ジーイジーイ。ジジジジジ……。蝉の声がだんだんとやかましくなってきた気がする。そんな七月の朝、オレは目覚める。朝ならまだギリギリ暑くもない。そんな時期だった。
もそもそと布団をたたみ、今日は縁側の近くに立てた(最近オレが買ってきて組み立てた)物干し竿に干しておいた。リュウが見たらまた小言でも言うのだろうが、まあいいだろう。
井戸で水を汲み、洗面所でばしゃばしゃと洗顔をやっていると、目の前の鏡にリュウが映る。オレの背後十メートル付近にぼんやりと立っている、どうやら今起きたらしかった。
上の方にひび割れを起こしているその鏡をじっと見つめていると、鏡の中のリュウと目が合った。思わず顔が笑ってしまう。
リュウはオレのほうに来て、寝ぼけた声で言った。
「おはよう、兄さん。かけてあった布団は取り込んだぞ。昼前に干し直してくれ。忘れるなよ?」
「おはよ……ええ……?? とうとうその手で来たか。この野郎、オレ、干すのしょっちゅう忘れるから嫌なんだって言ってんだろ」
「知ってるよ。でもいつまでもズボラでいられても困る」
そっけなく言って、リュウは自分の手桶から水をパシャリと取って顔にかける。まったく、けっこう良い性格をしているんじゃなかろうか、こいつ。
そんなこんなでいつも通りの朝を迎え、ちゃぶ台を囲んで三人で朝食を取っていると、師匠の口からいつも通りではない宣言が飛び出た。
「わしは今から外に出る支度をするから、今日は自習にしておく、くれぐれもダンがさぼらないように見張っておいてくれ」
リュウを見やってそんなことを言うものだから、オレはつい口を挟んでしまう。
「いや、オレはさぼったりしませんから。というかそうじゃなくて、外に出るんですか? 支度ってなんですか?」
「ああ、言い忘れておったな。今日は遠い知り合い……本当に、かろうじて知り合いと言えなくもないぐらいの知り合いなんだが、そいつがわしに相談があるというんでな。まあ、助けになってくれ、と言われたなら行くしかあるまい」
そんな連絡をいつ受けたんだろうと考えてみると、そうか、と思い当たった。そういえばうちは電気と電話だけは通っているんだった。朱雀城の反対側の山にぽつんと電柱や鉄塔が建っているので妙に目立つんだよな。電話に関してはなぜかオレはめったに使わせてもらえないのだが。おかげで麓まで下りるはめになっているんだぞ。
「そういえば、なんで師匠が電話を独占してるんですか。オレの部屋にも置いといてくださいよ」
「むっ、そろそろ時間だ。それではまたな」
とんでもなく雑な話題の切り替えにより、師匠はこの場から去った。二人で残されたオレとリュウはなんとなく顔を見合わせる。
「だとさ。どうする? リュウ」
「どうするもこうするも……。まずは座ってやるほうの勉強だろうな」
座学かー。そういえば最近は、師匠が「こう暑いと真っ昼間では勉強もやる気が出ないだろう」というよくわからん気配りを見せてくれるおかげで朝っぱらから勉強机に向かっているのだ。でもさ。今日は師匠はいないんだぜ?
