二〇XX年、十二月。
この寺を取り巻く気配は、今年も例外なく鋭利な刃物のように肌を突き立てる。突き立った切っ先から身体を凍らせる冷たさを帯びていた。言うまでもないことだが、寒い。
吐く息は白く濁り、縁側の板張りは素足を芯から凍らせる。かつての……六年ほど前のオレなら、この理不尽な寒さに「さむいよぉぉぉ!」などと情けなく絶叫し、日本の気候の過酷さを呪っていたことだろう。
だが、今年で一七歳になったオレは、ただ静かに腕を組み、冬枯れの庭を眺めていた。物寂しいが、風情がある……と言えなくもない。
別に、寒さに慣れたわけではない。騒いだところで気温が一度たりとも上がるわけではないという、極めて現実的な諦観を身につけただけだ。……まあ、寒いのも暑いのも嫌いなのは変わらねえのだが。寒いと暑いって普通は二択だろ。両取りするのはめちゃくちゃだと思うぜ。
オレは息を大きく吐きながら、先日訪れた場所のことを思い返していた。
ここ数年、修行と生活に追われて足を運べていなかった、日本のとある霊園。そこに眠る、親父の墓だ。骨を持ち帰るのがまあまあ大変だったのだが、その辺りは思い出したくないので思い出さないでおく。
それは置いておき、……「本当のこと」を、「親父は一つも無念なんか感じちゃ居なかったこと」を思い出して、アタマがだいぶおかしくなり……何年か経って精神がようやく落ち着いてきたオレは、数年越しに墓前に立っていた。線香の煙が冬の風に流され、頼りなく揺れるのを眺めながら、オレは誰に聞かせるでもなく独りごちた。
『親父……あんたは満足して死んだんだろうけどさ。残された方はたまったもんじゃないぜ。つうか、あんた、死ぬ間際にオレや百合子の顔も浮かんでなかったんじゃねえの? 走馬灯に子供が出てこねえってのは、……人の親としてはどうかと思うぜ? ま、格闘家としちゃあ大変潔いのかもしれねえけどよ』
墓石に柄杓で水をかける。冷たい水が、御影石を濡らして反射光を帯びる。持ってきたボロ布で、墓石をさっさと磨き上げてやった。憎まれ口を叩いてはしまうものの、オレの親父は結局この人しかいない。最低限のことはやっておかないと、自分が納得出来なかった。
『……まあ、いいけどな。俺には今、小うるさい師匠と、厄介なおじさんと、手のかかる弟弟子たちがいるからよ』
オレは苦笑しながら、冷え切った手を合わせた。たく、こんな寒い中来るもんじゃねえわ。
『あいつら……リュウとケンはいいよな。昨日負けた悔しさを、今日にはもうバネに変えてやがる。過去に囚われるようなマネはしないんだ。オレなんて、あの時親父に言われた一言を、今でも耳元で鮮明に再生できるんだぜ……』
――『ダン、今日の試合は特別だ』
あんたは試合の前、そう言って不敵に笑った。そうそう、記憶がグチャってて思い出せなくなってたけど、その後に「試合に関する同意書」を見せてきたよな? 試合中に死んだって構いませんよねー? とかいう、ふざけた内容の同意書をさ。あんた、最初から死ぬかもしれねえ、というか死ぬ確率のほうがデカいってわかってたよな? そうに違いない。あれは、死地へ向かう男の笑顔だったってわけだ。はあ……ホントに、ガキの居る身でなにやってんだか。
『……あのなあ、「満足のいく勝負が出来るなら死んでも構わない」なんて覚悟は、「特別」じゃなくて「自暴自棄」って言うんだぜ? オレは……サガットに追い詰められた時点で、みっともなく命乞いでもしてほしかったよ。「最期まで勝利への執念を燃やしていた、尊敬すべき格闘家」なんて、周りは褒めそやすけど。……オレはさあ、あんたのガキだったんだ。ダサくても情けなくても、もっと、生きることにしがみついててほしかったもんだよ』
ここまで口に出しておいても、もう「憎らしい」とすら思えなくなっちまった。胸の中にあったのは、激しい憎悪ではなく、諦めと許しが複雑に混ざり合った、沈殿物のような感情だった。
縁側に立ちながら、そんな感傷的な回想に浸っていた、その時だった。
足音は全くしなかった。気配すら完璧に消されていた。だが、背後の空気がわずかに歪み、殺気とは違う「圧力」が迫るのを、オレの皮膚感覚が捉えた。
