四月上旬。東京の桜前線はすでにピークを過ぎ、アスファルトの上にはピンク色の残骸が無数に張り付いていた。
だが、季節の変わり目特有の、あの少し浮き足立ったような春の気配は、コンクリートジャングルの熱気と混ざり合い、未だ色濃く漂っている。
渋谷の雑踏の中、二人の青年が並んで歩いていた。
一人は、少し着崩した安物のスーツ姿の男、ダン。今年で二一歳になる。本来であれば大学四年生として就職活動の荒波に揉まれているはずの年齢だが、なぜか彼はまだ「三年生」の学生証をポケットに入れていた。この件(留年)についてはケンから散々とイジり倒されており、一度マジ喧嘩になったこともある。
もう一人は、ラフだが一目でハイブランドと分かる私服を纏った漆黒の髪の男、ケン。こちらは一九歳で、現役ストレートの大学二年生だ。未成年のはずなのだが、既にベンチャー企業の社長じみた雰囲気を漂わせている。
「へえ、結構ウケてるじゃねえか。悪くないな」
ケンは上機嫌で、スクランブル交差点を埋め尽くす若者たちを眺めていた。彼らの手には一様にスマートフォンが握られ、皆、何もない空間にカメラを向けては歓声を上げている。
これはケンが開発し、先日リリースされたばかりの『TOKYO・ダンジョン・ウォーカー(仮)』――観光案内と都市探索ゲームを融合させたARアプリの、フィールドテスト風景だった。
「まあな。お前が最終的に折れてくれて……『コンプライアンス』と『ユーザーの安全性』を考慮して、コンセプトを修正してくれたおかげだ」
ダンが肩をすくめながら言うと、ケンは珍しく素直に頷いた。
「ああ。確かに、前の仕様じゃあ警察沙汰だったかもな」
「『かも』じゃねえよ、確定だよ! 危うくオレたちが賠償責任で破産するとこだったんだぞ……」
ダンは胃のあたりをさすった。キリキリと痛むのは、このアプリの企画段階での記憶が蘇ったからだ。
当初、このアプリの企画書には『リアル人狼ゲーム・イン・シブヤ』という不穏極まりないタイトルが踊っていた。
GPSでその辺にいるプレイヤーと無作為にマッチングし、現実の街中で推理と疑心暗鬼と騙し合いをリアルタイムで行わせる。敗者にはペナルティ、勝者には相手からポイントを奪える権利を与える――という、一歩間違えればリアルファイトを誘発しかねない、とんでもない代物だったのだ。
『バカ野郎! 年齢制限を付けたところで、こんなもん流行らせたら治安が悪くなるし、トラブルの温床だ! リスクマネジメントがなってねえ!』
ダンが必死の形相で説得し、現在の「平和的な探索・謎解きゲーム」へと着地させた経緯がある。今のプレイヤーたちの柔らかな表情を見る限り、とりあえずはリアルファイトには発展することはなさそうだった。
(……とはいえ、こいつの顔を見る限り、まだ当初のPvP(対人戦)案を諦めてねえな)
ケンの瞳の奥にある、獲物を狙う猛獣のような野心的な光を見て、ダンは溜息をついた。
(もし人狼要素を入れるとしても、相当マイルドに……少なくとも、リアルで殴り合いにならねえように、システム側でガチガチに導線を組まねえと……。ユーザー間の直接接触を禁止するUI(ユーザーインターフェース)設計にしねえとな……)
ダンの「コンサルタント兼・保護者」としての胃痛は、春になっても治まりそうになかった。
視察を終え、二人は次の目的地へと移動することになった。
「タクシー拾うか? それともレンタカー借りるか?」
ケンが提案するが、ダンは即座に首を横に振った。
「電車だ。電車でいい。山手線で行くぞ」
「えー? 混んでるし面倒じゃん」
「車だとどうせオレに運転させるだろ。お前も免許持ってるくせによ」
ダンがジト目で睨むと、ケンは悪びれもせず、甘えたような口調で言ってきた。
「オレが運転するのはデートのときぐらいだけど? 男しかいねえときとか、兄貴がいるときなら任せていいじゃん。兄貴は運転も上手い方だし? なんなら兄貴はオレに頼られたら嬉しいんじゃねえの?」
