この話は視点変更が入ります。
―――― 視点・豪鬼
それは、ダンがサガットと戦うおよそ一年前のことだった。
タイの片隅にある地下闘技場。いや、もはや闘技場とも呼べない、廃墟に近い場所で、二人の男が対峙していた。寒々しい空気が取り囲み、ぶつかる視線も「熱意」というよりは「品定め」に近いものだ。
一人は、ムエタイの帝王、サガット。静かに立ち昇る闘気は、相手の命を絶とうとする攻撃性を隠しもしない。
もう一人は、世界を放浪する最強の拳士、豪鬼。不気味なまでに穏やかな気を薄く纏っている。この男は、あちこちにふらりと現れては、「戦った相手を茫然自失の状態にする」……という、怪談のような存在と化していた。ちなみに本人は、この「怪談」のことを大層面白がっている。
勝負は、一瞬で始まり、一瞬で終わった。
サガットが放つタイガーショットは空を切り、膝蹴りは残像を捉えることしかできなかった。
対する豪鬼は、まるで子供をあやすように、しかし圧倒的な力量差を見せつけながら、あらゆる打撃を影の揺らめくような身軽さで躱していく。間合いに入った途端に、サガットの鳩尾に拳を打つ。
サガットの全ての「起こり」が止まった。豪鬼が打ったのはただの拳ではない。中指の第一関節をわずかに起こしたうえでの打突。「点」を突く一撃だった。そこからサガットの経絡に割り込み……己の闘気を浸透させる。サガットの中にある、あらゆる力の流れが狂う。遅く、重く、泥沼の底に引き摺り込まれるような感覚が身体を支配する……そういう一撃だった。
サガットの身体から、強制的に「力」が剥がされる。身体の軸を保てなくなり、膝をつく。その顔は、苦痛ですらない疑念に染まった。この男はいったいなんなのだ? 本当に人間なのか? という疑念を顔に現したまま、豪鬼の一撃が顔面に迫っていた。
豪鬼の拳は、サガットの鼻先数ミリでピタリと止まった。
「おっと……ここまでだな。立ち合い人を付けてはいないが……あんたの負けだ。もう分かってるだろ?」
サガットは膝をついたままで、その身体を怒りに震わせていた。相対した男は、先ほどの勝負を「なんでもなかったこと」のようにして、陽気にからからと笑っていた。まともな神経であるとは思えない……その怒りが、サガットの顔を歪ませている。実際豪鬼の神経は随分とおかしいし、人間的な視座や感性からすると「災害」に近い振る舞いも平気で行うので、帝王の感覚はなにもおかしくはなかった。
帝王の身体に大きな傷はない。だが、その精神には……自尊心には、修復不可能なほどの亀裂が走っていたようだ。こんなものは、戦いとは呼べない。そういう考えが、顔に、闘気に現れていた。
「……これは、侮辱か?」
サガットは怒りに声を震わせた。身体は未だに動かせないにしろ、サガットの「戦意」は一つも欠けてはいなかった。
「それとも……強者としての驕りか? どちらにしろ貴様は、この勝負を汚した! こんなものが……勝負などであるはずがない!!」
サガットの剣幕をよそに、豪鬼はいつもの飄々とした態度を崩さなかった。軽い口調で、しかしその瞳の奥には冷徹な光を宿して、あっさりと答えた。
「そりゃあ、俺は強いからな。驕りならいつでも備えてある。しっかし、侮辱とは……「勝負を汚した」とは、これまた大きく出たもんだ」
豪鬼は、衝撃の余韻で指一本動かせないサガットを見下ろした。
「あんた、相手を死なせるまでやらなきゃ本気じゃない、「死合」にあらずんば「試合」にあらず……そんなことを、心から思ってるのかい? だとしたら、それは大きな間違いだな」
豪鬼は続ける。軽い言い方ではあったが……確実に、「相手を圧し折る」言い方を選んだ。
「今ここで! あんたは身をもって知ったはずだ! 殺すなんて手間を取らずとも、勝ち負けをつけることは出来るってコトをな。……それともなにかい? あんた、今、ここで立ちあがれるか? おっと? 「俺の手を借りる」ってのはナシだぞ?」
サガットは唇を噛んだ。立てない。身体的なダメージはなくとも、その身体は豪鬼の「気」に完全に制圧されていた。この世には「サイコパワー」や「殺意の波動」という名の理外の力が存在するが……豪鬼が今軽々と振るっている「力」は、それらの力には、いや、この世にある、名前の付いているどの力にも該当しない。
なんの「銘」も持たない、あらゆる障害を薙ぎ倒しながら、誰のことも殺さない力。そんな冗談じみたものが、豪鬼という男の中に収まっていた。
豪鬼はサガットをじろじろと眺め回してから、にっかりと笑った。人の神経を逆撫でし……それから脱力させる、実に毒のない笑顔だった。
「自分一人じゃあ立てもせんだろ? あんた、その状態でも『自分は負けてない』って言い張るタチか? それならあんたは、『諦めが悪い』んじゃなくて、『現実が見えていない』だけだ」
