから、日本に概念が入ってきたときにズレでも生まれたんだろうか? とはいえ、この刺すような冷気はどう考えても冬の先取りだろうし、「立冬」でも合ってはいるのか……? 寒くなるのはせめて十二月からにしてほしいんだが。季節のセンスが先鋭的すぎて、オレの身体が追いついていかない。

 

 そんなオレの泣き言をよそに、弟たちはちゃきちゃき朝の支度を終えていった。オレの立つ瀬が……ない!!

家事も三人で回すようになってから、オレが支度しなくても飯が出てくるようになり、所在ない気分である。厨房からは香ばしい匂いが漂ってきた。明らかにコメを炊いた匂いではない。ケンが慣れた手つきで作って運んでいるのは、「トーストと目玉焼き」という、この古びた山寺にはおよそ似つかわしくない洋食だった。アメリカ育ちのあいつにとって、これが最も落ち着く朝の形らしい。オレも出されたら抵抗なく食べる。朝に食べる場合、米と比べてどちらが嬉しいかと言われれば……やめよう!! こういう考えは不毛だ。

 食卓を囲むと、剛拳師匠が渋い顔をしながらも、黙々と箸を動かしていた。そう、箸だ。目の前にあるのは、こんがり焼けた食パンだ。それに箸を通している。……目玉焼きは分かるが、パンは掴んで食えばよくないか。師匠は食事中、意地でもフォークやナイフを使おうとはしない。手掴みもしない。スプーンは普通に使っている、そういえば、「匙」は日本にも昔からあったような気がする。ええいとにかく、パスタだろうが何だろうが、このおっさんは食事中は「箸」と「匙」で貫き通すタイプなのだ。どんだけ頑固だよ。

それでも食べているだけ慣れようとしているのは分かる。それがケンの、この寺に馴染もうとする努力……財団に戻らないという覚悟……を汲み取った上での、師匠なりの精一杯の歩み寄りであることは、見ていてなんとなく察しがついた。

 

 

 朝食後の稽古が始まった。庭ではリュウとケンが向かい合っていた。

 数ヶ月前までの刺々した緊張感は消え失せ、二人の間には張り詰めた、しかし澄んだ闘気が満ちている。

 互いの呼吸を読み、一歩を踏み出す。リュウの重ッ苦しい拳が空を裂き、ケンが疾風のようなスピードでそれを掻い潜る。

 オレは一番弟子として二人の動きを観察しながら、ふと眩しさに目を細めた。

リュウは巌のように揺るぎなくなり、ケンは嵐のように鋭くなった。……オレ、本当にもう教えることねえんじゃねえかな? 早晩追い抜かれてもあまり不思議ではない。

 成長した弟弟子たちへの誇らしさと、ほんの少しの寂しさが、胸の奥で複雑に混ざり合う。オレという存在が、もうこいつらの背中を見守るだけの「過去に置き去りにされるもの」になりつつあるような、そんな一抹の不安があった。

 

 だが、そんな感傷に浸る時間は与えられなかった。

「――見てばかりいないで、兄さんも相手になってくれ!」

 リュウが拳を握り直し、オレを呼ぶ。

「そうそう。今日こそあんたの全身、バキバキに極めてやるからな。支点・力点・作用点……人体工学的に逃げ場なしの腕ひしぎ、喰らわせてやるぜ?」

 ケンがにこやか〜に物騒なことを宣う。関節技の理屈を語る時のあいつは、なんだか楽しそうだ。そういやあいつ、座学中に既に数学の参考書を解いていたような……?? オレには理解しがたい感覚だが、数学に関連するような……物理や力学が絡むのが、あいつの性分に合っているんだろう。

 つーても、ケンの言葉がただの冗談であることは、今のオレには難なく察することができた。極めてきたとしても折られることはあるまい。……いや、まずかかんねえようにしないとな! 極まったら死ぬほど痛いから!!

「……へっ、抜かしてやがれ! お前らは不肖の兄貴と思っているかどうか知らないが……オレを極めるなんて、百年早いんだよ!」

 オレは立ち上がり、二人の輪に飛び込む。

 自分は求められている。ここに居てもいいのだ。

 これまで欠け落ちていた、「自分を肯定してもいい」……その感覚の破片が、二人の呼びかけによって、少しずつ、けれど確実に埋まっていくのを感じていた。

 

 