「なに? ほんとにやるのか?」
オレが問い返すと、リュウが当然のごとく言った。
「日々コツコツと時間割をこなすのは大切なことだ、格闘家だからといって教養をおろそかにするな、っていつも言われてるだろ?」
真面目だっ! ここはほら、今日は体力作りと組み手だけして、あとはシャバで好き放題遊ぼう! とならないものか? オレ、体を動かす訓練ならともかく、机にかじりついて勉強ってのは好きじゃ無いんだよな……。期待を込めリュウを見ていると、さっさと自分の食器を手に持って台所に向かった。洗い終わったらすぐ勉強に取りかかるのだろう。ぐっ、とりつく島もない。こうなったらオレもやらないと示しが付かねえ。ちょっと落ち込んでから、オレも自分の食器を取り、組んでいた足を解いて立ち上がった。
食器の片付けが終わるとオレたちは自分の部屋でいったん寝間着を普段着に着替えてから講堂に向かった。向かう途中で着物姿の師匠が山門から出て行くのが見えた。着物と言ってもねずみ色の、無地の地味な単衣なのだが。妙に様になっている。豪鬼さんといい、和装が似合う、そういう血筋なんだろうか。いや、兄弟にしては顔は似てないんだけど。こういう姿は似るって不思議な話だよな。
講堂の引き戸を開けると、そこの厳めしい内装には似つかわしくない子供用の勉強机が三つ。三つともオレが来る前からあったもので、相当年季が入っている。つまりは師匠と豪鬼さんと、あと誰か一人が使っていたものだろう。
残りの一人は誰なのだろうか、一度師匠に尋ねてみたが「あまり言いたくない」などと言われてかわされてしまった。なんだろう、よっぽどその人のことを話すのは気まずいのだろうか。ん、いや、心当たりはないでもない。リュウのお袋さん、つまり豪鬼さんの嫁さんが、ここで幼なじみとして育ったとかなんとか……聞きかじっただけだが。お袋さんはもうこの世には居ないということらしいし……それはまあ、言い出しにくいだろう。
リュウは三つある机のうちの一つ、少しだけ幅が狭く暖かい色をした机に向かった。そう、リュウはその「誰のものだかわからない」「もしかしたら母親のものかもしれない」机を使っているのだ。リュウにそのことが気にならないか聞いてみたが、「使えるならなんだっていいじゃないか」となんとも思っていない様子だった。うーん、物怖じしないヤツだな。
リュウは机に備え付けられている本棚からノートを取り出し、ぺらぺらとめくっていく。
「漢字の書き取りは昨日やったし、今日は算数からでいいか」
オレは師匠が使っていた(らしい)机に向かい、本棚から英語の小説を取る。
「じゃあオレは英語で」
「兄さん、それ、勉強と言いながら適当に小説でも読む気だろう」
うっ、さすがにこの手は何度も通用しないか。なにを隠そうこのオレは英語(イギリス式が得意だ。アメリカのは方言だと思ってる)、中国語(広東語か普通話ならどんと来い)、日本語の読み書き聞き喋りは一通りこなせるのである。あとはまあ、ヨーロッパの言葉ならまあまあわかるってぐらいだな。
娯楽本を読んでいても最初のうちは「なんだかよくわからないが外国語の本を読んでいるな?」で誤魔化せたが、三回目当たりから「兄さん、そもそも外国語を勉強する必要はあるのか? それ全部読めてるよな? ただ暇つぶしをしているだけだな?」と聞かれた。まったく勘のいい弟弟子だ。オレは開きかけた小説を閉じ、仕方なく適当な教科書を取ろうとした。ちっ、ちょうど主人公がボコボコにやられてこれから反撃だってシーンだったのに。
仕方なくオレも算数の問題集を選んで無言で解いていく。さすがに問題集はお下がりではなく、師匠が近くの、近くと言っても徒歩一時間……師匠なら三十分ちょいか? そのへんの本屋で買ってきたものだ。
最初の問題は繰り返し解いてしまって飽きたので、面積や体積の計算を学ぶページに飛ばした。確かに実際の生活でもこういうのは役に立つんだろうけど、わかってても面倒なんだよな。
それから、一時間ほど経った。もうそろそろ飽きてきたし、理科の問題集に切り替えようかなと思いつつ、カリカリ、カリカリ、と鉛筆でひたすら計算式を書いている。
そうしているとでかい音がした。外からだ。があん、があん、金属が打ち付けられる音がしている。
オレと同じタイミングで、リュウもはっと顔を上げた。
オレたちは気づいた「そのこと」を口に出す。その声が、重なった。
「誰かが来たのか?」
山門に備え付けられているノッカー……ここにやって来た客が、「来ましたよ」と、そのことを知らせるための叩き金が、けたたましく打ち付けられているようだ。ガンガンと、やかましい音がしている。門から離れているここにまでうるさく響いてくるのだから、その客がそうとうの馬鹿力であることは確実だ。
オレは学習机とセットになっている頑丈な椅子から降り、門のほうをにらんだ。
「おいおい、師匠に用があるなら途中ですれ違わなかったのかよ?」
オレの言うことに、リュウが首を振る。