首筋に絡みつこうとする腕。チョークスリーパーの軌道だ。
思考するよりも早く、身体が動いた。オレは首をわずかに傾けて重心をずらし、流れる水のようにその腕をすり抜けた。
「……なんだよ、つまんねーなー」
不満げな声が背後から聞こえた。振り返ると、ケンが呆れた顔で立っていた。黒く染めた髪が、冬の弱い陽射しを吸い込んでいる。いたずらが上手くいかなかったとでも言いたげに、拗ねたツラをしていた。
「ケン!? お前、いきなり何すんだよ! オレに恨みでもあんのか!? 直近だと心当たりはゼロだが??!!」
オレが抗議すると、ケンは心底うんざりしたように溜息をついた。
「はぁ……。恨みなんかあるわけねえだろ。ただ、いい加減自覚を持てよなって話だ」
「自覚ぅ?」
「普通、足音も気配もなく背後取られたら、首極められてそのまま落ちるんだよ。それを無意識にヌルっと避けておいて『何すんだ』はねえだろ。……あんた、自分が思ってるよりずっと『ガワ』ができあがってんだって」
もっともらしい言い草をしてくれるが、オレとしては心外だった。こんなの、毎日毎日化物じみた弟弟子どもと組手をして、負け越さないように必死でやっていれば、嫌でも身体が覚えるもんだろう。生存本能ってやつだ。強くならなきゃうっかり死ぬんだぞ? そりゃそれなりの腕にはなるだろ。
ケンは、じとーっ……とした目で、オレに宣ってきた。
「兄貴はさ、一回外に居る『強そうなやつ』に喧嘩でも売ってみりゃいいんだよ。そうすりゃよ〜く分かるだろうぜ、自分の立ち位置ってもんがさ」
「外に居る、強そうなやつ……? そら、世界にゃあいくらでも強いやつは居るだろうけど……」
ケンに言われてもしばらくピンと来なかったが、オレは「うーん」と唸り、さっきまで考えていた、先日の墓参りの内容を思い出していた。
親父。最強を目指した男。そして、その親父を倒した「帝王」……「サガット」……。
オレの中で、パズルのピースがカチリと嵌まる音がした。
「……よし。それなら、タイまで行ってくるわ」
オレはポンと手を打った。個人的な恨みだとかそんなものはもはや霧になって消えたが、それはそれだ。強いやつと喧嘩してみたいと思うこと自体は、もはや格闘家としての呪いみたいなもんだ。
「サガットの野郎と、ケリをつけねえとな。留守番よろしく頼むぜ」
ケンの顔が、ポカンとした間の抜けた表情に変わる。おい、お前が言い出したんだぞ?
「……は? サガットって、あの帝王サガットか?」
「おう。あいつなら分かりやすく強そうだしな。それに、お前を手伝うために大学行くかーって決めたけど、その前に因縁……つうのも大げさだけどさ、わだかまりだとかいう湿っぽいもんは全部片付けておきたいんだよ」
オレは部屋に戻り、ボストンバッグに荷物を詰め込みながらカレンダーを確認した。
「あと、クリスマスまでには帰って来たいよな〜。パーティーつっても男所帯だけど、それでもケーキぐらいは食いたいしな〜。……おい、お前、今年も街の方でヤンチャしてるとか言わねえよな? 女の子が十人押しかけてきて修羅場とか、頻繁に目撃したくはねえぞ」
「ああ!? 流石のオレも節度ってもんぐらい覚えてるさ……い、いや、そっちはどうでもいいだろ!! あんた、態度が軽すぎんだろ! 相手はムエタイの帝王だぞ!?」
慌てるケンを他所に、オレの腹は決まっていた。
サガットとの因縁は、もはやついでってーか、気にしなくていいような扱いになってしまった。だが、それはそれとして、オレの中にはいつになく熱いものが込み上げていた。確かめたい。今のオレが、あの「帝王」にどこまで届くのかを。あいつは間違いなく、強い。
旅支度を整え、寺を出る。着替えだのなんだのそのへんは現地で調達して現地で処分すりゃあいいので、そこそこ身軽なもんだった。
山門まで見送りに来たリュウとケンに手を振ったが、二人の様子がどこかおかしい。妙に目が泳いでいるというか、ニヤニヤしているというか。ケンはともかく、リュウが申し訳なさそうにしているのは……どういうことだ?