「……お前なぁ。その性格、いつか矯正してやるからな」
ダンは毒づきながらも、結局は駅の改札へと向かった。自分で運転してしまうと、この弟分が助手席で余計なナビゲートをしてきて喧嘩になるのが目に見えているからだ。
電車に揺られながら、ダンは吊革につかまり、自分の現状を思い出して憂鬱になっていた。
ダンとケン、そして後述するもう一人の男は、現在ルームシェアをしている。
表向きは「ケンが起業し、ダンが経営をサポートする」というビジネスパートナーとしての同居だが、実態はケンの「コレ思いついたからやっといてくれ」という無茶振りを、ダンがひたすら打ち返す日々だ。
大学の友人たちは言う。「お前はもう起業してるから就活しなくていいんだよな〜うらやまし〜」と。
その言葉を聞くたび、ダンは内心で(こっちはブラック企業顔負けの労働環境なんだよ!)とキレそうになるが、友人たちからSPI(適性検査)対策や面接対策を請われると、つい面倒を見てしまう。
「いいか、面接官が見てるのは『正解』じゃなくて『プロセス』だ。お前のそのエピソードなら、結論から話して……」
などと、世話焼きスキルが限界突破している。
その結果、ダン自身の学業はお留守になってしまったのだ。
現在、必修単位不足。卒論はテーマすら決まっておらず白紙。このままでは二留目も確定してしまう……そんなコースを爆走中だ。
理由は「友人相手の世話焼き」だけではなく、無駄なバラエティに富んでいた。
まず、「大学にいるからって格闘家としての修行をサボるのはアレだよな〜」という理由での海外武者修行。ついでに、海外現地での「職場体験」と称したアルバイト行脚。
次に、「経済系の資格って今のうちから勉強しておかないと、社会人になってからの総勉強時間がえげつないよな〜」という理由での、会計士などの資格勉強。
さらに、「せっかくこんな良い大学に居るんだぜ!? モグリじゃなくて正規で講義を受けられるのは今しかないだろ!?」という知的好奇心による、文化学・心理学・言語学・文学などの単位乱獲。これらは卒業要件には一切含まれない。
そして極めつけは、ケンの事業サポートだ。経営戦略、法務チェック、プログラミング、デザイン……マルチタスクにも限度がある。
特に、デザイン学習での悲劇は記憶に新しい。
ダンは「一度強く印象に残ったものを忘れられない」という特異な記憶力を持っている。ある日、徹夜明けでロゴデザインをしていた時のことだ。
「兄貴、このロゴ……八〇年代の有名なブランドのやつに酷似してるぜ?」
朝起きてきたケンが、モニターを見て指摘した。
「えっ!?」
ダンが慌てて確認すると、確かに教本の隅に載っていた海外ブランドのロゴと、ラインの構成が瓜二つだった。
「ああっ! 教本にあったやつだ……な、なんでオレはこんなことを……? 寝不足だったかなあ……」
「パクリになるから直そうな。商標権の侵害で訴えられたら面倒だぞ」
「ううっ……二度手間だぁ……無意識に記憶から引き出しちまった……」
このように、万能だろうがなんだろうが、身体が一つしかない以上、物事をこなせる総量には物理的な限界があるのだ。そんなわけで単位は足りない。卒論のテーマも決まらない。なんとか学位は取りたいので、ダンは日々頭を回しているが、スケジュールは未だに定まってはいない。
(……あと一回ぐらいは留年するか。もしくは卒論が間に合わねえ前提で動くか……いや、留年も四回が限度だ。そろそろ現実を直視してスケジュール管理しねえと……)
ダンは現実逃避気味に、流れる車窓の景色を眺めた。
対するケンは、フル単、ストレート進級。
「エンタメのトレンド把握」と称して映画、ゲーム、レジャー、流行食巡りと遊び歩いているが、興味と実益が一致しているため無駄な単位は取っていない。そのうえ学業成績は優秀だ。過去問の収集なども手際よく済ませている。要領がいいとはこのことだろう。
ただし、女遊びでのトラブルは枚挙に暇がない。