「師匠のことだ、きっと「山をまっすぐそのまま下った」んだろう。それだったら普通の道を通ってきた客とは顔を合わせていないと考えていいと思う」
自分の顔の筋肉がこわばるのがわかった。そうだった。師匠はオレ程ではないにしても(ああいう、きちんと生活しろという態度をとるわりに)ものぐさである。オレたちを連れているわけでもない、要するに「足手まといがいない」のにわざわざ「用意されている道」を通るなんて、あの人にとってはひどい遠回りだろう。
まあ、要するに山を直線で駆け下りたのだろう。まっすぐそのまま、道なき道を行ったのだろう。まったく、今日は足袋に草履で出かけていたようなんだが。どういう足腰してるんだ、あの人。
「ちっ、しゃあねえな。客には悪いけど、断りに言ってこねえと」
リュウも席から立つと、ちょっとびっくりするようなことを言い出した。
「待ってくれ。オレたちに用があるのかも知れないぞ」
「なんでだよ。下の知り合いには下で会うだろ」
「いや、さ。こうやって机に向かっていると……これは今考えたことなんだけど。オレたち、学校に入ってるはずなのに全く通ってないし。心配して先生が見に来るようなことだってあるんじゃないか?」
オレの目を見てくるリュウの質問に答えられず、目をそらしてしまった。そういえば、小学校に在籍していることにはなっているらしいが、一日たりとも通ったことはない。
いや、そんなまさか。いまどきそんな熱血教師がいるもんか。こんなとこまで来るのは相当な根性だぜ? いくらオレたちが不登校だからってそんな……。
なんてちょっともやもやした不安を抱えながら、オレたちは門の近くまで歩いて行く。
門の前まで行ってみると、瓦屋根が若干ひび割れかかってしまっている山門の向こう側に一人の子供が居た。見た感じ、綺麗な顔はしているが……たぶん男だった。背丈にしてはでかめのボストンバッグを肩にかけ、仁王立ちしている。
子供と言っても、リュウと同い年ぐらいの背格好だ。鮮やかな、目に痛いぐらいの金髪は耳よりやや長い。そのはずなのに眉は黒いので、おそらく髪を染めているのだろう。
それと、目鼻立ちが整っている。街で見かけたら「え、今の子供はなんだ? テレビの子役かなにかか??」と記憶を探りつつ振り向いてしまうぐらい。顔がいいってだけじゃなく、そうとう強気にも見える。Tシャツにジーパンはいいとして、その年で(どうも本物に見える)革ジャンを着るってのはよほどの自意識がないとやらないだろう。
上下ジャージ姿のオレは微妙に気圧されつつも、そいつの真ん前まで近寄ってなにをしに来たのか問うた。
「おい、ここは見ての通りなんにもねえ寺だぜ。剛拳師匠に用があるのか?」
「ゴウケンセンセイ? そいつがここの道場主か?」
おっと、ここは寺じゃ無くて道場だってことがちゃんとわかっているんだな。それなのに師匠のことを知らない。となると、ははあ、門下生志望ってところか?
うん、そうなるとムゲに追い返すわけにはいくまい。師匠が入門させるかはさておき、いちど中に入らせてやるぐらいはするべきだな。
「悪いが今日は出かけちまったところでよ……。まあ上がったらどうだ。そんなに時間がかかるような用事じゃなさそうだったし。しばらく待ってりゃあ来るだろう。茶ぐらいは出すぜ」
オレはそう言ってからそいつに背中を向ける。親指を立てて、居間のほうを指差した。
「そうか、じゃあ、そうさせてもらう……ぜ!」
金髪が言った「ぜ」の音が聞こえるか聞こえないかの瀬戸際で、そいつの肩に掛かっていたボストンバッグだろう、なにか大きな荷物が地面に落ちる音がした。オレの側頭部の近くに「圧」が迫るのがわかった。とっさに避けると、オレの真上に足刀が振り抜かれるのが見えた。あっ、こいつ、やべーヤツだ!
瞬時に相手と正対する。膝を畳んでタメをつくり、一気に後ろへ跳んで距離を作る。
「なにをしやがる! 危ないだろうが!」
「はあん。弟子のくせになかなかやるもんだな」
金髪はそう言ってつかつかと門の中、つまり敷地内に踏み入ってきた。その口調は生意気そのものとしか言えないもので、リュウの真面目きわまるしゃべりかたに慣らされたオレは面食らった。固まったオレに金髪が口先で追撃を重ねてくる。
「つうか、とても強そうには見えねえっつうか、ぶっちゃけ老け顔の無駄にクドイ顔だし、足短いし、見るからにやられ役のモブキャラクターみてーな見た目だなんて思っちまったけど。なめてかかっちまったな」
言われたことが衝撃すぎて一瞬記憶が飛びそうになったが、ぐわんぐわんとなる頭を正しつつ叫んだ。
「か、顔って…………。あ、足が……短い……。おま、おま、お前なーーっ!!! そんなもん本人に言う必要があんのかよーーっ!!」
そこから何かしら反論しようと思うも……なにを言っても……無駄な気がした!! ああーっ! 駄目だろ! 勝負とかとまるで関係ないしそんなん! そんなことを言ってこられても知らねえしよーーっ!! というかお前のような美形にそんなん言われたらオレがなに言っても説得力が……。そんな口を利くのは、おま、それは反則っ……だろ!?
