十二月の中旬のことだ。ここまで来ると、寒い……という言葉ではとても言い尽くせない。気温に対して体感温度がおかしい気しかしない。湿度ってやつは寒さにもまとわりついて来るらしい。ふざけるなよ……!? 寺を取り巻く空気は、もはや「冷気」という言葉では生ぬるいほどの鋭利な刃物へと変貌していた。
朝、布団から出るのには決死の覚悟が必要だ、意を決して掛け布団をはがすと、空気はオレの全身を刺してくる。身体が震えるというか、拒否反応を示していた。う、動きたくないぜ……。
井戸から汲んできた水を、洗面所でじっっと見てみる。一応凍ってはいないが、そんなことがなんの気休めになるのだろうか。手を差し入れる。もはや痛い。苦行だ。顔を洗う水は皮膚を削り取るような……剣山ってあるじゃん。あれで顔でも擦ってんのかよってぐらいの苦しみを伴った。オレはもはや、寒いッ!! などと叫ぶ元気すら無くしていた。ただ、虚ろな顔で「寒い、寒い」と念仏のように唱えるだけの、冬の亡霊と化していたのである。うう……寒いと気分までしょぼくれてくる……。
そんなある日の朝食時だった。食事当番はオレ。歯をガチガチ言わせながらも、手は動いていた。起きてしばらくすれば、まあ……ギリ動ける程度にはなるものだ。これを「慣れ」とは言わねえだろうけど。
なんでオレはこの状況で土鍋で飯を炊かにゃならんのだ……? 電気は通ってんだから炊飯器じゃ駄目なのか……?? そんなことを考えている最中、厨房に誰かがやってきた。長髪で……見慣れてしまった無駄に恰好いい面構えの……でも、決定的に「あるところ」が違っていた。現れたケンの姿を見て、オレは思わず、持っていた菜箸を落としそうになった。
「……は? ケン、お前、それ……その髪……」
「ん? ああ、これか」
ケンは事もなげに自分の髪を一束つまんでオレに見せびらかした。トレードマークだったはずの、鮮やかな金髪が、跡形もなく消えていた。
代わりにそこにあるのは、夜の陰をそのまま溶かし込んだような、つややかな漆黒だった。昨日寝る前までは金髪だったから……オレとリュウが寝てる最中、真夜中にやったってのか!? 一応、離れた部屋にも電球はあるが、寝室と比べたら相当光量は弱いやつだ。そんなロクに明かりもない寺で、手鏡でも用意して、それを確認しながら自力で染めたというのか。ムラ一つないその完璧な仕上がりに、オレはこいつの「器用さ」という名の才能を改めて突きつけられた気がした。
「オレって元々黒髪だからな、あんたが気がついてたとおりに。……で? この装い新たなオレに対する感想はどうよ?」
「……似合ってんじゃねえか。ほんと、腹が立つほど色男だぜ、お前は」
オレが真顔でそう言うと、ケンは一瞬きょとんとした顔を見せ、それから腹を抱えて笑い出した。
「ははは! あんたの妬み方って、本当に真っ直ぐすぎるんだよな! それ、普通に取るなら最高の褒め言葉だぜ? いっそ真正面から『かっこいい』って言ってくれたっていいのにさ!」
「うるせえ! そんな恥ずかしいマネができるか!」
オレは顔が熱くなるのを感じてそっぽを向いた。だが、内心では分かっていた。
ケンはあの金髪を捨てた、自分のものではない色に染める必要がなくなったんだ。自分を偽るのも、しがらみに囚われるのもやめたってことだ。
自らの過去を――「マスターズ」という巨大な名声と呪縛を、ケンは自分の手で決定的に断ち切ったのだ。
あいつはこの山で、ただの「ケン」として生きるための戦化粧を施したのだ……そういう捉え方で、そう間違っちゃあいないだろう。
午後の修行が一段落した頃、ケンが唐突に「麓まで行かねえ?」と言い出した。なんだ? とオレとリュウが顔を見合わせていると、ケンはどこから持ってきたのか、あるチラシを見せてきた。なになに、新装、新店舗開店……?