「オレが『面倒見る』っつったのはこういうことではねえけど!? シェアハウスに女を連れ込むな! 掃除してるときに長い髪の毛とか落ちてると気が滅入るんだよ! せめてヨソでやってくれ!」
ダンの苦言もどこ吹く風。ケンは「自分自身のスケジュール管理」だけはシビアに行っているため、破綻はしていない。一見無法者だが、計算高く、現実も見えている。ダンよりもしたたかである。
(……まあ、やりたいことのために周囲をこき使うことに躊躇いがねえのが一番の問題なんだがな。思いつきの変なアプリを採算取れるように方向性を変えさす身にもなれよなあ)
その時、ケンのスマホが震えた。
「……ん? 『マスターズ・コーポレーションの不祥事発覚』か」
ニュース画面を見て、ケンは冷ややかに笑った。
「金持ち同士の食い合いか? くだらねえ。じいさんしか残ってなかったとはいえ、結構しぶとかったと思うんだがな」
「……いや、タイミングがおかしくねえか? 裏で何かが動いてる気がするな。敵対的買収の下準備にしちゃあ、手際が良すぎる」
ダンがコンサルタントらしい顔つきで眉をひそめた瞬間、車両の連結部から黒服の男たちが近づいてきた。周囲の乗客とは明らかに異質な、鍛え上げられた身体つきの男たちだ。
「ケン・■■様、ならびにダン・ヒビキ様ですね。『神月財閥』よりご招待に上がりました」
恭しく差し出された、金の箔押しがされた招待状。
それを見て、ダンはあえて空気を軽くするために口を開いた。
「おっ、もしかして!? ケン、お前の見合い話かもな! 政略結婚ってやつ?」
「あぁ!? 相手何歳だと思ってんだよ! あり得ねえだろ!」
「ん? 九個下だろ……確かに今の年齢だと見栄えがアレだけど、十年後とかその辺見据えてんじゃねえのか? 先行投資だろ」
「やめろやめろ! オレにそんな趣味はねえっ!!」
ケンが顔をしかめるのを見ながら、ダンは内心で(コイツ、今のまんまだと自由すぎるし……さっさと結婚かなんかして落ち着いてくれねえかな……)と切実に願っていた。
黒塗りの高級車に乗せられ、到着したのは都内某所にある広大な屋敷だった。門から玄関まで車で移動するレベルの、正真正銘の「お屋敷」だ。
通された応接間に現れたのは、一〇歳の少女、神月かりんだった。
縦ロールの金髪、自信に満ちた瞳、そして全身から立ち昇る圧倒的な気品。
その姿を見た瞬間、ダンとケンは同時に息を呑んだ。
(……この子は、タダモノじゃねえな。一〇歳? 冗談だろ)
圧倒的なカリスマと、完成された立ち居振る舞い。すでに次期当主としての貫禄が備わっている。一般的な子どもとして扱っては火傷するタイプだ。
「ようこそおいでくださいました」
かりんは優雅に微笑み、そしていきなり本題を切り出した。視線はケンではなく、ダンに向けられている。
「我が神月の幹部の者たちや、系列会社の経営者にも優秀な執事がついて居れば、より円滑に業務が進みますわよね?」
「……はあ。それは、人的リソースの最適化という観点では正しいかと」
ダンが条件反射でビジネスライクに答えると、かりんは満足げに頷いた。
「そこの一見冴えない風貌のあなた。わたくしの目は誤魔化せませんわ。この栄光ある家に仕える気はありませんこと? あなたのような人材を、野に置いておくのは損失ですわ」
単刀直入なヘッドハンティングだった。かりん本人にはすでに優秀な執事・柴崎がついているため、ダンを組織の要職、あるいは子会社の補佐役として組み込みたいらしい。
「おいおい! スカウトなら二人まとめてじゃねえの!?」
ケンが抗議すると、かりんは「ほほほ」と扇子で口元を隠して笑った。
「あなたを? ご冗談を。あなたを誘っても無駄なことくらい、一目瞭然ではなくて? あなたは誰かの下につく器ではありませんし、我が家の家風には合いませんわ」
ケンの性格――大財閥や組織の規律を嫌う性質――を完全に見抜いていた。
ケンは鼻を鳴らし、即座にダンの肩を抱き寄せた。