そこでリュウが、一歩前に出た。
「おい、見た目は格闘技の腕と関係があるのか? それに、兄さんにいきなり勝負を仕掛けた言い訳にもなってないぞ」
完全になにも言えない状態になっていたオレの代わりに反論してくれたようだ。……いやちょっと待ってくれ、リュウ?? これ完全に、オレが老け顔だとか足が短いとかの、金髪の言い分自体はそのまま通ってないか? いや、そりゃ、外見の自覚はあるから取り繕われたってむなしいだけ……だけなんだけどな!? あまりにもさらっとスルーしていったな!
「ぐおお」と苦しんでいるオレを金髪はバカにするようにして笑った。
「ふん。あながちぜんぜん関係ねえとも言えねえさ。相応の強さってものは外見に滲み出るんだからな」
てめえ、なーにいっちょまえのクチをききやがる、お前絶対オレより年下のくせに……などと思うものの、なんかスタイルまでよくて……台詞がかっこよく決まりすぎていて……なにも言えねえ!
も、もう嫌だ! オレは自己嫌悪をしている場合じゃねえだろ。なんだこのカッコ悪いオレは! やめだやめだ、あいつがこちらに仕掛けた理由もてんでわからねえ、こんな状態で縮こまってちゃ師匠に笑われちまうぜ!
オレは自分の両側の頬を軽く張ると、生意気な相手をきっとにらみつけた。
「やい、てめえ、好きに言わせておけばずいぶんと口の軽い男のようだな。いったいこの寺になんの用があるって言うんだ? たいした用でないならすぐにでも下りてもらおうか」
「はっ、ちょっとけなされたぐらいでうろたえるくせに、今度は強気に出たか。いいぜ、言ってやるよ。オレはな、この道場の看板をもらいに来たんだよ。……主がいねえなら、手始めにお前らを「のす」だけだ」
オレは相手の言い分を聞いて、それがすーっと頭に沈んできてから……。思わず笑ってしまった。
「ふっ……ははは、それ、本気で言ってるのか?」
「なっ、なにがおかしい!?」
むきになる金髪のツラが、初めて年相応のガキらしく見えた。オレはかるーく笑いかけてやった。
「いいぜ、お前の身の程ってヤツを教えてやる。どこからでもかかって来やがれ!」
後ろでリュウが「おい」と止めるような声をかけてきたが、もう遅い。向こうがすぐに走り出してくる、予備動作は……。右の拳を握りこんで腰の近くに引いている、のはフェイントだ。左膝が曲がっている。自分の体重を負担させるために曲がっていて、右足が後ろに回っている。さっきの足刀で見た、そのまま脚をこっちに振り抜いてくるつもりだ。
「わかりやすいんだよ!」
しなるように飛んでくる右足を腕で受け流し、相手が転けそうになる。体勢を崩したところにたたき込む。
「波動……拳!」
「ぐっ!?」
オレの波動が球になる間際に回避しようとしたようだが、遅い。両腕を突き出し、波動で向こうを吹き飛ばした。二、三メートルほど体が吹っ飛び、地面に叩きつけられる。山門の手前に落ちたそいつを、オレはつい心配してしまう。
あ、やりすぎた。と思うのと同時に、リュウが背中側から怒鳴ってくる。
「油断するな!」
その声で意識が冴える。あいつは吹っ飛びながらも受け身の姿勢をとっていたようで、すぐさまこちらに向かっていた。つっても、天と体と地を結ぶ点と線……というか軸……が乱れている。あれではまともに力の作用を起こせないはずだ。とはいえ、もう気は緩めない。
今度こそ、振ってきたのは右の拳だった……その拳を上方向に弾き、拳に体重を乗せるために踏み込んできた左脚の足首を払った。
「がっ……」
オレはもう、続けては手を出さなかった。代わりに、よろけて膝をついた金髪に声をかける。
「これでもうわかっただろうが」
金髪は、たぶんもう、勝敗は理解はできているだろうに声を荒げた。
「うるっせえ!」
しゃがんだ姿勢から、そのままオレの顎めがけてアッパーを仕掛けてくる。首をちょいと動かしてちょうど拳一つ分ぐらいの距離でかわして、カウンターでみぞおちに正拳を叩きつける。「がっ」というにぶい声と共に、金髪は今度こそ倒れた。
前のめりに体勢を崩し、両足の膝を地に着ける。そのままごほごほと咳き込んでいる、リュウが横にやって来て、「やりすぎだ」と短く言った。
「おい、さっきは「油断するな」って言ったろ」
「さっきは、な。今のはもう足払いの時点で勝負がついていただろう」
つんとした言い方だった、本気でやれとか、手加減をしろとか、ややこしいな……。金髪のほうはその言い方が気にくわなかったらしく、なにか言い返そうとするが、またも咳き込んで言葉にならない。