その言葉は、帝王の自尊心を粉々に砕いた……そして、奇妙な解放感を与えた。
数日後の晩、場末の酒場で二人は酌み交わしていた。豪鬼はいつもと変わらぬ陽気な笑顔ではあったが、どことなく神妙な面持ちもしていた。
「なあ、帝王」
「おい、それは嫌味か?」
「違う違う。 そも、俺が躱さにゃならん時点であんたは強いんだよ」
サガットはじとーっとした目で豪鬼を睨んでから、嘆息した。
「はあ……貴様がそう言うならば、もう素直に受け取っておこう。で? 何が聞きたいというんだ?」
「お! 話が早くて実に助かる。実はなあ、俺、「シャドルー」とかいうよくわからん犯罪組織のことを調べているんだが」
サガットは、飲んでいたロックが気管に入りそうになりむせた。豪鬼が「おい!? 大丈夫か?」と言いつつ背中をさする。サガットはいよいよ分からなくなったようで、豪鬼を薄く見た。豪鬼は、サガットを純粋に心配していた。この人外化生のような男は、実に人間くさい部分も持ち合わせていた。
毒気を抜かれたサガットは、自身が所属する組織「シャドルー」の情報を洗いざらい語った。豪鬼をなにを考えているかは聞かなかった。こんな人かどうかも怪しい生物の内面にまで付き合ってやる気はないようだった。
「……もう、潮時だ。あんな組織に義理立てする理由もなくなった。……貴様があの組織になにをする気かは知らないが、「なにか」しでかすというのなら、あいつらを庇ってやるほどの思い入れもない」
サガットの告白を聞きながら、豪鬼はある一人の少年の顔を思い出していた。
黒い長髪を華麗になびかせる、生意気だがどこか憎めない、あの「甥弟子」のことを。
あの日……「すずらん」で、豪鬼が兄と和解したあの日のことだ。夕食で約束通り、豪鬼は腕を振るった。例の「甘いパスタ」である。
門弟たちは戦々恐々としていたが、外見上は、何の変哲もないミートソースパスタであった。
ダンが無言でパスタを巻き、口に放り込む。咀嚼中もなにも言わず……眉間にシワを寄せたり、目線をあちこちに配ったりして、最終的にこう言い放った。
「想像してた「甘い」のって、餡子だかクリームだかの奇天烈なやつだったのに……!! これは……ミートソース……ではあるけど……なんでこんな、異常に甘いんですか……ッ!!??」
豪鬼はなぜだか自慢げに答えた。
「おっ、よくぞ聞いてくれた! 俺が若い時分に、この寺をこっそりと抜け出して遠くの街に観光に行ったことがあってな? そこの名物が「コレ」だったんだ。感銘を受けるとはああいうのを言うのだな。いやあ、美味かったなあ、というわけで、俺なりに再現したものがコレなわけだ」
「こ、……これって、豪鬼さんが考案したわけですらない……!? これを名物と言い張る市町村が日本のどっかにあるんスか?」
「そうとも。そこの街には「日本一甘いラーメン」もあってなあ、それも実に美味かった」
「ぜ、絶対に、その街にだけは一生行かねえ……!!!」
ダンがわなわなと震える中、リュウがパスタを口に運び、飲み込んでから、「相変わらずだな……たまに食べる分には、目が覚めるからいいんじゃないか?」と独り言のように言っていた。
そんな中で、ケンだけは何も言わず、淡々と食べ進めていた。恐る恐る、ダンが聞いてみた。
「なあ、ケン、まさかとは思うけどよ? ……まさかまさか、口に合ってんのか?」
「んー? 一口目はビビったけど。慣れりゃあ案外美味いぜ?」
「とんでもねえこと言ってやがる!! コレ……味以前に、常食したら、たぶん寿命が縮むヤツだぜ!?」
豪鬼が割り込み、「ないない」と言う。
「はは! 随分と大げさだな。俺はときどき食うが、この通りなんともないぞ」
ダンは、涙目になりながら、精いっぱいの反論をした。
「……豪鬼さんを健康の基準にしていいか、よく分かりませんッ!!」
そんなこんなの騒がしい夕食を経て、ケンと豪鬼は会ってすぐに意気投合した。食の好みが合うというのは、それもこんなニッチな好みが合うというのは、親近感が湧くということだ。それだけでなく、根が明るい者同士、ノリが合うというのもあった。
が、「正しい世界」ではいざ知らず……この世界では、ケンは根が明るいとはいえ、大きな傷も抱えている。
しばらく一緒に過ごし、親しくなって警戒がとけたからか、ケンは豪鬼に身の上を話した。
自分の実家の人間が、権力に溺れ、他人を病的に疑い、自滅していったことを……。
ケンはそのことを、「金に狂った」と解釈していたが、豪鬼は訝しんだ。マスターズ家の狂乱。そんなに大勢の人間が、そんなに一遍に狂ったのが……果たして偶然なのだろうか?