 その日の午後、買い出しのために麓の街へと降りたオレは、奇妙な噂を耳にした。

 酒場の軒先や市場の隅で、格闘家崩れのような男たちが小声で囁き合っている。

「……知ってるか? あの山には、人を殺めるためだけに磨かれた、『血塗られた暗殺拳』の使い手が潜んでいるらしいぜ」

「ああ、死体の山を築いてきた最悪の流派だって話だ……」

オレはその場で声を出しそうになり、すんでのところで踏みとどまった。はぁ!? 情報の流出!? それともあのマスターズの陰湿なジジイ連中が適当に嘘をついたら、偶然当たっちまったとか!? どっちにしたって、これはロクでもないぞ……。

 オレは背中に嫌な汗をかきながら、そそくさと寺へと戻った。

 

 夜、二人にその話を共有したが、ケンは鼻で笑い飛ばした。

「最強の流派って呼ばれるなら、むしろ好都合だろ。馬鹿なヤツらが寄ってこなくなる。強いヤツならあえて挑んでくるかもしれねえけど、それはそれで楽しみじゃねえか」

 その不敵な物言いに、オレは苦笑いするしかなかった。

 ……かつてのオレも、「殺せる力」を求めていた時期があった。親父の仇を討つために、ただ、壊し尽くすだけの力を。

 けれど、今は違う。

この流派を……世間がどう呼ぼうが関係ねえ。この拳は、オレがケンをどつき回して仲良く喧嘩するために。リュウと穏やかに、時に激しく、心身を磨き合うためにあるんだ。

 

 オレは内心で、自分なりの「格闘家が闘う意味」について講釈を垂れていた。

 リュウやケンに言われたことがある。曰く、『生まれたときから多言語に晒されて過ごしたら、全部が中途半端に身に付くはずじゃないのか? どうしてあんたはネイティブと遜色なく扱えるんだ? あんたって、実は影でよほどの自習をしているとか?』……だいたい要約すると、そんなことを言われたんだ。

オレは言われたとき、正直ピンとこなかった。だって言葉なんて、生きていたら日常的に使うもんだし。勉強しなくたって使えるようになるもんじゃないのか? 忘れることなんてあるか? 自習だなんて、大げさなことを……ってな。

リュウやケンが国語(つまり日本語)とか、それ以外の言語の勉強をしてる様子を見て、「オレがおかしいんだ」と気が付いてしまった。オレは言葉ってものを知ると、自分でも嫌味に思えるほど「血肉に出来る」人間らしい。

 

だからこそこんな突飛もないことが頭に浮かんでしまうんだ。ずっと考えていた……格闘家が闘う意味のこと。それって、言語という道具と関係があるんじゃないかってな。

言葉は便利なもんではある、ある程度は、適当に使ったって相手に簡単な意図を伝えられる。でも、言葉だけで人間の心や考えの全てを橋渡しするのは、並大抵の努力では出来ない。

 言葉に頼りすぎれば勘違いが生まれる、誤読が混乱を招いて喧嘩になることもある。お喋りを中心としたコミュニケーションが苦手って奴は、それだけで生きるのが不利になる。

 

 だが、非言語の対話ってものも、この世には存在する。洋画で見るような大げさなジェスチャー……までは行かなくても、「キャッチボールをする」とか、そういうコトでもなにか、大切な気持ちは伝えられる。

――「闘い」はきっと、「それ」のひとつの在り方なんだ。

オレたちはきっと、みんな口下手で、それでも誰かと関わりたい寂しがり屋なんだ。そのくせ、穏当な手段を選べない、血の気の多い連中でもある。そういうあべこべな性質が……オレたちに、『闘うこと』を選ばせたんだろうな。

 動きを見ればコンディションが分かり、攻防の連続の中に「俺の手番だ、お前はどうする?」という明確な意図が生じる。言葉以上に雄弁に、拳は相手の努力を、読みの成否を、魂の形を語ってくれる。

 試合をすれば、いくら会話が苦手な奴だって、相手の言いたいことが分かる。それは、「口は達者じゃないけれど、人と関わりたい」ってやつには救いになるんじゃないだろうか。

それに……ケンのやつはお喋りなほうだけど、それでも「言葉だけじゃあ何かが足りない」って感情がくすぶってんじゃねえかな。その「足りないもの」を埋めるのも、やっぱり拳を交える意味の一つなんだろう。

 

 弟弟子たちを見る。その才能を妬む気持ちがゼロになったわけじゃない。こいつらに負けるわけにはいかないとも思ってる。

 けれど、この弟どもを愛さずにはいられないのは、言葉を交わしたからだけじゃない。拳を交わし、その痛みと熱を通じて、こいつらの「本質」に触れてしまったからだ。

「……じっと黙っててどうしたんだよ、兄貴?」

 ケンの問いかけに、オレは自分の掌を見つめていたことに気づいた。

「なんでもねえよ。ちょっと、お前らにどうやって『お仕置き』してやろうか考えてただけだ」

「へぇ、返り討ちにしてやるよ」

 オレの、自分自身への講釈は、そこで幕を閉じた。

 