「へっ、よく分かってんじゃん。……いや!? だとしても、こいつにはオレが首輪着けてるから!! 他人にくれてやるわけねえだろ!」
「首輪って……はあ」
ダンは呆れた声を出した後、かりんに向き直り、スーツの襟を正した。
「ありがたいお話なのは重々承知しています。ですが、お断りします」
ダンは真摯な眼差しで告げた。
「この男の言い方は悪いですが、要するにオレたちは……一蓮托生なんです。その話は受けられません」
丁寧な敬語。それは相手がお嬢様だからではなく、ダンが彼女の「長(おさ)」としての器量に敬意を払ったからこその言葉だった。
かりんはケンの独占欲に呆れつつも、ダンの誠実な態度には好感を抱いたようだ。
「……そうですか。残念ですわね。まあよいでしょう。それと、堅苦しいのはよしなさい。あなたとは、もう少し気楽に話したいですわ」
「……恐縮です。では、お言葉に甘えて」
そこに、「誰か」が割って入って来た。
「すまない! 神月さん、遅れた……あれ? なぜ兄さんたちがここに?」
重厚な扉が開き、シャツにジーパンというラフな格好のリュウが入ってきた。
彼は現在二〇歳、大学一年生だ。
一七歳の頃から世界を放浪していたリュウは、各地の「文化」や「生活」に強い興味を持った。その話をダンにしたところ、ダンの教育熱に火がついたのだ。
『お前も学問に興味があるヤツだったんだな!? じゃあ大学はいいところだぜ!! 学費さえ払えば学びたい放題だ!!』
一般的な日本人からすると大学とは就職の踏み台なのだが、ダンとケンは自力で起業してしまっているので、本来の役割である「学ぶこと」のほうを重視している。
『じゃあリュウもオレらが通ってるとこに来いよ!』
ダンのお節介なリモート家庭教師(個人の適性に合わせた的確すぎる指導)のおかげで、リュウは見事合格。「高校どころか義務教育にも行っていないのに、難関大学に合格した」という経歴が逆に面白がられ、大学ではすでに、入学早々多くの友人に囲まれているらしい。
「リュウまで……。いったい、何のために暗殺拳の三人を集めたんだ?」
ダンが問うと、かりんは不敵に笑った。
「どうしても手合わせ願いたい相手がいましたの。噂に聞く暗殺拳。その実力を肌で感じたくて」
「ターゲットはあなたよ、ケン・■■」
かりんが指名したのはケンだった。ダンは「手加減しすぎる」、リュウは「真面目すぎて断る」と判断されたのだ。消去法とはいえ、妥当な人選だった。
第一試合、神月かりん対ケン。
屋敷内の道場にて、二人が対峙する。
一〇歳とは思えないかりんの技量。「神月流」の華麗な技の数々に、最初は舐めていたケンも「こいつ、マジかよ」と本気になる。
しかし、体格差と経験差はいかんともしがたい。ケンは彼女の鋭い打撃を巧みに「往(い)なし」続け、最後は軽い足払いで転ばせた。
「はい終了〜。怪我させたら兄貴に怒られるしな」
「……くっ。今のわたくしではここまで、ということですわね」
かりんは悔しがりながらも、潔く敗北を認めた。その態度は立派な武道家のそれだった。
「では次に、完成された暗殺拳同士の立ち会いを見せていただきましょう」
かりんの要望により、第二試合はリュウ対ダンの模範試合となった。
二人が向かい合った瞬間、道場の空気が一変した。
「型」の演舞ではない。実戦形式の組手だ。
リュウが重厚な踏み込みから波動拳を放つ。ダンはそれを真正面から受けるのではなく、独自のステップで軸をずらし、回避しながら間合いを詰める。
「兄貴の動き、セオリー無視しすぎだろ」
ケンが解説する通り、ダンの動きは変則的だ。気配を消しての裏回り、フェイントを織り交ぜた牽制。
かつては、才能ある弟弟子たちに追われることを焦り、「いつかは完全に追い抜かれて、先にどんどん進まれて、弟たちの影すら踏めなくなるのでは?」と恐れていたダン。
だが、今の彼にその焦りはない。
(……オレはオレのやり方で、こいつらと渡り合う!)