豪鬼は気になって気になって仕方がなくなり……己の手のひらを打った。わからないことがあるならば、自分の足で調べればいいではないか、と。
寺を一度去ったあと……ケンの「おじさん」として、体を張ることにした。どうしようもないレベルでお節介な男である。
豪鬼は「また旅に出る」と手紙で言い残し、世界中を飛び回りだした。マスターズ家の事件は絶対におかしい。なにか裏がある。
異常なまでのフットワークの軽さと、なにがあってもめげないド根性により、なんとか豪鬼は「シャドルー」の名前と、マスターズ家の事件と「シャドルー」にはなにか関係性がある、ぐらいの情報には辿り着いたものの、「万能」ではない彼にはそこが限界だった。
豪鬼には資金自体はそこそこあったものの、それを効率的に活用して世界中に情報網を張り巡らすような……そういう頭の回転はなかった。物理的な強さだけではどうにもならない場面もあるということだ。
豪鬼はそれから方針を変えた。シャドルーとやらは世界中で強者をスカウトして回っているらしい。それなら、自分も世界を回って強者を片っ端からボコボコにすればいいんじゃないか。運がよければなにかシャドルーの情報が引き出せるかもしれないし。
豪鬼が思いついたのは、あまりにも脳みそが筋肉のようなやり口だったが……。
シャドルーの機密を次々と明かすサガットの話を聞き、時には手帳にメモを取りつつ、豪鬼は「計画通り」とでも言いたげにニヤリと笑った。
なんと、豪鬼のやり方は運よく当たったのである。これ幸いということで、サガットから情報を首尾よく引き出していく。
サガットは入職直後から幹部待遇だったためか、あり得ないほど大量の情報を引き出せた。これには豪鬼もにっこりし、機嫌よさそうに呟いた。
「はっはっは。有難う。あんたのおかげで俺の憂い……いや、後進の憂いが断てるだろう」
「……潰す気なんだな?」
「もちろん。なんだ? 今になって止める気かい?」
「有り得んな。というよりも……貴様が目を付ける定めとなった以上、「あんなもの」が生き残る道理もない」
サガットは他人事のように言い残した。帝王の目からはかつての獰猛さは洗い流され、替わりに、澄んだ清流の輝きが宿っていた。
そのあとシャドルーがどうなったかというと、豪鬼が知ったぶんの、あちこちの基地が、豪鬼のサンドバッグ代わりとなった。ようするに、あちこちの基地が壊滅した。
このため、この世界においてシャドルーは「正しい世界」より大幅に弱体化することになった……そのあと「総帥」は世界征服のやる気をなくして、「組織を単身で壊滅させた化物」を打ち倒すことに執念を燃やし、一介の格闘家に戻ってしまった。
最終的に、「シャドルー」の本体は崩れ去った。
この世界に残るのは、シャドルーの継承者を名乗る有象無象の犯罪組織のみである。因果は様々な巡り方をするのである。
―――― 視点・ケン
十二月の寒空の下、オレたちは日本の朱雀城へと帰ってきた。うーん、さーみい。日本に来てだいぶ経つが、それでも慣れねえもんだよな。リュウは生まれからしてこの土地に住んでるからともかく、そもそも何処の国の何人かも怪しい兄貴は、口には出さねえでいるが未だにこの国の気温差に参っていた。そんなクセにオレやリュウに「冷えるから着込んどけよ……」などと言ってくるので腹が立つ。まずテメーが着ろ。あんたが一番寒がりだろうが。
山門をくぐると、まるで待ち構えていたかのように、豪鬼さんが仁王立ちで出迎えてくれた。和式のファー(正式な名称は知らん)なんかを付けてめかし込んでいる。まあ、あの人には似合うよな。オレほどではないが男前だし。
