オレは朝陽のまぶしさで目を覚ました。壁に掛かった時計の針は、ちょうど午前の五時を指している。
よし、いつもと変わらない目覚め……ほんとか? いや、ちょっと早すぎるだろ。なんでこんな時間に……と思いかけ、隣で寝ている弟弟子を見た。コイツがマジメすぎるから連鎖的にオレもこの時間ぐらいに起きてるんだよな。これっていい影響のハズなのに、なんか釈然としねえ。
まあ、起きてしまったものは仕方がない。オレは決まり切った手順で、体に張り付くような掛け布団をはぎ取り、手早く片付けにかかる。
リュウのやつはまだ寝ている。ここ数日は、オレの破門だかなんだかの騒動が一段落して気が緩んだのか、オレが起きても目を覚ます様子はない。別にいいだろう。弟弟子のほうが先に起きて雑用をこなすべし、などという厳格な掟はこの寺にはないはずだ。自分の分だけやらせればいい。オレの対応が特別甘いわけではない。……たぶん。
オレは自分に対する言い訳のような文句を脳内で並べつつ、布団を担いで屋根裏部屋へ向かった。通用口から屋根の上に上がり、物干し竿に布団を掛ける。
ふと空を見上げてみると、五月の空はまだこの時間だと濃い紺なのか……と思わせておいて、地平線の方を見下ろせば、目が焼けるほど鮮やかな赤が迫っている。強烈なコントラストに、まだ寝ぼけていた頭が叩き起こされた。
もうすぐ夏が来ることを感じた。若葉が放つ青臭い香りと、朝露を含んだ湿り気のある土の匂い。修行明けのやけに熱がこもる体には、からりとした五月の風が透き通るように冷たく感じる……心地よかった。この季節ぐらいが一番過ごしやすい。大した時間もたたぬ間に、オレの嫌いな夏がやってくるのがだいぶ惜しい。
オレが屋根の上でその場にしゃがみ込み、しばし風を感じていると、下の部屋で物音がした。
リュウが通用口からひょいと顔を出し、俺と目が合うと、少し照れくさそうに笑った。
「おはよう」
「おう。もう少し寝てたっていいのによ」
「そういうわけにもいかないだろ、よっと」
リュウは自分の布団をオレの隣に並べて掛け、シワを取るために端のほうを念入りに引っ張っていた。
「兄さんの分もやったっていいんだけどな」
「いいよ、自分の分は自分でやるからな」
「それもそうだな。この前なんか、取り込むのを忘れて布団が湿気ていたし」
リュウの痛いところを突く指摘に、俺は言葉が詰まった。オレだって湿度と時間帯の関連ぐらいは知っている。あと、日照がどうとかこうとか。そういうことで気温が上がりきった昼過ぎに布団を取り込むつもりなのだが、あまりマメな性格でない俺は、ときどき夜まで干しっぱなしにしてしまうのだ。この山は盆地とは違って湿度は低い方だが、夜露に当てればじめじめするに決まっている。
「いいだろその話は。というか気づいてたんなら、お前がやってくれてもよかったんじゃねえか」
自分で言ってから、弟弟子を便利に使おうとしている自分に気がついた。さっきと考えていることが逆だ。オレはとっさに訂正した。
「いや、いい、今の無しだ。オレの分はいい。たとえ湿気てカビが生えても自己責任だからな」
「湿気るのはだめだろう、カビなんてもってのほかだ」
リュウはあきれたような声を出し、何かに気づいたらしくオレの顔をジロリと見た。
「というかだな、兄さん」
「なんだよ」
「布団って、そもそも朝一番には干さないんじゃないのか? 太陽がもっと高くなってからじゃないと……」
オレはもう一度、空を……真上を見た。まだ全然赤く焼けていない……早朝だ。布団にとってベストなタイミングとしては、そもそも昼前ぐらいなわけで。
ぎくりとした。根本的な問いかけだった。
「……昼前あたりからのほうがよく乾くだろうがよ。分かってるよ。でも面倒だろ。昼間は修行で外に出てるか、山の下に降りてるしな」
リュウがなおも「非効率的だ」と言いたげな冷たい視線をよこしてくるので、オレは黙って自分の布団のシワを伸ばす作業に戻った。
布団を干し終えた後、屋根裏から降りて表の庭に出る。庭師が来なくなって久しいせいで、庭木の形はえらく歪んでいた。オレがこの寺に来た頃は、もっときちんとした丸い形をしていた気がするんだが、今じゃ勝手気ままに枝を伸ばしている。
