そのいち 氷解
季節が五月の中旬ともなれば、麓の街は初夏の眩しい光に包まれていた。
午後三時。大通りから一本入った路地にある喫茶店『すずらん』には、穏やかな時間が流れていた。古びた煉瓦造りの店内に客の姿は疎らで、幸運にも静寂が保たれている。
その店の最も目立たない角の席に、場違いなほど屈強な男たちが二人、テーブルを挟んで向かい合っていた。
剛拳は、着慣れた藍色の着物の袖を正し、静かに湯気の立つカップを口に運んだ。ブラックコーヒーの苦味が、喉の奥を心地よく刺激する。
かつてあの寺の庭で交わした、「よし、喫茶で済ませよう。今度からはそうするぞ」という、あのいい加減な口約束。拳を交わし、命を削り合う日々の果てに放たれた冗談が、今こうして現実のものとなっていることに、剛拳は不思議な感慨を覚えていた。
対面に座る豪鬼もまた、漆黒の和装を纏っている。足元はいつもの下駄ではなく、兄への最低限の礼儀か、雪駄を履いていた。
だが、その厳つい手元にあるのは、鮮やかな緑色のクリームソーダだった。豪鬼は不機嫌そうな顔でストローを弄り、上に乗った真っ赤なチェリーを太い指先で摘まみ上げる。
「兄さん……俺と二人の時くらい、その師範じみた口調はやめてくれないか。昔のように戻せないのか?」
豪鬼が低く唸るように言った。
剛拳はカップを置き、呆れたように弟を見た。
「……ふん。それもそうだな、豪鬼。お前の前で格好をつけても始まらんか」
剛拳は背もたれに体を預け、息を吐いた。師範としての威厳を一枚脱ぎ捨て、弟の前だけで見せる、より厳格で情熱を孕んだ「兄」の顔に戻る。
昔話を始めたのは、剛拳からだった。
「あの破門……お前は、俺との殺し合いを避けるために、あえて悪役を演じて山を降りたのだな。当時は気づかず、すまなかった」
豪鬼は、クリームソーダのアイスクリームをスプーンで掬い、無造作に口へ放り込んだ。
「……勘違いするな。それはついでだ。当時は『俺ならやれる』と思い上がっていた、ただのワルガキだっただけのことよ」
豪鬼は嘯いたが、その視線はどこか遠くを見ていた。本心を微妙にはぐらかす癖は、昔から変わらない。
「結局、なぜお前は『人』として戻ってこれたのだ? 殺意の波動……あの力に、一度は指をかけたはずだろう」
剛拳の問いに、豪鬼はスプーンを置いた。
かつて洞窟の闇の中で、自分の中の「愛情」が磨り潰されていく恐怖を、弟は感じていたのではないか……? 剛拳はそう予測していた。豪鬼はそれを、苦い薬を飲み込むような顔で語り出した。
「……それは、あんたたちのことだって、気にしていなかったわけじゃないが……それよりも! 気に食わなかったのだ。あの力に触れた時、分かってしまった。あれはただの『近道』に過ぎないと」
豪鬼は、話題を変えるように論点をずらした。
「宇宙の天辺だか真理だかにあるという、あらゆる力の源流。そこに辿り着く手段はいくらでもある。気功、オーラ、プラーナ、チャクラ……殺意の波動もその一種でしかない」
豪鬼は、追加で注文した抹茶のシフォンケーキを、厳つい手つきで切り分けながら続けた。
「ただ違うのが、殺意の波動はその道程をすっ飛ばすということだ。
宇宙の真理や力の源を求める行為を、登山に例えよう。他の手段は、どこから登り始めるかが違うだけで、全て地道な山登りだ。時間こそ掛かるが、あらゆる道が天辺まで繋がっている。
だが殺意の波動は違う。あれは、山にトンネルを掘り、頂上の真下まで進んだ後、一気に孔(あな)をあけ、そこからエレベーターで昇るようなものだ。最短ルートで頂上への道をすっ飛ばしている。……これでは登山とは呼べないだろう?」
豪鬼は兄を射抜くような眼差しで見つめた。
「結局俺は、あんたの思うようないい子ではなかった。愛情がどうだとかは後付けの理由だよ……俺は俺が、自分自身が身につけている力量以上のものを『盗んでいる』感覚に一番耐えられなかった。だってそんなの、ただの『ズル』じゃないか。反則をしてまで得られる力は虚しすぎる。だから捨てただけのことだ」
剛拳は、冷めかけたブラックコーヒーを啜った。
武道家としてのプライドが許さなかった。それは間違いなく豪鬼の本心だろう。だが、彼が否定した「愛情」のことだって、間違いなく真実のはずだ。
「お前の言いたいことは分かった、戻ってきた理由も……」
剛拳はカップを置き、辛そうに言葉を継いだ。