いや? ……なんで居るんだ? この人は神出鬼没だが、このタイミングで居るっつうことは、アレかね、師匠が寂しくなって呼んだとか? ……それはねーか。
「おう、帰ったか。早かったな」
なんだか、いやに機嫌のよさそ〜な声をしていた。はあん。どっかででかいイタズラを仕掛けて成功したと見たね。どこのどいつが犠牲になったかは知らんが、この叔父貴が狙うのは大抵悪党なので、大して可哀想には思わなかった。
リュウはその辺を知ってんだが知らねえんだか分からねえけど、真面目くさって挨拶していた。兄貴がそれに続いていく。
「ただいま戻りました、父さん」
「……お邪魔します、豪鬼さん」
リュウと兄貴が挨拶をする横で、オレも軽く会釈する。で、軽くハイタッチを仕掛ける。
「おっと! ケン、お前は相変わらずのようだな?」
「まあね。豪鬼さんもなかなか機嫌がいいみたいですね?」
オレたちのその様子を見ながら、兄貴がやや引きながら言った。
「ケン、お前……ホント、度胸だけは誰にも負けてねえよ……」
その晩、寺では兄貴の祝勝会が開かれた。ささやかなもんだったが、ココにしては豪勢なことだ。まあ、あの帝王に勝ったんだし当然だよなあ? 勝った本人が自分のやり遂げたことを自覚してんだかしてねえのかよくわからんのがイラっとくるけども。
鍋を囲みながら、兄貴がサガット戦の詳細を語る。本人の語り口調を聞く限りでは、いつもの「謙遜を通り越した嫌味」にはなっていなかった。さっきのイラつきは取り下げておこう。とりあえず、マシにはなったらしい。
それを聞きながら、豪鬼さんは「それはよかったな」と満足げに頷いていた。
だが、兄貴の目がふと鋭くなる。豪鬼さんの目をじっと見ている……オレにはよくわからんけど、なんか気づいたらしいな? こいつ、普段は抜けてるくせに、こういう時の勘だけは異常に鋭いんだよな。
「……もしかして、なんですけど」
兄貴が箸を止めて、豪鬼さんをじっと見た。
「サガットと豪鬼さんって、闘ったことでもありますか? あいつの捨て台詞とか、今の豪鬼さんの反応とか……なんか妙に符合するというか」
「ある。お前さんは聡いやつだな〜」
豪鬼さんはあっさりと認めた。え、この叔父貴の反応に不審点あったか? あったにしてもそれに気づくとは、ウチの兄貴はよほど「気にしい」らしい。
兄貴はさらに目を細め、悩みながら言う。
「あの、なんか……具体的になにかとは言えないんですけど、まだ隠してませんか? なんか、さっきからケンのほうを、ミョーに暖かい目で見てるような……」
豪鬼さんが真顔になった。は? オレ? 見られてたっけ……? なんでオレが気づいてねえのにあんたが気づいてんだよ。どこぞの名探偵か?
「ダン。お前さん、探偵になっても大成すると思うぞ。冗談ではなく、本気でな」
知らんうちに叔父貴と意見が一致してしまった。観念したように、豪鬼さんは語り出した。
豪鬼さんは一年前ぐらいにサガットの野郎と戦って、そのあとの雑談……雑談してんの? あの帝王と? ともかく、その会話から「シャドルー」の情報を引き出したらしい。
そして、マスターズ家の連中がだいたいトチ狂ったあとに起こったあの事件の裏に、そのシャドルーってのが関わっていると知り、世界中の基地を片っ端から「サンドバッグ代わり」にして壊滅させたとか……。いやいやおいおい。なにをやってんだこの怪獣みてーなおっさんは。
オレは持っていたコップを握りつぶしそうになった。
「ちょっと! 人ン家の事情に首突っ込んでなにしてんですかぁ!?」
オレが声を荒げても、豪鬼さんは全く悪びれる様子がない。こ、この人ってさぁ、オレが言うのもアレだけど、自由すぎねえか???