波動を掌に滞留させ、相手の体勢を崩すオリジナルの投げ技。リュウの真面目さを逆手に取ったトリッキーな攻め。
「ははっ、やるな兄さん!」
リュウもまた、心底楽しそうに拳を振るう。
互いに寸止めで終了。汗だくで笑い合う二人を見て、かりんはある確信を得たようだった。
「強さとは、ただ破壊するだけのものではない……。あの日、わたくしが見た「彼」――豪鬼という男の背中に通じるものが、ここにはある」
ダンは、かりんのその呟きに、「ん!?」と問い返した。聞き間違いでなければ、「豪鬼」の名が出たのだが。何故神月かりんがその名を知っているのだろうか……?
「あの、聞きたいことが一つあるんだけど……」
「何かしら」
「なぜ……ウチの師叔の名をご存知なんです……なんだ?」
「あら? あなたがたも知っているものと思っていたのだけれど。彼はとある犯罪組織を壊滅させた経歴の持ち主で……」
ダンは頭を猛烈に回転させた。なんか聞いたことがあるな???
「それらしき事件は聞いたことがあるけど……え? 神月家のお歴々はどうしてそれを知ってんだ……ど、どういう……?」
「わたくしたちは地球全土に情報網を張っておりますもの。それぐらいのことは把握済みですわ!」
それからよく響く高笑いを決めた。三人の門弟たちは顔を見合わせた。豪鬼本人は「監視カメラは避けたつもりだが」と言っていた気がする。つまり、神月家の情報収集能力が尋常ではないということだ。
ダンが、頭を抱えつつ、一応釈明した。
「言っておくけど! 暗殺拳……今はもう殺しは禁じ手だけど。とにかく、あそこで習ってた連中がみんなあんなんな訳じゃないぜ!? 豪鬼さんはUMAの類いだからな!?」
「わたくしはなにも力量のことを指しては言っていませんわ。あなたがたには、その「志」があるということよ」
そう言われてしまうと、ダンは反論する気を削がれてしまった。今の豪鬼は徹底して、「殺さない破壊神」なのだ。自分たち三人がそれと同じような意気込みで勝負に臨んでいるのかと問われると、……「そうです」としか言いようがなかった。
「今はまだ及びませんが……いずれ、あなたがた全員に本気を出させて見せますわ! 特にあなた! 首を洗って待っていなさい!」
帰り際、かりんはケンを指差して高らかに宣言した。
高笑いと共に去っていく彼女は、まさに春の嵐のようだった。
三人は夜の東京を歩いていた。勝負後もいくらか質問攻めに遭い、何故か夕食まで振る舞われることとなったからだ。ダンは「テーブルマナー」などという滅多に使わない動作でガチガチに硬直した腕を回して、いくらか筋肉をほぐした。街灯がアスファルトを照らしている。見回すと、まだ酔っぱらいの姿はない。日付を跨ぐ前の、まだ静かと呼べる時間帯だった。
「すげえお嬢様だったな……嵐みたいだった」
ダンが呟くと、ケンが肩をすくめた。
「たく、余計なライバルが増えたぜ」
「だが、いい目をしていただろう? 将来が楽しみだ」
リュウが穏やかに笑う。
その時、ケンがふと思い出したように言った。
「そういや兄貴、明日の朝一で必修のレポート締め切りじゃなかったか?」
ダンの足が止まった。レポート、必修、切り口が思いつかなくて後回しにしていたもの。
「……え?」
「いや、『え?』じゃなくて。オンライン提出の期限、明日の九時だろ? まだ一文字も書いてねえって言ってなかったか?」
「あ゛っ!!! 忘れてた!!!」
血の気が引いていく音が聞こえた。早く帰らねば。あのレポートは今どき珍しく、用紙に印刷してからの提出を求められるものだった。家にあるプリンターとラップトップが恨めしく主人の帰りを待っている……そんな幻覚がダンの頭にちらつく。
ダンは腕時計を見た。終電は……微妙な時間だ。
「帰るぞ! 乗り換えが……間に合わねえ!!! タクシー拾えタクシー!!」
「ははは! 兄さん、走ったほうが早いんじゃないか?」
「他人事だと思って……!! くそ、間に合わなかったらスマホでクラウドから資料引っ張ってきてフリックで内容書いてその辺のコンビニか製本屋で印刷しねーと……あー、面倒くせえな!! やりたくねえ……!! 頼む、間に合ってくれ〜!!」
騒がしく走り出す三人の背中に、春の夜風が優しく吹き抜けていった。
おまけの話
ケンの名字が伏字なのは、改姓したとかそういうことです。