じっとしているとだんだんと頭に上った血が下がってきて、冷静に物事を考えられるようになってきた。
とにかく、こいつはなんでこの年で道場破りなんかしているんだ? どう見てもガキなんだが。ということだ。問いただすにももうちょっと回復を待たねえと……なんて考えていたら、金髪の後ろのほう、つまり山門の向こう側から獣が駆け上がってくるような音がした。
なんだ? と身構えていると、その「なにか」が跳んできて、門の敷居を少し越えたあたりに着地した。
オレは、あまりのことに声を上げる。
「せ、師匠!?」
ずいぶん急いで帰ってきたようで、着物が微妙に乱れている。師匠は金髪をちらっと見てから、「やはりここに来ていたのか」とため息をついた。
「やはり、ってなんですか? そいつ、師匠の知り合いなんです?」
「ああ、いや、知り合いの子供で……。おい、お前ら、手加減しなかったのか」
師匠はいきなりそんなことを言ってくる。闘ったのが前提みたいなセリフだ。おい、この言い方だと「こいつ」とオレ(たちのどちらか)がやりあったこと自体は不思議じゃないって感じだな。一体全体、なにがどうなっていやがるんだ?
混乱しているオレの代わりか、単に自分が聞きたかったのか、リュウが質問をした。
「師匠。こいつが道場破りということで兄さんのほうに食ってかかったので相手をしました。……師匠、まるで動じていないようですけど、もしかして下に行ったときになにかを聞いてきたんですか?」
「ああ、まあな。というか、わしがごちゃごちゃと話すよりこいつに聞いた方がよかろう」
そう言うと、師匠は金髪と、金髪が持っていたボストンバッグをいっぺんに俵のようにして肩に担いだ。どこにそんな元気があったんだか、金髪が抗議の声を上げる。
「おい、おっさん、止めろ! オレは歩ける!」
「おっさ……いや、今は言うまい。お前な、その様子だと今にうっかり気絶してもおかしくはないぞ。ダンが加減出来ていなかったようだからな」
うっ、また言われてしまった。……って、師匠? ふつーに本堂のほうに向かってるんですけど、いいのかな、そいつ連れていって。知り合いの子供ってことだからいいのか? でも、オレに襲いかかってきたんだぜ? 凶暴だぜ? いいのか? とかなんとか考えている内に師匠との距離が離れる一方なので、仕方なく後ろについていく。
本堂につくと、師匠はオレたちに座布団を集めるように指示した。普段は三枚しか外に出していないので、押し入れに入って客に出す用の座布団を持ってくる。それから集めて並べた座布団の上に金髪を寝かせ、師匠がその胸の上に手を当てる。深く呼吸し、気を整えているようだ。
……なにをやっているんだろう。オレはまだ目で気の細かい流れを追える程の修行は積んでいない。と、師匠が深呼吸している間に空気が振動しだして……。収まった。そうするとまた震え出す。
「師匠、いったいなにをやっているんですか?」
しびれを切らして聞いてみると、師匠は目で「今は黙っておけ」と語ってきた。うっ、なんなんだよ。
金髪が咳き込む。「いってえ」とつぶやき、胸から師匠の手をどけようとするのと同時に師匠が手を引いた。それから、師匠がオレのほうを向いた。
「ダン」
「えっ、なんすか」
「肋骨にヒビが入ってたぞ、いちおう繋げたが、もうちょっと力の調節を学んでおけ」
「あっはい……。……って、繋げたってなんですか。骨をくっつけたんです?」
「そう驚くようなことでもない。お前らも修行していればじきに出来るようになるさ」
えっ、そうなんですか? いやありえなくないですか? ふつう人の骨ってそんなに簡単にくっつきます? と言いたくなったがこれ以上聞いてもよくわからん理屈を聞かされそうだったのでやめた。
それよりも、こいつと師匠に話を聞かなければ。オレが目で促すと、師匠が頷いた。
「こいつはな、知り合いの息子……というのは聞かせたな。つい数ヶ月ほど前までは米国に居たということなんだが、最近引っ越してきたんだという」
「へえ」
「それでこの近く……近くと言ってもそれなりに遠いが、小学校で暴れ回って、そこを追い出されてな。退学になったということだ」
「へえ。……は!?」
どういうことだよ、それ。リュウが、もっともな疑問を口にした。
「師匠、小学生に退学なんかあるんですか? オレと兄さんですらいちおう「居ること」にはなっているんでしょう」
「お前らは公立に籍を置いているからな。こいつが追い出されたのは私立だ」
はあ、そういうことか。私立ならありえ……るか!? いやいやいや、それでも普通、小学校を追い出されるようなコトってあるのか?