 

 その日の晩。師匠の唐突な思いつきで、なぜか庭でバーベキューが開催されることになった。本当になんでだろう。時期がおかしくないか? それに、急に買い出しの量が増えて運ぶのがけっこう大変になったんだぜ。

「寒いっすよ、師匠!!」

「少し季節外れではないでしょうか……」

 オレとリュウが不満を漏らす横で、ケンは呆れた顔で網や炭を見つめている。大方、こんなしょぼい規模でバーベキューを名乗るな……とでも言いたいのだろう。いい加減諦めろアメリカ人。ここは日本だっての。

炭が焼け、食材に火が入る匂いがしている。網の上の割合は肉と野菜でだいたい半々だった。

「誰のセンスなんだよ……。なんでこんなに野菜ばっかり焼いてんだ。リュウが買ったのか? ……誰が食うんだ、これ? グリルだとしても焼くのは肉と相場が決まってるだろ」

 実はリュウが選んだわけではない。野菜の山は、オレが仕入れてきたものだ。こいつに選ばせていたらバランスが偏ってしょうがない。

「肉だけ食ってりゃいいなんて、意識が低すぎるだろ。お前、先月ボソッと『ここの寺、菜食主義じゃなくてよかった』って言ってただろ? 自分から食わないなら、オレが食わせてやるよ。その減らず口にねじ込んでやる。……お前の気が緩んでる発言だって、一字一句違わず覚えてるからな」

「……チッ、ただの独り言だろ、そんなもん記憶するな。細かいことまでいちいち覚えんの、改めたほうがいいぜ? バカ兄貴」

 ケンは嫌そうな顔をしながらも、渋々焼けた野菜を皿に運びだした。さつまいもにかぼちゃに……おい、甘いもんばっかりだな。

 全員、厚手の綿入れを羽織って、火を囲んでいる。ちらりと「着衣着火」という文字が横切ったが、見なかったことにした。これ、一応バーベキューセットでやってんだし、そんなことにはならんだろう。たぶん。

そうこう考えていると、リュウが黙々と具材を焼きまくっているのに気がついた。何を弟にやらせてんだ。慌ててオレが「奉行」を代わろうとすると、リュウが「仕方がないな」と笑っていた。

 

 炎が爆ぜる音だけが響く中、師匠が静かにオレたちの動きを手で静止した。素直に従うと、師匠は語り出した。

「わしが師範を継いだ時、この拳を殺しの道具にせぬと決めた。だが、それを弟子に強いることはすまいと思っていた。……お前たちが自ら、その道を選んだこと。わしは何より嬉しく思う」

 場が、しんとした静寂に包まれる。このために、季節外れの会を開いたってわけか……。

 こういう湿っぽいのは苦手だ。オレはわざと空気を読めないフリをして割り込んだ。

「師匠、湿っぽいっすよ! ほら、ケンがストリートで稼いできたっていう、この高い肉食いましょう! 冷めたら台無しっすよ!」

「……はは、そうだな」

 師匠が笑い、場が和む。ケンが横から「言っておくけど、それマジで自腹だからな!?」と強調するのを、オレたちは笑いながら聞き流した。

 

 

 就寝前。オレとケンは、道場の屋根の上に並んで座っていた。なにごとかは知らないが、話があるんだとさ。

「こんなとこに呼びつけやがって。この寒いのに、こんなとこで何を話す気だよ」

 オレが軽口を叩くと、ケンはいつになく穏やかな表情で夜空を見上げていた。

「相続権、本当に捨てちまったぜ。……あんた、本当に、一生オレの面倒を見るんだよな?」

 晴れ晴れとしていた。後悔なんて、一片も感じられなかった。

その問いに、オレは一瞬の猶予も置かずに答えた。

「ああ、約束だ。お前が一人で立てるようになるまで。……いや、立った後だろうと、お前が『邪魔だ、うっとうしい、出ていけバカ兄貴』って言うまで、ずっと一番弟子として。お前の兄貴として、やりたいことに付き合ってやるよ」

 ケンの横顔に、毒のない、混じり気のない笑顔が浮かんだ。

「……本気なんだな? なら、死ぬまで離してやんねえよ」

 その言葉は、冷たい十一月の夜風を、少しだけ温かく変えたような気がした。

晩秋の……冬が差し掛かった夜空には、ある四辺形が輝いていた。その直ぐ側に、ひときわ目立つ……南の一つ星があった。

その一つ星は、オレたちの約束を見守るように、道を照らすように、静かにあかあかと瞬いていた……。





次回が本編の最終回となります!
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