「すまんすまん。しかし、可愛い甥弟子が困ってたら手を貸したくなるのが、人情ってものじゃあないか?」
オレは呆れ果てて、隣に座る兄貴と豪鬼さんを交互に見た。
「兄貴といい、あなたといい……お人好しにも限度ってモンを決めたほうがいいですよ?」
「オレに流れ弾を飛ばすな!」
兄貴が抗議する横で、豪鬼さんは「褒め言葉として受け取っておこう」とニカっと笑った。
自己肯定感の低すぎる兄貴と、高すぎる豪鬼さん。反応は真逆だが、根っこの「お節介」な部分はそっくりだ。この点においては、兄貴はこの怪獣を見習ってもいいのかもしれない。
「ケンは……自分で調べて、自分で始末を付けたかったんだと思いますよ」
リュウが静かに助け舟を出してくれた。オレは無言で頷く。自分の知らないうちに悪党どもを全員吹き飛ばされていても、イマイチ納得できない。
豪鬼さんは少しバツが悪そうにした後、すぐに茶目っ気を織り交ぜて言った。
「それもそうだな! ケンが殴るぶんも残しておくべきだったか」
「そういうことじゃないですから! つーかこんなときまでおちゃらけて済ませないでくださいよね!」
オレは溜息をついた。はあ……悪気がないどころか、善意でやってんだからタチが悪いや。
正直、複雑だ。マスターズ家の……あの事件を生き残った親族たちは、洗脳されていたわけじゃないってことだろ? 素で性格が最悪だっただけだ。正気でオレたちを裏切った連中への恨みは、組織が壊滅したところで晴れるわけじゃない。
「横からかっさらうようなマネをしてしまったな……これでは後味が悪いかもしれんが、ま、許せ。これでお前の妄執も晴れたことだろう」
知らない日本語が投げられてきたので、横に居る兄貴に問うてみた。
「妄執ってどういう意味?」
「んー? 頭が囚われっぱなしになるぐらいの恨みつらみ、みたいな?」
オレは「りょーかい」と言う。ジト目になってから、言いたかったことを言ってやった。
「いや、マスターズの本家のコトを言ってんなら、それで恨みが晴れたやったーとはならんですよ。だって、あの殺し合いで生き残った連中って、ほとんど洗脳されてなかったんでしょ? じゃああいつら正気なのにオレと親父を駒に使おうとしたわけじゃないですか。そんで、正気なのに、継承権を捨てるときに散々オレに陰湿な嫌がらせをしたわけじゃないですか。そんなん許します? オレは無理ですね。一生無理です」
豪鬼さんは「あっ!」と本気で気がついていなかったらしく声を上げ、それから分かりやすいくらいにしょぼくれて、「すまん……」と言ってきた。
あのさあ、……目の前の豪鬼さんを見ていると、悪態をつく気も失せてしまう。このおっさんは本気の本気で、オレが困ったとか、オレが泣いたとか、そういうのが見過ごせねえんだろう。その性質は絶対に善だ。だとしたら、オレが言うべきことは決まってる。
「……まあ、そこそこうざったかった頭の靄が晴れた、とは思いますよ。感謝……もしておきます。一応はね」
「よかった。力になれたと思っていいか?」
豪鬼さんは心底安堵した顔を見せた。
オレは内心で頭を抱えた。なんだこの太陽みてーな笑顔はよ。
豪鬼さんの「お節介」に呆れつつも感謝した後、オレの視線は自然と隣で鍋をつついている兄貴に向いた。
こいつもまた、豪鬼さんに負けず劣らず、いや、それ以上に重症な「お人好し」だ。
オレが以前、将来は「何かを作る仕事、エンタメ系の事業をやりたい。あとまあ、「新しいものを作る」とか?」と漠然とした夢を語った時のことだ。
兄貴はその翌日から、狂ったように勉強を始めた。
「お前が採算度外視で研究や開発に没頭するなら、誰かが財布の紐を締めなきゃならねえだろ。オレがやるしかねえ」
