『おはようございますわ』
寝台の縁に影が落ちた。窓の外はまだ夜の色で、カーテンの隙間から滲む薄明かりが床に細い筋を引いている。部屋の冷えが皮膚にまとわりつく中で、あなたの呼吸だけが、一定の温度で続いていた。
『ん……』
布団の山がわずかに沈み、擦れる音が遅れて鳴る。眠りの底から浮かび上がる気配が、布越しにこちらへ伝わってきた。
『うふふ。まだ眠いかしら』
声を落とすと、言葉が暗がりに吸われる。わたくしは覗き込む角度を少し変え、あなたの睫毛の影と、頬の輪郭を探した。
『……クリス……?』
名前が、寝言の続きをほどくように転がる。瞼の下で視線が迷い、やっとこちらの位置に落ち着くまで、数拍の間があった。
『ええ』
肯定だけを置く。余計な言葉を足せば、夜明け前の静けさが割れてしまいそうで、息を小さく整えた。
『……今、何時だ』
あなたは起き上がらない。天井の暗がりへ目を向けたまま、現実の輪郭を確かめるように訊いてくる。声は掠れ、喉に眠気が残っていた。
『たしか、四時くらいだったかしら』
小さな時計の針を思い出しながら答える。正確さより、この時間の重さだけが必要だった。夜が深いほど、ここに来た衝動が薄まらない。
『……こんな時間に何の用だ』
突き放す言い方なのに、刃が立たない。眠気の奥に、諦めの柔らかさが混じっていて、それがわたくしの背を押す。
『どうしても、あなたの顔が見たくなったの』
言った瞬間、喉が熱くなる。言い訳を並べたら、この「どうしても」が嘘になる気がして、言葉を削った。
『……どうしようもないな。お前は』
吐息が小さく落ちる。怒りではない、という落ち方。だからこそ、わたくしの足元が軽くなるのが悔しい。
『かわいい寝顔も見れたし、少し、お話しましょうか』
軽口の形で差し出す。冷えた部屋の中で、その軽さだけが浮かないように、声の温度を抑えた。
わたくしは、ゆっくりと体を寝台へ潜り込ませる。シーツが擦れ、古いばねが小さく鳴った。寝台がわたくしの重みで沈み、その沈みがあなたのほうへゆっくり寄っていく。布越しに体温の境界が近づき、冷たさの奥に、熱があるのがはっきりする。
『……』
あなたは何も言わない。身を引く動きもしない。拒むなら布を跳ねる音がするはずなのに、呼吸だけが一拍浅くなった。
『あら?今日は拒まないのね?』
からかう形を借りて確かめる。顔の位置を探るように少し近づくと、吐息が頬に触れた。そこだけ柔らかく、部屋の冷えと切り離される。
『……触れないのか。いつものように』
手は動かない。動かないまま、言葉だけがこちらを試す。拒む代わりに、わたくしの出方を測っている。
『わたくしに触れられると、あなたは苦しむでしょう?』
手袋の指先で、シーツの皺をゆっくりなぞる。布のざらつきが指腹に返り、触れることの代償が、先に胸の内側へ沈む。
『……私が触れたところで、お前の傷は埋まらない。それどころか、広がっていく』
声が低い。近いのに、一本の線が引かれたみたいに、触れてはいけない場所ができる。わたくしはその線の向こうに手を伸ばしたまま、止まれない。
『なら……なぜわたくしを受け止めようと腕が動いたの?』
暗がりでも見逃さなかった。ほんの僅か、あなたの腕がこちらへ寄ろうとした、その途中の気配。触れないのに、触れたのと同じだけ残る。
『私が止めなければ、お前は……どこまでも私に縋るだろう。それがどれほど、お前自身を苦しめることになるのか』
言葉の途中で息が詰まる。止める理由が「わたくしのため」であるほど、胸の奥が疼く。守るという形でしか触れられない、不器用さが近くにある。
『……あなたがそう言うたびに、わたくしはより一層あなたに触れたくなるわ』
喉が熱い。理屈が刃なら、わたくしの欲求は熱で押し返してくる。止められるほど、今の距離が薄く感じる。
『ダメだ。これ以上お前を、私のせいで苦しめるわけには行かない。』
硬い声。拒絶の言葉なのに、あなたは離れない。腕は動かないまま、体温だけがここにある。
『……苦められてもいいわ。あなたに触れられるなら』
言い切った瞬間、胸の奥の揺れが静かに固まる。代償の重さを知ったまま、それでも前へ出る、冷たい決まり方だった。
『お前は……間違えている。私はお前に執着されるほど、正しくはない。強くもない』
自分を削る言葉が、皮膚の内側へ入ってくる。近いのに届かない、という感覚が濃くなる。抱かれていないのに、胸の奥だけが圧迫されていく。