「そうとうな暴れ馬だったらしくてな。誰の手にも負えなくなった、ということだ。……というようなことをこいつの父親と喫茶店で話している途中にな。わしが「そういえばその息子はどこに居るんだ。姿が見えないぞ」と尋ねると、父親のほうは「あいつはそちらの寺に参りに行くだとか、そんなようなことを……」ときたものだ。当然わしが「なぜ止めなかった」と言ってはみたが、「登る前にあきらめて引き返すだろう」と返されてしまってな……。だが、嫌な予感がしたもので途中で話を切り上げて帰ってきたというわけだ」
だいたいのあらましは聞かされて、それでもぜんぜんわからないことだらけだった。そんで、その「わからないこと」は師匠に聞いてもしょうがなさそうなことだった。
だから、オレは寝ている金髪に聞いた。寝かされている座布団の近くまで歩いて行く。
「おい、お前、なんでこんなムチャクチャな道というか道中の足場悪いし来ても楽しくねえ寺なんかに……というかそれ以前に、なんで道場破りなんか、……いや。そもそもなんで退学になってんだよ!」
「話がバラバラじゃねえか。つなげて言えよ。鈍臭いやつ」
寝ながら金髪はうっとうしそうにしていた。あまりにもストレートな返しにオレは「うっ」と詰まった。金髪はあきれたような顔をしつつ、身を起こしてあぐらをかいた。起きるときに、その金の髪が揺れる。
「ちっ、まず第一に、ここが名のある道場だって知ってるから来たんだよ。ウチの書庫にあったんだ、ここはヒデンのアンサツケン? ……だったっけ、とにかくそういう拳法を伝えてるって」
師匠と目が合った。師匠はオレから目を逸らし、必死でなにか考えている様子だった。おい、門外不出って聞いてたのにどういうことなんだよ。いや、オレの親父も一応名前は知ってたし、もしかして情報が漏れてんのか。金髪はオレたちの動揺など知らずに続けていく。
「第二に、道場破りをやってる理由は強くなるためだ。ただのストリートファイトは金稼ぎにはなるけど、「まともに技と体を使える」やつがあんまり居ねえ。第三はさっきそこのおっさんが言ったろうが。オレが学校中の粋がってる連中にケンカ売って全員ぶちのめしたんだよ」
オレは面食らった。おい! 師匠はそこまで解説してくれなかったぞ! と、というよりもだな? オレが考えていたよりも危険な人間のような気が……。オレがなにかしら言おうとして、その前に師匠が唸るように言った。
「知り合い……というか、大元を辿ると、そいつの母方がいちおうは分家ということになるから、たまたま資料が手元に残っていたのだろうな……」
あ、そういうことか。すげー遠い知り合いって言ってたもんな……いやあ!? 情報の管理がなってなさすぎだろ! というかオレが今聞きたいのはそこではないんだって! これじゃラチがあかねえ。オレは膝を折り、金髪と同じ目線になった。相手の顔を見る。
「お前、……いや、「お前」っていうのもアレだな。まず、名前はなんてーんだよ」
「そっちが先に名乗りやがれ」
ぐっ、かわいげがない。と思って口をへの字に結んでいると、リュウが「それももっともだな」と口を挟んできた。
「オレはリュウ。名字は言えない」
リュウがオレを見る。目で「次はそっちだ」と言ってくるので、オレも乗っかる形で「姓は火引、名前は弾、だ」と短く告げる。
金髪はオレたちの名乗りを聞くと、しぶしぶといった様子で口に出した。
「……ケン。だ。姓は名乗りたくない。おい、それで、他になにが聞きたいっていうんだ」
「あ、ああ。……お前、さっきからすげえぶっきらぼうじゃねえか」
「ああ?」
そうだ、そうやってスゴんでくるし、なんかこいつ、周りは全部自分の敵だと思い込んでいるような……。そういう感じがあるんだ。
その雰囲気はどうしようもなく似ていた。ここに来たばかりのオレに。……気のせいだとはとても思えない。
だから聞いた。それが地雷であろうことはわかっていても聞いた。聞かなけりゃ、とてもではないが納得できないから。