オレは二人の様子を見て見ぬふりしつつ、言い残す。
「……海外っつっても、土産は期待すんなよ? 滞在日数多くねえし。あと、オレの部屋に変な仕掛けとかすんなよ? ちゃんと留守番してろよな?」
「分かってるって。気をつけてな、兄貴」
「ああ、行ってらっしゃい、兄さん」
やっぱり目が合わないんだが……? 一抹の違和感と不安を覚えつつも、オレは山を下りた。
空港の国際線搭乗口。前に来たときとまるきり位置が変わって迷うとこだったが、案内板が優秀で助かった。
手元のチケットとパスポートを確認し、オレはふと溜息をついた。
バッグの内ポケットに入っているのは三冊のパスポート。そう、三冊ある。一冊は日本のもの。もう一冊は、中国のもの、さらにもう一冊は、なんか知らねえけど持ってる、イギリス用のパスポート。
なんでこんなことになっているのかはおおよその見当がつく。国籍がダブってんだろうな……。成人するまでにはどれか一つに決めなきゃいけない……はずだが……。なんか……面倒なので、確認することすら先延ばしにしてしまっている。
親父の故郷か、オレが生まれ育った場所か。あるいは、どちらでもない場所で生きるのか。
今はまだ、保留にしておこう。この旅が終われば、答えが出るかもしれない。
飛行機は雲海を抜け、数時間のフライトを経て、熱帯にしては穏やかな空気に包まれたバンコクの国際空港へと降り立った。
自動ドアが開いた瞬間、乾いてざらついた空気が肌に馴染んだ。相当過ごしやすそうだ。寒いというほどでもない。これが三月を過ぎたら蒸し風呂になるらしいので、いいタイミングで来たと言える。
「……うーん。やっぱり極端すぎるだろ、この星の気候は」
日本の鋭利な寒さとはまるで異なる、人が住むのに適している季節だった。まあ、こんなに過ごしやすいのって二ヶ月間くらいのもんらしいけど。冬支度のままだったオレは、即座に上着を脱ぎ捨てた。ここまで着てると暑くなるだろう。
飛行場でタクシーを拾い、サガットのプロモーターが主催する大会の会場へと向かう。
車窓を流れる極彩色の看板、屋台から立ち昇るスパイスの香り、けたたましいクラクションの音。
数年前に一度来ただけの場所だが、不思議と道に見覚えがあった。もうちょっと近道で行けそうなので、頼んでみる。
「……そこの角を右で行ってくんねえ? その先の屋台街を抜けたところに、デカいスタジアムがあるはずだけど」
運転手が驚いた顔で、バックミラー越しにオレを見た。
「お客さん、詳しいね。住んでたのかい?」
「いや、一回来ただけだな」
オレにとってはフツーのことだが、どうやらオレの記憶力は……ケンの言葉を借りるなら、「イカれている」そうだ。風景、言葉、その時の感情……一度強く印象に残ったものは、脳裏に焼き付いて離れない。良くも悪くも、忘れることが相当難しい。どちらかというと、悪く作用したほうが多い気がする。
会場にたどり着くと、そこは、かつて親父が戦ったような薄暗い地下闘技場ではなかった。
煌々とカクテルライトが照らす、正規のスタジアム。満員の観客が上げる地鳴りのような歓声。リングの中央には、正装したレフェリーが立っている。
控室で黒い道着に着替え、帯を締める。鏡に映る自分の顔は、思ったよりも落ち着いていた。しかしまあ、よくもこんな無名の人間をさっさとリングに上げてくれたもんだ。あいつも「火引」の姓に思うとこでもあんのかね。あ、……そういやあいつの片目って、親父が獲ってんだった。うーん。それで恨むほど狭量だとは思えんけどな?
頬を軽く叩いた。考えたってしょうがねえ。
「……行くか」
花道を歩き、リングへと上がる。
対角線上に立つ巨漢を見上げた。
隻眼の帝王、サガット。
その姿を見た瞬間、オレの記憶にある「その男」とのズレに違和感を覚えた。
かつて親父を殺した時のような、あるいはオレが想像していたような、血に飢えた殺気はそこにはなかった。
長い手足、鋼のような筋肉、眼帯に覆われた片目。見た目の造りは同じだ。だが、纏っている空気が違う。
今のあいつは『帝王』というより、すべてを受け入れた『求道者』のように、静かに気力を水面に湛えている……そんな圧力を放っている。……ずいぶん変わったな。何があったのかは知らねえが、殺されそうにないならそれでヨシ!
レフェリーが中央で注意事項を説明する中、客席からよ〜〜〜く聞き覚えのある声がした。オレがそっちを見ると、最前列付近にその声の主が居た。
「兄貴ーっ! ボサッとしてんじゃねえぞ! 気合入れろ!」
オレはギョッとして目をこすった。うん。幻覚じゃねえな。すーっごい見たことある顔だった。見たことあるというか、毎日顔を突き合わせてるっつうか……。
かぶりつきの席に、見慣れた二人の姿があった。膝が崩れそうになる。き、気が抜けるんだが……。
リュウは申し訳なさそうに小さく手を挙げ、会釈をしている。お前まで来てるのかよ……!! 止めなかったのかよ……!! 兄さんはちょっとショックだぜ……!?