なんでも、街に新しくレンタルサイクル屋ができたらしい。こんなものを見せてきたということは、つまり。
ケンが、確認を取ってきた。
「お前ら、一応自転車には乗れるよな?」
「……まあ、うん」
「乗れるけどよ」
リュウとオレの返事を聞くや否や、ケンは楽しげに笑い、オレたちを連れ出した。有無を言わさぬヤツだ。振り回されて悪い気はしねえが。
街に着き、借り出した三台の自転車。チェーンやスポークを見てみる。よし、錆びてはいない。そんなもん貸すような店なら即店じまいになるだろうから、当たり前のことではある。
ケンはペダルを漕ぎ出すなり、劇的な加速で冬の街を爆走し始めた。ハンドル持ったら性格変わるって、自動車の話じゃねえのか……!? いや、性格は変わってないかも。あいつは普段からあんなんな気もするな。どっちにしろ、アレについていくのは危険だ。
「危ねえっての! スピード狂かよ!」
オレが止めてもケンは気にも留めずにすいすいと先へと消えていった……。オレは振り返り、リュウと取り決めた。
「オレたちは……まあ、普通の速度で行こうぜ、リュウ」
「ああ、そうだな、兄さん」
十二月の街は、もうすぐ訪れるクリスマスの気配に浮き足立っていた。
店先のデコレーションや、点灯を待つイルミネーションの電球。フツーの家の庭先まで、気合の入った電飾をしてるとこもあった。街ごと浮かれてるって感じだ。悪くない。それらを眺めながらゆっくりとペダルを回していると、先に行き過ぎたケンが、呆れた顔でこっちに引き返してきた。
「お前らさあ、遅すぎだって!」
そうやって不満げに言ってくるケンの顔に……ちょうど、雲の間から現れた、冬の陽光が差し込んだ。
正面から光を浴びたケンの瞳をまじまじと見て、オレは息を呑んだ。
「……お前、目が……」
「何だよ、また髪の話か?」
「いや、目だ。お前の目の色って、薄茶色じゃなかったか?」
光を吸い込んだ瞳の色は、単なる茶色ではなかった。
それは「ハシバミ色」とでも言うのか……ヘーゼルって言い換えたほうがいいのか……わからねえけど、そういう色だった。
琥珀色をベースに、光の加減によって深緑の火花がいくつも散るような、変幻自在の色。理知的で、けれどどこか情熱をにじませる、掴みどころのないケンの性質そのものを体現したような、きれいな色だった。
オレの視線が釘付けになってるのを面白がって、ケンがからかってきた。
「……何見てんだよ。見惚れてんのか?」
「んなわけあるか! ただ、コロコロ色が変わる面倒くさい目だと思ってな!」
言い返しながら、オレは二人にペースを合わせてゆっくりと進む。ケンは文句を言わずに遅めの輪行についてきた。ソレができるなら最初からそうしろ……と言おうとして、気がついた。こいつって、けっこう気分屋なんじゃん。
瞳の色が光の加減で変わるように、気性の表れ方もコロコロと変わる……面倒だけど、つるんでいて面白いのも確かだ。
ケンの性格のあれこれだけじゃなく、オレたちの未来もまた、見る角度によって形を変えていくのかもしれない。けれど、この並んで走る感覚だけは、変わらないものだと信じたかった。
一月の後半になり、もう言うべきことはなかった。山は深い深い雪に閉ざされた。こんなに降るもんなんだ、雪って。こんなに積もるんだ、雪って。降った初日は多少の感動があったが、今はそれどころではない。命の危険を感じている。
オレはもはや、寒さに対して叫ぶどころか、なにか言う気すら失っていた。だって文句を付けたところで、気温は上がらねえわけだし……。ただ心を無にし、オレは庭に向かう。寒いというか、なんというか、ただひたすらつらい。オレの頭やら肩やらにも容赦なく雪は降り積もるわけで、この姿は雪原の一部と化していた。
リュウもケンも、厚手の綿入れを羽織り、雪だるまのような格好で作業に励むことにしたようだ。作業ねえ……はあ……やりたかねえ……。
誰に言われるでもなく、オレたちは庭に出て、屋根の雪下ろしを始めた。命綱はない。本当はあったほうがいいに決まっているが、面倒さが勝ってしまった。リュウすら付けていないのだから、あいつも内心ではこの寒さに参っているのではなかろうか。「大寒」たあ、よく言ったもんだぜ……。
通行人など一人もいない山奥だ。けれど、放置すれば落雪の危険がある。オレは雪に埋もれて死ぬのはごめんだ。こいつらが埋まっても困る。オレたちは巨大なつららを叩き落とし、重い雪を地上へ放り投げる。雪が溜まったらテキトーな場所まで捨てに行って、全身の筋肉と関節がフル稼働している……なんだこの、重労働はよ〜〜ッ!!!