「ヒトは理由もなく道場の看板を持って帰らねえし、その年でストリートファイトしねえし、学校を追い出されねえだろ」
「なんだ、お前。ケンカ売ってんのかよ。その顔で」
「顔は今関係ねえし!? ……いやそうじゃねえだろ、お前、こんなに荒れてる理由が……あるんじゃないのか」
オレは参ってしまって、師匠のほうを向いてしまった。師匠は事情を聞いていて、全部わかっているんだと思ったから。でもオレの質問には答えない。そりゃそうだろう。オレは金髪……じゃなくて、ケンに聞いているんだから。仕方なく、オレはケンに向き直る。
「事情があるんなら、話せば良いだろ。そうしたら、オレだってケンカを買わずに済んだかもしれねえし」
「はっ、上から目線かよ。……なにも知らないからって、よく言えるぜ」
オレが思わず声を荒げそうになったところを、リュウがぴしゃりと正した。
「それはお前がなんにも言わないからだろう? 挑発に乗った兄さんも兄さんだけど、そもそもはお前が先に手を出したんだしな」
そこですっと、あったまっていた頭が冷えて、向こうも黙った。黙ってから、喉の奥から出た、掠れた声が聞こえてきた。
「お前らにはわからねえよ。オレがどうしてこんなことをしているかって……」
師匠が、そこでオレのほうを向いた。
「ダン。肉親を喪ったのは、……なにもお前だけではないんだぞ」
諭すような言い方だった。師匠のその声が遠くに聞こえた。だだっぴろい本堂に、その声が響いて、オレの耳に返ってくる。
その言葉で、リュウのほうを見てしまう。向こうも、とっさにオレを見た。まじまじと顔を見合わせて……全部わかってしまった。こいつの抱えている事情が……。
ケンを見ると、目を見開いて「そんな」とつぶやいていた。
「その言い方だと、コイツも同じ事情で……? じゃあ、この寺は、そういう子供が……」
師匠はその問いに、ゆるゆると首を振った。
「結果としてそうなっているというだけだ。もっとも、総帥の代からそのような役割は果たしていたような気はするが」
師匠の言うことが、繰り返し頭に聞こえてきた。ああ。そういうことだったのか。オレはケンのほうを見てから、意を決して師匠に聞いた。
「こいつも、ウチに住むって話なんですか」
師匠はちょっと驚いたような顔をして、それからオレの考えを量るように言った。
「どうしてそう思った」
「いや、そもそもにして、師匠が呼ばれた理由ってのが……。ケンの親父の愚痴を聞くだけって、それこそ電話でいいでしょう。よっぽど電話じゃ話しにくいことじゃないと……」
ケンは、「はは」と笑った。痛々しい笑い方だった。
「つまり、親父はオレをここに捨てるつもりであんたを……ゴウケンセンセイ、だっけ、あんたを呼んだんだな」
ケンの言葉に、空気が凍った。ケンはそれをまったく気にしてないような風で、さらに続ける。
「わかってる。オレが手に負えないぐらいのクソガキになってんのは……。親父はただでさえお袋のことで参ってんのに、オレのことでまで悩みたくはねえだろ。……それぐらいのこと、わかってんのに。わかってんのに暴れてるんだから、そりゃ、捨てられたって世話ねえよ」
自分を笑うようなその言い方は、自分を傷つけるような言い方でしか無くて、なにも言えなくなる。ケンは自分が持ってきたボストンバッグを軽く叩いた。
「どうせ荷物は全部ここにある」
それから、据わった目で言った。
「せいぜいよろしく頼むぜ、センパイ共」
その日の朝と昼はあっという間に説明だけで過ぎてしまった。無駄に広い敷地内を行ったり来たりし、どこになにがあるか聞かせた。額から汗がしたたり落ちる中、草木がぼうぼうに生い茂る中をぬけて小川に行き、帰り道で「家事は当番だからな」と言うと不満そうな顔を見せた。そうしている間も、ケンはどこかあきらめたような目のままで、オレはその様子になにも言うことが出来なかった。
これからこいつの兄弟子になるっていうのに、情けない。でも実際、なにをしてやればいいんだ? なにを言えばいい? 「オレにもその痛みはわかる」ってか?