「だが、これだけは知っておいてほしい。お前が破門された後、俺は轟鉄総帥に言われたのだ。『あの男を、豪鬼を二度と家族だとは思うな』『次に会った時は殺してやれ』『お前にはもう肉親はいない! お前の弟はもう死んだのだ!』と……。そんなことを言われた時、俺がどう思ったのか。……いくらかは考えてくれないか」
豪鬼の手が止まった。シフォンケーキの欠片が皿に落ちる。
豪鬼は兄の言葉にショックを受けたようで、同時に、これまで目を背け続けていた兄の深い愛情を突きつけられたようだった。何か言おうとして口を開き、しかし謝罪の言葉すら見つからない、もどかしそうな感情を滲ませ……ただ唇を噛んだ。
「……俺にとっても、あんたは……唯一の肉親だった。片割れと呼べる存在だった」
剛拳は、静かに真実を追求した。
「本当は、順序が逆なんだろう? 『反則』をしたくないのも本意なのだろうが……それは後から思ったことなんじゃないか?」
豪鬼は反論しなかった。剛拳は推測を語る。
「まず、お前が破門されなかったら……あのまま、あそこに居たら、俺たちは殺し合いになっていただろうし、運良く両方生き残っても片方は再起不能になっていただろう。それをお前は拒絶した。だから殺意の波動を求めた。一人で生きるために。流派として自立するために。……さやかとの約束を、結婚するという誓いを蹴ってまで、お前はここを出ていったんだ」
剛拳は、息をついた。
「幸いというかなんと言うべきか、お前は想像以上に『人間』だった。人との関わりを捨てることが出来なかったのだな」
豪鬼は、じっと兄の言葉を聞いていたが、やがてぽつりと再び話し出した。
「あの時……あの薄暗い洞窟の中で『人間性』が食われていく中、家族がどうでもよくなっていく感覚があった。家族のことを、自分の糧だとしか思えなくなる感覚に恐怖した」
豪鬼の声は、懺悔のように低く沈んでいた。
「親父のように育ててくれた轟鉄総帥を、自分が強くなるための贄だと思った。人生を誓い合った恋人を……惰弱になるだけだと切り捨てようとした。それよりもなによりも、物心ついた時から必死に支え合った肉親を、血を分けた自分の兄を、……あんたのことを、『どうでもいい』と考える自分が怖かった」
豪鬼は顔を上げた。
「俺は鬼に変わりかけていた自分の顔が水面に映っているのを見て……『今からでも道を選び直したい』と、そう強く願った。俺は修行をやり直し始めた。殺意の波動に抗い続けた。山を出て、身なりを最低限整え、人里に降りた。人の優しさに触れるたびに、人間との関わり合いを捨てるのはますます嫌になった」
豪鬼はここで、少し申し訳なさそうに言った。
「さやかと密かに連絡を取り、駆け落ちしたのも……ま、そういうことだ」
連絡手段は、なんと狼煙だった。剛拳は、あの日に、派手な赤い煙が山の向こうから上がったことを思い出し、嘆息した。他に手段がなかったとはいえ、殺意の波動を知る前に、弟とさやかが冗談半分で決めていた合図だというが……そんなものを本当に使うことになるとは。
その狼煙と駆け落ちによって、轟鉄と剛拳は、豪鬼が人の道に戻ってきたことを悟ったのだ。もっとも、轟鉄は「けじめ」として破門を解くことはなかったが。
「総帥はこう言っていたぞ」
剛拳は、師が飛昇するための……仙に至るための修行を遂行するため、旅立って行った日のことを思い出した。その日、轟鉄が深い後悔を含めながらつぶやいていた、ある言葉を伝えた。
「『わしはわしで間違っていた、あいつには……自分というものが確かにあったのだ。とっくに大人になっていた、守るべき子供から……自立した男になっていたとは』とな」
それを聞いた豪鬼は、やっと笑った。
「あの人にも身内びいきがあるんだな! 総帥はひとつも間違えていない。間違っていたのは俺の方だ。……それだけは確かだ」
話を一通り終えて、豪鬼は穏やかに笑って窓の外を見た。麓の子供たちが、五月の陽光の下で仲良く遊んでいる。
「あいつら……兄さんの弟子たちもここで奢ってやるべきだったか?」
「やめておけ。あの年頃の子供なら、子供同士で遊びたいものだ」
「それもそうだろうな」
豪鬼が笑う。その姿を見て、剛拳は言った。
「お前や、俺の三人の弟子の姿を見て、気がついたことがある」
剛拳は、自らの見つけた答えを語り出した。豪鬼はその言葉に、深く、深く耳を傾けていた。