そんな使命感に燃え、兄貴が選んだ進路は、国内でもトップクラスの難関大学、その経営学部だった。
兄貴は数学が生理的に嫌いだ。数字を見ると頭痛がすると常々言っている。
だが、経営学には数学が不可欠だ。兄貴は文系科目で受験を突破する戦略を立てつつ、入学後に地獄を見ないよう、今から数学の参考書と格闘している。
「リスク評価関数ってなんだよ……! 言葉で説明しろ、言葉で! んでさぁ、微分と積分が頻繁に出てくるんだよ……!! うう、わからん、言ってることが一つもわからん……!!」
などと言いながらオレに採点させるのだが、満点とは言わないまでも、十分に「出来るヤツ」の数字だった。言ってることがだいたいわかってんじゃねえか。ムジュンが発生してんだろ。あんまりそんな泣き言言ってたら嫌味だってそろそろ学ばねえのかコイツは。
んで、それなりに計算を身に着けだしたら、今度は「お前が「やりたいこと」を試算するとさあ……帳簿が常時狂ってんだよ!! ROIって分かるか!? 浪漫で飯は食えねえよ!!」と常に叫んでいる。やかましい。あんたが責任取るんだろ? 帳簿は自分で合わせてくれや。
それからまたあるときは、なぜか法学の本を開いて唸っていた。意味が分からないので尋ねてみると、なぜか兄貴はオレを睨んできた。
「お前……「生物由来の新物質」ってさあ……気軽に作っていいと思ってんのか?」
「あーん? そんなものこの世にいくらでもあんだろ」
「いやいや!? お、おめーのこの計画を見る限りさあ、これ、「宿主に寄生して主体を乗っ取る」とか……それぐらいのバイオハザードが発生しかねないというか……。あらゆる倫理と法に反してんだろ! 存在自体がよ!」
「気にしすぎだって! コンプラだのポリコレだの、そんなのに縛られたくねーし?」
「お前がよくたって世の中はいっこも許さねえからな!?!? だ、駄目だ、オレがなんとかしねえと……!!」
そうやって机に向かって唸る背中を見るたび、オレは申し訳なさと、ある種の畏怖を感じていた。
兄貴の才能は「累積」だ。進むスピードはカメと大して変わらないかもしれねえが、「忘れる」とか「思い出せない」とか、その手の事象と無縁すぎる。
世の中の試験だか資格ってもんはだいたいの「取得のための総学習時間」なんて目安が用意されているが、その時間は当然「忘れる」ことも加味して復習の時間も計上してあるはずだ。
つまり、この男がマジになって勉強に取り組んでしまった場合……そんな目安は吹っ飛ばされてしまう。
兄貴には得意も苦手も存在し得ないはずだ。あるとしたら本人の「やりたい」「やりたくない」「面倒」「サボりたい」とか……そういう精神論だろう。
そんなトライアンドエラーを繰り返しながら、兄貴はあらゆるスキルを「オレのため」に習得しようとしている。「やりたくない」はずなのに、「面倒」なはずなのに。
以前、オレはあまりの献身ぶりに怖くなって聞いたことがある。
「あんたさ、自分の意志はないのかよ。全部オレのためって、重すぎるだろ」
すると兄貴は、心底意外そうな顔をして、それから逆ギレした。
「あのなあ! 『手伝う』ってアレ、なにもその場しのぎで言ったんじゃねえんだぞ!? お前がマジで独立するっつうなら、やるしかねえじゃねえか!! オレはお前の兄貴分だぞ!?」
……勝てない。
兄貴はこれだけの勉強量をこなしながら、格闘家としての修行も一日たりともサボっていない。サガットに勝てたのも、その狂気じみた積み重ねがあったからだ。
それなのに、当の本人は「自分はまだ道半ばだ」「何でも屋の器用貧乏だ」と思い込んでいる。
うん。腹が立って仕方がない。一回こいつを椅子に縛り付けて、三日三晩、自分の長所を朗読させて洗脳するしかねえか……?