……そんなの、うすっぺらいにもほどがある。似たようなことではあっても、絶対にその痛みは同じではないのだから。
オレがもんもんとしていると、ふとした瞬間にケンが口を開いた。オレではなく、リュウのほうを向いて。
「お前は強いのかよ。……途中、ごちゃごちゃと口を挟んできてたけどよ」
リュウはいきなり問われても動じず、当たり前のように言った。
「いや。まだまだだな。師匠や父さんはもちろん、兄さんにもまだ敵わない」
それはシンプルな答えだったが、裏に込めた意味はすぐに理解出来た。ようは、「それ以外の人間に負けてやる気は無い」って、それだけのことだ。意外にも強気なやつだった……なんて軽く考えていると、ケンが歯噛みしているのが見えてひやりとした。おい、ほんとうにこいつとオレたちはやっていけるのだろうか……。
夕方になって、オレは夕食の支度があるので台所に居た。ケンにも手伝わせようかと思ったが、あいつはこの辺を自分で見て回りたいってことでリュウをついて行かせた。
師匠はめずらしく夕食を手伝う気があるようで、食材の在庫を見ている。戸棚を開けて、いくつか野菜を手に取り、今度は細い白い麺が入った箱を手にとって頷いた。
「うむ。今日は冷や麦だ。煮物も付けてやるか」
「いやちょっと待って下さいよ。そこにオレが買ってきたパスタの麺があるでしょう。今日こそは食べましょうよ。冷製パスタってやつを」
「……わしだってパスタ自体は嫌いではないが、お前は茹で時間が雑だからな……。わしも冷や麦かそうめんぐらいしか茹でられんし、仕方がなかろう。付け合わせか? わしは煮るのは得意だから、それで勘弁してくれ」
「ぐっ、オレは別に煮物が嫌とかじゃなくて……パスタがいい加減食べたいわけで、それとオレの料理が雑みたいに言ってますけど、焼くとか炒めるとか揚げるとか、そのほうがやりやすいんですって……ん?」
そんな言い合いをしていると、外で、なんだか声がするのに気がついた。なんか、言い争い……のような? って、外にはあの二人しかいねえじゃねえか!
あわてて外の様子を見に行くと、拳を打ち合っている真っ最中だった。リュウがケンの拳を受け止め、相手がぐらついたところに真っ正面から叩きにかかる。
「波動拳!」
波動が、ケンの胴体に炸裂した。思いっ……きり、本気だった。オレは内心嘘だろ……? と思いながら二人の間に割って入る。
「リュウ! ……お前、オレには手加減だかなんだか言っといて、お前のほうが下手じゃねえか!」
言われたリュウは呆然として、自分の手を見ていた。自分のやったことが信じられないっていうように。
と、後ろで地面をなにかでひっかく音がした。振り向くと、倒れたケンが無理矢理膝を立て、起き上がろうとしていた。おいおい、勘弁してくれよ……! オレは背を向けたままリュウに問うた。
「ちょっと待てって、なあ! リュウ、なんでこんなことになってんだよ!」
「オレのせいだ。……でも、悪いとは思ってない」
「んな!?」
そこで、ケンがよろめきながらも立ち上がる。忌々しそうに、リュウを見た。
「はっ、オレが言ったんだよ。オレに勝つ気があるなら、腕を見せてみろってよ……う、っ痛ェ……」
リュウがそんなアオリに乗ったってのか。振り向くと、リュウはオレの疑問に答えるようにうなずいた。
「兄さんと同じく、まんまと乗せられた。……応えないほうが、失礼だと思ったから」
付け足して言ったことは明らかに言い訳なんだが、それでも、本心からだと思った。でなかったら、なんで勝負に勝ったリュウのほうまであんなにも痛そうなツラしなくちゃならねえんだよ。
そうしていると、ケンが膝をついた。そのまま、砂利が混ざって、ところどころに背の低い雑草が生えた地面に仰向けになる。助け起こそうとすると、手を払われた。
「てめえ、いちいちうっとうしいんだよ」
「お前……、なんで、そんなんなんだよ」
「うるせえ」
それから、ケンは天を仰いだ。地平線から青く染まり始めた、浅く赤く色づく空を見上げていた。なにかを強く恨むように、薄い色で光る、昇り始めた月に向かって吠えた。
「あーっ! 強くなりてえ!」
それは、魂からの叫びだった。オレにはそんなように聞こえた。
「誰にも負けねえぐらい、誰にも縛られねえぐらい、誰にも利用されないぐらいッ……! オレは、オレの意思で、オレの道を生きるって……。クッソ、こんなとこで負けてる場合かよ……!」
それから、ケンは手で顔を覆った。オレは目をそらす。泣き顔を見られたい男なんて、この世に居るもんか。
すすり泣く声が、静かに聞こえてくる。
頭上の空が、夕焼けの空が、オレたちの姿に長い影を作っていた……。
荒れまくりのやんちゃボーイが来ました。どうしてこうなった? それはそのうちわかります。