朝飯を食う前に軽く一戦やっておこうか、とリュウと目が合った。自然と互いが構えに入ろうとした瞬間、オレは大事なことを思い出した。
「あ、いけね」
オレがそう言って背を向けると、当然のように後ろから「どうしたんだ、兄さん」と問いが返ってくる。
「ああ、郵便受け、見に行くの忘れてた。今日がその日だったんだ」
「そうか。三日に一回だから今日だよな」
リュウは構えを解いて、少し神妙な顔つきになった。
「紛らわしいから毎日取りに行けばいいのにな。そのほうが忘れなくて済むだろう」
「だってよお、新聞を取ってるわけでもねえし、週に一通入ってれば多いほうなんだぜ? 急ぎの用事なら直接ここまで来るか、よっぽど呼びたいなら狼煙でも上げるだろ」
オレの適当な言いように、リュウが眉をひそめて顔をしかめた。
「……兄さん、それは冗談だよな?」
「師匠が言ってたんだよ。この山の奥のほうに、人の手じゃ到底仕留められねえようなクマが出たとき、麓の住人が狼煙を上げたことがあったんだと。『来やがれ、助けろ』ってな。電報代わりだったらしいぜ」
リュウは非常にうさんくさそうに、オレの顔を眺めていた。まあ、オレだってマジメにこんな話をするのは自分でも妙だと思う。
「クマって言ったって、この辺に居るのはツキノワグマだろう。猟師がいれば片付きそうだけどな」
「出たのはヒグマだ」
「なんだって?」
「正しく言えば、ヒグマぐらいのデカい体つきの、化け物みたいなツキノワグマだそうだ」
リュウの顔は、ますます疑りの色が濃くなっていく。当たり前だ。オレだって完全に信じてはいない。そもそも師匠、勝手にクマを殺していいのだろうか? 駆除の資格とかあんのか? いや、素手ならいいのか……?
オレは自分でも疑問に思いつつ、いちおう師匠の受け売りをリュウに説明しておいた。
「師匠はさ、『普通は人間が自分の背丈の二倍も跳んだり跳ねたりできん。だがワシらにはできる。なら、普通ではない出来事もこの世にはまかり通るというわけだ』なんて言ってたぜ。クマが化け物じみてるのも、普通じゃない側の一環なんだろ」
リュウは「うーん」と唸って、人差し指を額に当てて考え込み始めた。真面目すぎるんだよな、こいつ。そんなに深く考えたって、答えなんか出ないってのにな。わけの分からん非常識な現象からは目を背けておけばいい。
悩んでいるリュウを寺に残したまま、オレは一人で麓まで下り始めた。以前のオレなら足を取られていたはずの荒れた獣道も、今となっては何の苦でもない。修行で鍛えた脚力を使い、地面を力強く蹴飛ばすようにして勢いよく坂を駆け下りていく。今日は履き慣れたランニングシューズを履いているし、足取りは驚くほど軽かった。
麓に辿り着き、寺への案内看板(文字が掠れて今にも消えそうなやつ)が立っている角を曲がって、郵便受けの方へと足を向けた。その瞬間、オレの耳に異質な音が届いた。
カラン、コロン……。
静まり返った山道に、乾いた下駄の音が規則正しく響いていた。足音だけで分かるほど、あまりにも、気配が極まり切っている。聞いているだけで、身体が反射的に固まる。足音の主は、郵便受けの前に立った。見慣れない男だ、郵便受けをどこか……懐かしそう? な、穏やかな目で見ていた。
逆光の中に佇むその男は、周囲の深い緑を飲み込むような漆黒の着物を纏っていた。波を象った青い刺繍だけが、昇り始めた陽光を反射して時折、冷ややかに明滅している。男はこちらの気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返り、オレの顔をじっと見つめてきた。
短めに切りそろえられた髪は赤みがかった濃い茶色。瞳は薄い茶だが、陽の光の加減か、どこか熱を帯びたような赤みが奥に潜んでいる。今どき珍しい、本格的な和装がよく似合う伊達な男だった。
足元をちらっと見ると、足袋を履いていて……高下駄だった。いちおう二本歯ではあるが……正気とは思えない。