オレは本気でそんな物騒な更生プログラムを検討し始めていた。
オレは内心で……このお人好しどもの異常な行動能力に呆れつつも、今回は素直に賞賛することにした。
「……いいですよ。素直に受け取っときます。今回はね」
オレは豪鬼さんに向かってそう答え、それから兄貴の椀に肉を追加してやった。
ここに居るお人好しどもには、一生敵いそうにない。
そうしていると、リュウがわざとらしく咳払いをした。
「みんな……忘れてるようだから言うんだが、今日は誰の祝勝会か、忘れてないか?」
リュウが呆れたように場の流れを引き戻した。
「あっ!!!」
オレと豪鬼さんの声が重なる。主役を完全に蚊帳の外に置いていた。
兄貴は「ん?」と口をもぐもぐさせながら顔を上げる。
今まで黙って茶を啜っていた剛拳師匠が、重々しく、しかし目元を緩ませて口を開いた。
「そういうことだ。さ、今日は飲むぞ。……もっとも、お前たち未成年は全員、烏龍茶だがな」
「ええーっ! せめてコーラはないんですか、師匠!」
「贅沢を言うな。茶で十分だ」
「オレなんかは、メシが食えりゃあなんでもいいですけどね。……おい、ケン! お前、肉しか食わねえのはいい加減直せっつったろ!?」
兄貴が鍋の具材をさらって勝手にオレの椀へとよそってくる。かーっ、こいつの世話焼き癖、一生治んねえのかもな。
リュウが豪鬼さんに酌をし、豪鬼さんが豪快に笑う。
外は冷たい冬の風が吹いているけれど、道場の中は、暑苦しいほどの熱気と、騒がしい家族の笑い声で満ちていた。
夜はまだ長い。
オレたちの「日常」は、これからも騒々しく続いていくのだろう。
プロットのストックがなくなってしまったため、次回の更新は未定です。だが、書けそうなら書きます…ッ!!!
この二次創作にアンチ・ヘイトタグを付けたのはこの話が存在するからです。
正史における「殺意の波動」は豪鬼の人間性というか、「弱さ」や「脆さ」や「甘さ」を根こそぎ喰らって滅してしまったのだろうけど、それこそが「正しい世界」だったんだよね! という話でした。
あとはまあ、この世界だとケンはマッドな研究者にはなるんでしょうが、やべーときには強力なストッパーが絶対に働くので安心です。持つべきものは兄ですね。
メタすぎるおまけ話
シャドルーを壊滅させた豪鬼さんであるが、この途中で、洗脳されただけの兵士(ベガの親衛隊など)や、まだ自我すら発生していなかったスペアボディたち(キャミィやディカープリやアベルなど)を外の世界へと解放している。
エドやファルケあたりの世代に至っては、産まれる前にシャドルーが壊滅している。
豪鬼さんは益荒男なので、悪意を持っている兵士ならともかく、操られているだけの兵士だとボコボコにする気力が湧かなかった。
ちなみに、解放したとは言っても、方法は乱暴。
まず、操られていた兵士を気絶させたあとにまとめて簀巻きにして大型車両(基地から奪った)に乗せて運んだ。
ちなみにこの二次創作の豪鬼さんは車の免許を持っている。運転技術は荒っぽいぜ。
適当なところまで運転して、例えば住宅街などのすぐに通報が入りそうなところに車を停めて、自分だけが車から降り、その場から逃走している。
また、豪鬼さんは抜け目ないので、防犯カメラに映るような愚は犯さないのだ。
善良な人ではあるが、人の扱いが乱雑な人でもある。
この壊滅の余波で、ハン・ジュリの身に起こった悲劇は起こらずに済み、春麗の父親も死なずに済み、ナッシュも死んでいない。正史で発生したシャドルー絡みの悲劇は、豪鬼さんの乱暴な善意によってだいたいのことが無かったことになった。
豪鬼さんは磨き上げた自分自身の波動の力で宇宙とかそういう大いなる力にわずかではあるが接続しており、ほんの少しだけ未来が見えるので、このことに気が付いた。歴史を変えたことに対する感慨はない。
この世界でのベガ様は生きている。ただし手足となる兵士が全然いなくなったせいで世界征服へのやる気を失い、一介の格闘家として、自分の計画をしっちゃかめっちゃかにした豪鬼さんを叩きのめすために修行に励んでいる。高圧的な性格はそのまんまとはいえ、一応更生した。
さらに言うと……こんなに世界のバランスがめちゃくちゃなことになってしまったので、ギル様は「調和」を求めて何かしらの行動には出た。しかし豪鬼さんはそうやすやすと殺されてやらないのだった。
豪鬼さんはもしかしたら、ベガ様のこともギル様のことも、「喧嘩友達」ぐらいの認識でいるのかもしれない。相手は絶対にそんなことを思ってはいないが。