「人はいつだって道を選べるものだ。選べないと思っているのは、そう思い込んでいるだけのこと。人はなんにだってなれるし、どこへだって行ける。それが俺の見つけた答えだ」
剛拳は言葉を継ぐ。
「そして、道を選べるのは……人だけなんだ。鬼になれば、そんなものは叶わなかっただろう」
豪鬼はなにも言わなかったが、それは肯定しているのと同じだった。剛拳の次の言葉を、じっと待っている。
「俺の弟子たちのような、深く傷ついた人間を見ると分かってしまった……あれだけの心の傷は、一生かかっても完全に治ることはない。あいつらは傷を抱えたままでも、互いを補い合うことができるだろうがな」
剛拳は、まっすぐに弟を見た。
「そういう傷と同じことで、人の道を一度外れてしまったら、もう心が人に戻ることもない。お前は逆張りするところがあるから、もしかしたら鬼になった後でも、ほんの少しだけ理性が残っていたなら、『この道は力への近道すぎてつまらないものだ』と感じて一から山を登りなおしたかもしれない。でもそれは、心が人に戻っているわけじゃない。鬼が人と同じような道を登っているだけだ。人のふりをしているだけなんだ」
剛拳の声に、熱がこもる。
「お前が一度でも人であることを諦めたとしたら、その時点で、俺が愛した……俺の弟は、その時点で死んでいたんだ。だから、お前に感じているのは恨みつらみなんかじゃない。生きることを選んでくれてよかった。俺はお前を誇りに思っている。お前が……俺の弟であることを選んだ、人として生きたいと思った、その選択に心から感謝しているんだ」
豪鬼は聞き終えると、眉間を押さえた。剛拳は感謝と愛情を……『お前が人でいてくれてよかった』ということを、これだけ強く、切実に、語ったのだ。豪鬼は言葉を反芻するように、何度か首を動かし……それから、深く目を伏せた。
剛拳には分かった。この不器用な弟は今、泣いているのだと。
「俺に……そんな風に言われる資格はない」
豪鬼が、絞り出すように懺悔した。
「だいたい、自立したかっただけなら着の身着のままで出ていけばよかったんだ。俺は欲深だったんだ。暗殺拳の秘奥をいくつか持ち帰れば、それなりの流派が新設出来ると思った。殺意の波動なんか、字面がいかついだけで、俺でも御せるものだと舐めていた。そういう驕りのせいで全てを失いかけただけの、俺という男は……真に愚かな奴なんだ」
「……ふん。昔から変わらんな、お前は」
剛拳は、愛おしそうに目を細めた。
冗談ばかり言うし、格好を付けたがり、自信過剰で、態度は適当。平気で偉そうなことを言って悪びれない。……それなのに、いつでも他人を慮り、他人の手を煩わせようとせず、自分だけで解決しようとする。
このどうしようもなく不器用な男こそが、俺の弟なのだ。
剛拳はふと思いつき、席を立ちながら告げた。
「今日は……寺まで上がってきてもいい。お前の息子に挨拶してこい。ついでにお前の『甥弟子』も増えたことだし、なにか話したらどうだ? 気は合うと思うぞ」
それは、言外に……剛拳の代での「破門解除」を意味する宣言だった。
豪鬼はきょとんとしてから、はにかむような笑顔を見せた。
「……それじゃ、お言葉に甘えることにするよ。……本当に、ありがとうな、兄さん」
喫茶店を出ると、五月の強い陽光が容赦なく降り注いだ。豪鬼は頭上を見やると、光に目を細め、静かに笑った。
先ほどまで冷たいコーヒーや甘いクリームソーダで冷やされていた胃の腑が、外気の熱によってじわりと温められていく。
「腹が膨れると、足取りが重くなるものだな」
豪鬼が雪駄の音を小さく響かせながら、隣でぼやいた。冗談なのかどうなのか判別し難く、剛拳は弟の顔を窺った。軽く口笛でも吹き出しそうな面構えをしていた。冗談で言ったらしかった。剛拳はあきれた。
「甘いものばかり頼んでおいて、その平気そうな様子とは……。お前、普段もあんな食生活なのか? あれだけ食ってよく体型を維持できているな」
「ふふん、それはまあ、修行の賜物というヤツよ。……それに、兄さんだって団子となれば目がなかろう。今度は和風の茶屋にでも連れて行ってやろうか? なんなら俺の奢りでもいいぞ」
「……うるさい。弟に施されるほど落ちぶれてはおらんわ」
剛拳は苦笑いして、山門へと続く緩やかな坂道を歩き出した。