まさかこの男、この険しい山道をあの下駄のまま登る気なのだろうか。無謀だ。裸足のほうがまだマシだと思えるほどだが、男の立ち姿には微塵の揺らぎもなかった。
オレは用心深く、その風変わりな来訪者に用件を尋ねた。
「あの、この寺の……剛拳師匠にご用ですか?」
尋ねてみると、男は「?」と一度だけ首をかしげ、それから何かに納得したように口元を緩めた。
「ああ、そうか。兄さんがよこしてくれた手紙に書いてあったな。弟子を取っている、と。お前さんがそれにあたる、というわけか」
「……『兄さん』?」
おい、今この人はなんて言った。話の流れから考えれば、この人の言う「兄さん」とはつまり……。
「あなたは、つまり、師匠の弟さん……なんですか?」
オレは思わず問い返していた。以前、どこかで聞きかじった噂では、師匠の弟はとっくの昔に破門されているはずだ。禁足の地に戻ってくるなんて、そんなことが許されるのか。
「ええと……非常に、触れるのはまずそうなんですけどね。あなたは破門になっていると聞いたような気がするんですが」
「ああ。そうだけど。知られているのか、少し気恥ずかしいな」
即答だった。あまりに屈託のない返事に、転びそうになった。
て、照れるとか、そういう問題でいいのか……ッ!? 笑顔が無駄に爽やかで、人懐っこそうな、見ているとなんか……剛拳師匠ではない、誰かに似てるような気がする……ッ。
「ただ、俺を破門したのは轟鉄総帥だからな。轟鉄総帥は今は飛昇のために遠くの地で励んでいるようだし。今ここに居るのは、兄さん、俺の息子、それにお前さん。その三人しか居ないようだから、久しぶりに来てみるかと思い立ったわけだ」
ほんっとうに、力が抜けてきた。この人、破門という言葉をすごく軽く考えていないか……? オレが「破門されるかも」と死ぬほど悩んでいたことが、なんだか急にバカらしく思えてくる。
いや!? それより、今さらっととんでもないことを言わなかったか。
「え、あの……あなたの息子さん、って?」
「ん? リュウのやつだよ。本人から聞いていないか?」
「ああーっ!! そうですよね、リュウしか居ませんよね! オレはまったく聞いていなかったんですが!」
オレは頭を抱えたくなった。え、この人ってつまり、師匠の弟で、だったらリュウって、師匠の甥っ子……というわけで……。
「あいつ、送り出したときは、俺がこの寺に言付けてよこしたはずなんだがな」
「いや……そうじゃなくって! オレの中で、あなたが師匠の弟であることとリュウの父親であることが結びついていなかったというか……。その、とんでもない勘違いをしていたっていうか……」
リュウの親父さんは「ん?」といぶかしげだ。オレは自分の思い違いが恥ずかしくなり、謝ったほうがいいと判断して早口で言い訳を並べた。
「いやあ……リュウのやつ、実の父親から赤の他人にいきなり預けられたのかと思ってて。今思えばありえないんですけど、そりゃあ親戚に預けるに決まってますよね、自分の子供を任せるんですから。いや、その、なんというか、すいませんでした!」
オレが必死に釈明しているのを、親父さんはぽかんと眺めていたが、オレが言い終わると「ふふ」と声を漏らして笑った。
「お前さんは正直というか、馬鹿正直だな。わざわざ俺の前で自白しなくてもよかったんじゃないか?」
「なっ」
「言わなければ誰にも気づかれまい。そのほうが自分の印象を傷つけなくて済むだろうに」
確かに一理ある。だが、オレは言い返さずにはいられなかった。
「そりゃあ、要領のいい大人ならそれでいいかもしれませんけど! オレは、自分が間違ってると分かったら、言っておかないと心のどこかがムズムズして落ち着かないんです! 要領が悪いなんて、あなたに言われなくたってちゃあんと分かってんですよ!」
オレがむきになって主張すると、向こうは満足げにうなずいた。それから、からからと声を出して笑った。底抜けに明るかった。それを見ていると、どうしたって毒気を抜かれてしまう。
「そうか。いや、意地の悪いことを言ってしまったな。悪い。許してくれ」