壮絶な作業が終わった時、沈黙を破ったのはケンだった。
「……食らえっ!」
ケンの掛け声とともに投げられた雪玉が、オレの肩に当たって砕けた。
「な、何を……雪合戦か!? おい、小石は入れるなよ! つららも!! 絶対に入れるなよ!?」
「そんなもん入れるわけねえだろ! 少しは弟を信用しろ!」
ケンの笑い声と共に、次々と雪玉が飛んでくる。リュウもまた、いつになく楽しげな表情で参戦してきた。オレに向かって、軽く雪玉を投げてくる。
飛んできた雪玉を手の平で受け止めた。
それは冷たかったけれど、驚くほど柔らかく、優しかった。
石なんて入っていない。硬く握られてすらいない。
ただの、柔らかな雪の塊。誰かと遊びたいって気持ちしか詰まってない、これもまた、「会話」のかたちの一つだった。
……ああ。他人は、オレの敵じゃないんだ。悪意なんかなしに、通じ合えることがあるんだ。
オレの心の奥底にある、消えない傷。
父親に見捨てられた記憶、孤独だった日々。それは……その傷は……完全に治るってことはないのかもしれない。オレは一生、自分の価値について悩み続けるのかもしれない。でも。こいつらの隣にいられるなら、その傷を抱えたままでも、立っていられる。進んでいける。迷わずに生きていけるだろう。それは……幸せなことだ。この気づきは、自分自身への「許し」だった。
ふいに、寺のほうを見た。剛拳師匠が縁側で、湯呑みを手にオレたちの雪合戦を見守っている。
その時、窓から差し込んだ冬の陽射しが、書棚にある古い文献を照らしたのが、遠くに見えた。
そこの書棚で見かけた本……それにはかつて、「暗殺拳」と記されていたはずだ。
けれど、強烈な光に塗り潰されたその書棚は、もはや輪郭さえもぼやけて見えて、はっきりと確認することはできない。
過去の呪縛が、静かに光へと還っていく。
オレが感傷に浸っていると、二つの雪玉が後頭部に飛んできた。リュウとケンが結託したらしい。
「てめえら、これじゃ、二対一じゃねえか!! そこまでやるなら容赦はしねえぞ!! 行くぞ、野郎ども!」
オレの威勢のいい声が、冬の空へと響き渡っていった。
三月になると、気温はだ〜いぶマシになった。ここに来たばかりの頃は寒さに震えて涙目になっていた気がする。……いや、流石に去年でも三月には慣れていたか。まあいいや、いちいち思い出すようなもんでもない。
寺にはウグイスの声が響き、空気には微かに土の匂いが混じり始めた。春が来そうだ、というかもう春なのか? 三月、と言われると、ある問題が頭にちらついてくる。
「……なあ、ケン。オレ、来月から中学生になるんじゃね? このままでいいのか? 具体的に言うとさ、義務教育ってあるじゃねえか」
縁側で、オレとケンはとりとめもない将来の話をしていた。ケンは興味があるんだかないんだかよくわからん顔でオレの話を聞いていた。
「オレ、大学に行ってみたいんだよ。楽しそうだし。キャンパスライフっての、一回ぐらいはやってみてえんだよな」
オレは軽い動機を装ってそう言った。
だが、内心では決めていたのだ。ケンの「やりたいこと」を、先月うっかり聞いてしまったんだ。
――何か、「人が喜びそうなもの」を作りたいらしい。内容を聞くと、とても採算が合うとは思えなかった。こいつはもはや金儲けをする気がない。趣味で生きる腹づもりをしている。やれやれ、そんな調子じゃ飢えちまうぞ。こいつの利益度外視の夢を叶えるためには、後援者がどうしても必要なようだ。