街の喧騒が背後に遠ざかり、代わりに森のざわめきと、初夏の虫たちの羽音が支配する領域へと足を踏み入れる。道中、豪鬼は珍しく多弁だった。いや、多弁というよりは、これから会う「息子」や、見ぬ「甥弟子」に対して、どう振る舞うべきかを計りかねているようだった。
「……ケン、と言ったか。元御曹司だと聞いたが、本当にあの寺で大人しくしているのか? とてもではないが……文明的な生活とは言えないだろう、ここの暮らしは。それに、ここに来たときは荒れていたなどと聞き及んでいるぞ?」
「ああ。最初は刺々しかったが、今ではリュウと競い合って、泥だらけになって稽古に励んでいるよ。ダンのやつとはなにかと理由を付けて取っ組み合いをしていて……まあ、あれぐらいならじゃれ合いの範疇だ。それにな、あいつはここに来たときは金髪に染めていた、いかにも不良の坊主だったが、性格が丸くなって思うところがあったか、自ら黒く染め上げてな。なかなか骨のある奴だ」
「ほう……」
豪鬼が興味深げに目を細めた。
「己を変えて……決心したのだな。そこまで決めて何かを掴もうとする執念か。それは格闘家として……いや、人として悪くないな。兄さんが気に入るわけだ」
やがて、山門が見えてきた。
そこには、三カ月前……その辺りの季節にはなかったはずの、生命の瑞々しさが溢れていた。新緑が生い茂り、山は夏へと向かっている。
門を潜ると、庭の奥から気合の入った声が聞こえてくる。
「――そこだ、ケン! 腰が高いぜ!」
ダンの、相変わらず騒々しくも、どこか安心させる声。
「分かってるって! あんたこそ、隙だらけだぜ、兄貴!」
ケンの、弾けるような鋭い声。
それに応えるリュウの、静かで重厚な息吹。
豪鬼はその場に立ち止まり、庭で汗を流す三人の姿をじっと見つめた。
かつて自身が呪縛に囚われていた時には決して見えなかった、あるいは見ようとしなかった「拳」の在り方が、そこにはあった。
「……賑やかだな。まるで祭りの日の前日のようだ」
豪鬼がぽつりと零した言葉に、剛拳は深く頷いた。
「ああ。毎日がこれだ。騒がしくて、面倒で、それでいて――これ以上なく、愛おしい日常だよ」
稽古に夢中になっていた三人が、ようやく山門の異変に気づいた。
リュウが一番に顔を上げ、その瞳を驚きと、それ以上の喜びで輝かせた。
「……父さん!」
リュウが駆け寄ってくる。その後ろから、見慣れない人物が居るな? と不思議そうな顔をしたケンと、一度(手加減まみれだが)豪鬼と手合わせをした際の畏怖が残っているのか、「えぇっ、豪鬼さん!? な、なんなんですか、急に来るなんて……!!」と大げさに驚くダンが続いてやって来た。
豪鬼は、駆け寄る息子を真正面から受け止めるべく、その逞しい両腕を広げた。
その顔には、先ほど喫茶店で見せた「弟」の顔でも、かつて恐れられた「鬼」の顔でもない、一人の「父親」としての不器用な情愛が滲んでいた。
剛拳は、その光景を少し離れた場所から、目を細めて見守った。
空から山林へと射し込む光、子供たちの笑い声、そして、隣に戻ってきた弟の体温。
暗殺拳と呼ばれた流派の血の歴史は、今、この五月の光の中で、完全に新しい流れへと書き換えられたのだ。
「……さて」
剛拳は、懐から取り出した手ぬぐいで、額の汗を拭った。
「今日は特別だ。豪鬼、お前の得意な『あの料理』、弟子たちに振る舞ってやったらどうだ? 味付けが甘すぎると文句を言われるかもしれんがな。まったく、どうやって思いついたか知らないが……『甘いパスタ』など、相当なゲテモノだと言われるだろうがな」
「……ふん。今度は調度、ここには奇数人が居るじゃないか。投票でもしてみるか? 多数決であんたの舌の負けが決まるかも知れんぞ?」
その『得意料理』の内容を聞き、ダンは「甘っ……え? その料理って、冗談……で言ってるんですよね?」と恐る恐る聞いてきた。
豪鬼は、にかっと笑ってから、「これは冗談ではない。安心しろ、少なくとも俺は美味いと思ってるぞ?」と、全く安心できないことを口にした。
ダンが「ええ……??」と戸惑う中、豪鬼はその背を軽く叩き、「はっはっは! そんなに心配することはない。今日のところは……この師叔に任せておけ!」と高らかに笑った。
それは、朱雀城の空に吸い込まれていくような、一点の曇りもない笑い声だった。
これがエピローグ、裏主人公による裏最終回、といったところです。
これ以降の番外編は相当な気まぐれで更新されます。5年後とかその辺りになるかもしれませんね。