その隣で、ケンは満面の笑みでピースサインを送り、片手にはガパオライスのようなものを抱えてスプーンをくわえていた。あいつ、寺に来たばっかのころは食にうるさかったけど寛容になったもんだなあ。……いや!? そんなほのぼのしたこと考えてる状況じゃねえんだけど!?
あいつら……! 留守番はどうしたんだよ!? っていうか、いつの間に着いてきたんだ!? 同じ便には乗ってなかったはず……真後ろの便で来たってことか???
オレの驚愕をよそに、会場にゴングが鳴り響いた。
「――始め!」
思考を切り替える間もなく、サガットの右足が空気を切り裂いて飛んでくる。重そうなローキック……直撃したら、まあ、脚が砕けてもおかしくはない。
速い。重い。そして何より、迷いがない。
オレはバックステップで紙一重にかわしたが、風圧だけで肌が粟立つのが分かった。……生きて帰れたとして、五体満足で居られるのか、これ。
間合いを詰める。昇龍拳の予備動作を見せ、相手の反応を誘う。だが、サガットはそれを見切ったように、カウンターの膝を合わせてくる。
ガードの上からでも、骨がきしむような衝撃が走る。……つええ! やっぱり、帝王なんて呼ばれてんのは伊達じゃねえってことかよ!
重戦車のような圧力で、サガットが前に出る。
タイガーショットの連打。上下に散らされる衝撃波を、オレは毎日やってる組手と、たまに仕掛けられる奇襲と、お節介なおじさんの狂ったような修行につき合わされたのと……とにかく、覚えてる技術を総動員して捌く。
オレが守勢に回っていると、上から信じがたい罵声が響いてきた。
「あーあ、どんくさ! 何やってんだよ!」
ケェン……あ・の・バ・カがよぉ……!! 今さあ、テメーに思考を割いてるヒマはないんだよっ! 見てりゃあわかるだろ!!
「いつまで遊んでんだ! やる気ねえなら降りちまえ!」
攻防の最中、ケンの野次が休みなく飛んでくる。いや……マジで……やめろ!! イラつきが抑えられず、オレは心の中で毒づく。あの野郎……! あとで絶対にボコボコにしてやる……! あの無駄にお綺麗な顔面をそれはもうボッコボコに……。
「まだかかってんのか!! あんたはここに、……わざわざ負けに来たのかよッ!!!」
そこまで言われて、気づいた。脳の中に直接冷却水が流されていく。ああそうかい。そういうことかよ。
ケンの野次は、オレが攻めあぐねている時、あるいは相手のペースに飲まれそうになっている瞬間にだけ飛んでくる。思考が硬直しそうなタイミングで、あいつの不快な罵倒が、しかしハリがあってよく通る声が、オレの意識を現実に引き戻すのだ。
なるほどなー。冷静になれって合図かよ。それにしたって口が悪すぎるだろ!
試合は泥沼の様相を呈していた。
互いに体力を削り合い、息が上がる。サガットの隻眼が、オレの動きを正確に捉え続けている。
だが、オレも引かない。
この数年、あの化け物のような弟弟子たちと、毎日毎日、飽きるほど拳を交えてきたんだ。それに加え、たまに本物のバケモンっていうか怪獣までやって来て、人を振り回してくるわけだし。帝王だろうが何だろうが、オレの「日常」だってまあまあ過酷だったんだ。これで、その日々が、その努力が、ここで通らないわけがない。
サガットが大振りのハイキックを放つ。
その一瞬の隙。
オレは決死の覚悟で踏み込んだ。
がら空きのボディ。そこへ突き刺す正拳突き。
いや、角度を変えれば喉元を砕ける。
手応えがあった。これを、急所に刺せば、オレの……勝ちで……。
だが、その瞬間、オレの脳裏に親父の最期がフラッシュバックした。
『今日の試合は特別だ』とかぬかした、プライドばっかり高かった親父の姿が目の裏に差し込まれる。
親父は相打ち覚悟で挑み、命を落とした。
オレは? オレは……ここで、サガットの喉元を食いちぎれば勝てるのか? それで「仇討ち」は完成するのか? トドメを刺して、 サガットの血を浴びて、誰が満足するっていうんだ?
違う。オレは親父じゃねえ。オレはオレなんだ。復讐なんてガラじゃないし、そもそも、勝手に死にに行ったヤツのために仇を討ってやるほど、人情深くもないんでね!!