経済とか商学とか、そういう泥臭いことを学んでおかなきゃな。ケンを一生手伝うって『言質』、取られちまったしよ。ああ……数式のことを考えると頭痛がする。リスク評価関数ってなに……? 言いたいことが分かんねえんだが……? しかし、どんなに嫌いな学問でも、今回は逃げ回れない。
オレのなんでもかんでもそれなりに扱える小器用さは、こいつの「独創性」を支えるためにある。そう思えることが、今のオレの誇りだった。
ケンはオレの決意を知ってんのかどうかはわからないが、実にのんきな調子で言った。
「あんたなら、今更学校に通わなくてもさあ……私立の文系? そういう大学ならどこでも受かるだろ」
「私立ってよお……そこへ通うカネがどこから出てくんだよ」
「あんたならファイトマネーでどーにでもできんだろ〜?」
そうやってだらだらと話しているところへ、リュウが一通の手紙を持って駆け上がってきた。麓の郵便受けに、何かしら入っていたようだ。随分と慌てている。
「兄さん、ケン! 手紙だ。……オレの、父さんからだ」
「豪鬼さんから!?」
オレは前のめりになった。手紙に添えられた写真には、世界各地の異国情緒溢れる風景と、相変わらず鋭い眼光の豪鬼さんが写っていた。画角的には自撮りではなく、その辺で出会った人に撮ってもらっているらしい。あんなんでも社交的なのかよ……。文面には、リュウの修行の進退を気遣う言葉が綴られている。
「こいつ、息子を心配してるくせに、自分は世界を放浪してるって……どんな情緒してんだよ」
ケンの突っ込みに、リュウは誤魔化すように笑った。ケンには、「殺意の波動」について、詳しく説明するとどういうもんなのか、そこまでは話してないからな……。いちいち言うことでもないし……。
リュウは部屋の箪笥から便箋を取り出し、文机に向かった。
「返事にはこう書こうと思う。『オレにも弟弟子ができて、毎日が賑やかになった』って」
「……ふん。書かなくていいだろ、そんなこと」
ケンは照れくさそうに顔を背けたが、その耳元が赤くなっているのをオレは見逃さなかった。
「麓に降りて、近くのポストに出さないとな……今から投函しに行くか? オレも着いてくぜ?」
オレが誘うと、ケンが「オレも行く!」と乗ってきた。リュウは「いいよ、三人で行こう」と頷いた。
本当は、投函ついでに麓の街で遊びたいだけなのを、リュウは全て分かった上で微笑んでいる。なんてよくできたやつなんだろう。リュウが居なくなったら、数日も経たぬうちに、この寺に修復不能な傷ができると思う。居なくならないでくれ。切実に。
オレとケンがハイタッチを交わし、オレたちは連れ立って山門へと向かう。
通る道すがら、朱雀城を見る。遠くにある、桜の木を見つめた。
まだ花は咲いていない。けれど、この間その近くに寄る機会があったときには……枝の先にある蕾が膨らんでいた。一週間もしたら、いくつかの花は開くだろう。春の予感がした。そうだ……もうすぐ一年になるんだ。オレに弟が出来てから、もう一年になる……。
オレたちは山門を抜け、光が溢れる麓の街へと駆け出した。
不肖の兄貴……つまるところ、オレを先頭にして道を下りていく。オレたちならば、どこへだって行けるし、なんだってやれるだろう。
暗殺拳の継承者……そんな大層な肩書きはもう似合わない、鬼になる宿命に縛られた、そんな可哀想な子供じゃない。
ただの、どこにでもいる子供なんだぜ、オレたちはな。
傷を抱えたままでも、人は生きていけるんだぜ。これはそういうお話でした。
本編はここで終幕となりますが、番外編もある予定です。更新は相当な気まぐれとなります。