それから、にいっと白い歯を見せて笑った。屈託のない笑顔を向けられ、俺はなぜだか心臓がひやりとした。
明るくて、朗らかで、ちょっとしたことで機嫌よく笑っている。その笑い方、冗談を言うときの声の作り方。それだけじゃない。この人の周りにある空気――使い込まれた刀のような気配と、どこかひょうきんで、それでいて相手を試すような眼差し。それが、記憶の中にある自分の親父の姿と、どうしようもなく重なってしまった。顔の造りなんかは全然似てないのに、人としての在り方が、似すぎていた。
もうどこにも居ない人だ。似ているなんて、ただの偶然に決まっている。だとしても、俺は鼻の奥がツンとするのをこらえるのに必死だった。
「ん、どうかしたか?」
向こうが気遣うように覗き込んでくるので、オレは慌てて首を振った。他人のこういう感情の揺れにすぐ気が付くのも、よく似ていた。
「いや。なんでもないです」
オレは改めて、郵便受けの中を調べていた……。よし、今日も空っぽだ。後ろで律儀に待っている人に声をかける。
「……上に寄るんですよね。一緒に行きますか?」
「そうだな、リュウは出かけてないよな?」
「はい、寺に居ますよ」
オレは親父さんの歩調に合わせて、再び山道を登り始めた。アスファルトの上とはまた違う響きの軽快な音を立てて坂を上がっている。その足さばきは、不自由な下駄を履いているとは思えないほど地面を正確に捉えている。
オレは親父さんの横顔を見ていた、「美丈夫」とかいう単語を小説かなんかで見かけたときには、どういう顔のことなんだろうと思っていたのだが。なるほど。こういう顔のことかもしれない。
師匠とはあんまり似てないな……そこまで考えてから、はたと思い至った。
「そういえば、お名前を伺っていませんでしたね」
「はは……そうだな。ひとつ尋ねるが、その答え、兄さんから聞いたことはないか?」
また人を試すような言い方だ。かるーく笑って、へらへらとして、こちらの反応を面白がっている。オレはちょっとむっとしながらも、その「試し」に乗ってみることにした。
「えっと、待ってくださいよ。名簿に名前があったような……」
入門して間もない頃、蔵の整理で見せてもらった古い帳簿。オレは拳に顎を乗せ、記憶の糸を手繰り寄せた。
「あっ。思い出した。確か……ゴウキさん、でしたよね」
「その通り。漢字も知っているな」
ゴウキさんがなおも楽しそうに笑っているので、オレは脳内を探り出す。
思い出した。そこで、口が大きく開いて、動けなくなった。あの異様な文字列。その文字の並びを見たとき……あの時、名簿を見て、思わずその名を指でなぞってしまった……。
「豪傑の「豪」に、人を食い殺す「鬼」……と書き、豪鬼、さん……?」
豪鬼さんは「いかにも」とうなずいた。相変わらずの笑顔だったが、視線が合った瞬間、オレの背筋に冷たいものが走った。
その人の瞳の奥に沈む、血のような紅の色。いつの間にか空を染め上げつつある朝陽に照らされて、その色は微かに揺らめいた。それは昔何処かで見た、川辺りで咲き誇っていた彼岸花――のようでもある。その「赤」を見ていると、目が痛くなるほどに、熱い。まるで、底の知れない峡谷から、恐ろしい獣がこちらを覗き込んでいるような、身を焦らせるおそろしさが迫ってくる。
破門。その言葉の本当の重みが、ようやくオレの胸にのしかかってきた。この……いたずらっぽいけど、どう見たってお人好しにしか見えない人。それなのに、どこまでも血の匂いがつきまとう人。
この人は一体何をしでかして……破門に……そんな汚名を背負うことになったのか。その本当の理由を、オレはまだ、何も知らないんだった……。
「こんな男のどこが「豪鬼」なの!?」と思ったかもしれませんが、繰り返します。この二次創作は、公式設定を完全に無視しているのです。
おまけのQ&A
Q どうしてダンは豪鬼さんの男前な外見に反応しているの?
A ダンは「自分の容姿は、どうしようもないレベルで冴えない」という劣等感を抱えているからです。
男前を見ると反射的に、なんだかイライラしたり、一周回って褒めちぎったりします。