オレには、帰る場所がある。クリスマスまでには戻ると約束した、あの騒がしい寺がある。オレは、生きてあいつらの元へ帰る。
ましてや「人殺し」になんか、……なってやる気は一寸もねえ!!!
オレは突き出した拳の軌道を、寸前で変えた。
喉元ではなく、鎖骨の急所へ。
殺すためではなく、戦意を断つための、制圧の拳を打ち込んだ。
鈍い音が響き、巨木が倒れるようにサガットが膝をついた。
一瞬の静寂。そして、スタジアムを揺らすような爆発的な歓声。
「……勝者、ダン・ヒビキ!」
レフェリーの手が挙げられる。
オレは肩で息をしながら、自分の手を見つめた。震えてはいなかった。ただ、「達成感」と……わずかばかりの「恐怖」があった。オレ……こんなにやれるようになってたんだ……。
まぐれじゃない。運でもない。オレが積み上げてきた技術と、身体能力が掴み取った勝利だった。
「自分は弱い、なにも出来ない、どんなに努力をしたって無駄になる」という、オレを縛っていた鎖が、全身の汗と共に流れ落ちていく気がした。
サガットがゆっくりと立ち上がり、オレを見下ろした。その表情に、敗北の屈辱はない。あるのは、奇妙な納得のようなものだった。
「貴様、あの技の数々……同門なのか。通りでな」
サガットは意味深に呟いた。
「やり口があの男に……豪鬼に似ていなくもない。殺さずして、人の心を折る術を知っている」
「……は? 豪鬼さん?」
豪鬼さんが、あの怪獣が、サガットと戦ったことがあるのか? オレが聞き返す前に、サガットは背を向けてリングを降りていった。その背中は、敗北を背負ってなお気高く、確かな存在感を放っていた。
会場を出ると、夜風が火照った体を冷やしてくれた。うーん。素晴らしいな、涼しいってヤツは。湿度も低いし。いい時期に来てよかった。
タイの夜空には、見たことのない星座が輝いている。オレがボーッと上を見ていると、聞き慣れたかしましい声が響いてきた。
「お疲れ、兄貴! いやー、最後のアレは痺れたね! やるじゃん!」
ケンが馴れ馴れしく肩を組んでくる。オレはもう、お前の情緒がさっぱりわからん。なんでそんなに嬉しそうなんだよ。
「はあ、そりゃあどうも……。なあ、そうじゃなくてさ。お前ら……なんでここに居るんだよ。師匠はどうした? 留守番ってどうなってんだ?」
オレが問い詰めると、リュウが苦笑いしながら答えた。
「いや、兄さんは一人のほうがやりやすかっただろうけど……オレたちの我儘だな。どうしても試合を観たくなってしまって。師匠に頼み込んで、留守番を免除してもらったんだ」
ケンは、心底愉快そうに補足してきた。
「師匠、すごい寂しそうな顔してたぜ? 縁側で茶を啜りながら『わしも行きたかったな……』ってボソッと言ってた」
言いながらけたけたと笑っている。一人で留守番をする剛拳師匠の姿を想像して、オレも思わず吹き出してしまった。あの頑固親父、意外と寂しがり屋なのかもしれない。
「せっかくだし、観光してから帰ろうぜ! 兄貴、土地勘あるんだろ?」
ケンがオレの腕をグイグイと引っ張る。こいつの頭には「遠慮」の二文字は刻まれていないらしい。
「おい! オレは試合後なんだぞ!? 怪我してんだよ! 痛えって! 少しは兄弟子に気を使え!」
文句を言いながらも、オレは抵抗しなかった。こいつらと一緒に歩くなら、バンコクの夜も悪くない。
「……ケン。あまり兄さんに甘えていると、自分で何もできなくなるぞ?」
リュウが呆れたようにたしなめる。
「いいんだよ。兄貴も満更でもない顔してるしな」
トゥクトゥクのエンジン音が響く、十二月の夜。乾季の荒涼とした風が、オレたちの間を通り抜ける。
オレたちは騒がしく笑い合いながら、ネオンの海へと繰り出していった。
過去の因縁は、もうオレを縛らない。親父の墓前に報告することは増えたが、それは悲しい話じゃない。
ここにあるのは、ただの未来と、騒がしい家族たちだけだ。
ケンはどんな環境にあろうがどんな選択をしようがどんな逆境に陥ろうが、だいたいは「ケン・マスターズ」的な性格に収束するのだった。まあ、この二次創作内だともう姓は違いますが。そんなもんはケンの本質ではないのであった。
あと、豪鬼さんは怪獣です。善意によって世界観をグチャグチャにするタイプの怪獣です。