『いいえ。あなたはそう言って、わたくしのことを守ろうとしている。自分がどれほど傷ついているのか、隠しながら』
指先を握り込む。手袋の革が小さくきしみ、その音が暗がりに落ちる。触れないままでも、言葉だけは奥へ届いてほしい。
『あなたはずっとそうよ。人を守るために、傷ついて、苦しんで、それでも手を差し伸べることを止められない』
褒めるためではない。あなたの手が止まらないことを、わたくしだけは見ている、と伝えたい。視線を逸らさずに置く。
『やめてくれ。私は結局、誰も救えていない。救えたはずのお前すらも』
声が僅かに震える。否定が強いほど、そこに触れてはいけない傷がある。だからこそ、触れてしまいたくなる。
『……苦しいの。あなたがそうやって罪を飲み込んでいるのを見ていると、わたくしの罪まであなたに背負わせているように思えて』
息が浅くなる。言葉にした瞬間、逃げ道が消える。見ているだけで同じ重さが沈んでくる、その感覚を、ここで切り離したくなかった。
『それが私の責任だろう。この罪を忘れないことが、私に残された唯一の贖罪の道だ』
背中を丸めない声。折れない姿勢のまま、自分を縛り直す音がする。鎖が、肌の内側で締まっていくみたいに静かだ。
『……見ていられないわ。どうしてそんなに傷ついているのに、さらに自分を追い詰めていくの』
言葉が先に出る。喉の奥がひりつき、息が少し荒れる。止めたいのに止められない、その焦りだけが形になる。
『……これは私の問題だ。お前には関係ない』
突き放す言葉なのに、あなたの体温はまだここにある。「関係ない」と言いながら、同じ寝台の沈みに留まっている。
『もう……堪えなくていいかしら。そこまで言われて我慢できるほど、わたくしは痛みの分からない人間じゃないの』
自分の手を見て、またあなたを見る。触れずに耐える、という選択が、指先からほどけて落ちていく。ここまで来て、戻れる気がしなかった。
『……ここで私が拒んだら、お前はどうする』
問いは刃ではなく、確認だった。拒むなら、今ここで。あなたの声が、その最後の境界を示す。
『止めるなら今しかないわ。ほら。止めていいのよ』
わたくしは言い切る。止めてほしい気持ちと、止めないでほしい気持ちが同じ場所で脈打つ。それでも、今を曖昧にしたくない。
『……それでしかお前が呼吸ができないなら、好きにすればいい』
許可が落ちる。条件付きの言葉なのに、そこだけが優しい。胸の奥に、遅れて息が入ってくる。
『レトロ……』
名前を呼ぶと、喉が詰まる。言葉が溶けて、涙の準備だけが先に整ってしまう。
『加減しろ。そんなに力を込めたら、腕を痛める』
声が近い。受け止めながら、危なさだけを止めようとしている。あなたの優しさはいつも、こういう形で出てくる。
『嫌よ。このままあなたと溶け合って……ひとつになりたい』
腕に力が入る。布が軋み、革が鳴る。欲しいのは言葉ではなく、体温と圧で、輪郭が曖昧になるほどの確かさだった。
『……泣くな。私はどこにも行かない』
短い断言。胸の奥の恐怖が、わずかに削れる。削れたぶん、涙が増えてしまうのが分かる。怖い、と口に出す前に、もう濡れていた。
レトロはわたくしの涙を手で拭いながら答えた。
手袋の甲が頬に当たり、目尻をすくう。布越しの摩擦が濡れた皮膚にわずかに引っかかり、その引っかかりだけが、今ここに触れられている現実を残した。
拭われているのに、涙が増え続ける。手袋が徐々に濡れていく。
吸われて重くなる布が、頬に貼りつく。冷たさが一瞬走って、すぐに掌の熱が上書きする。濡れがあなたの手へ移っていくのが見えて、胸の奥がほどける。
『レトロ……わたくし……』
言いたいことはあるのに、言葉の順番が崩れる。息だけが先に漏れ、声がかすれる。
『何も言わなくていい』
拭う動きが止まる。濡れた手袋がそのまま頬に留まり、離れない。言葉より先に、そこに留まる意思が触れている。
『……もっと……強く抱いて……』
声が掠れる。頼みながら、恥ずかしさよりも、失う怖さのほうが勝ってしまう。
『……離さないで。もう二度と』
願いは小さくなる。小さくなるほど重くなる。喉の奥が締まり、視界の端が滲んだ。
◇
窓の外は、もう夜ではない。薄い陽がカーテンを透かし、布の織り目をはっきり浮かび上がらせている。寝台の軋みも、湿った薬の匂いも、あの夜ほど強くない。代わりに、洗い立ての布の匂いと、乾いた朝の空気がある。
あなたの腕の重みは、いまや「珍しい出来事」ではなくなっていた。けれど、それが当然になったぶん、ふとした瞬間に、当然が崩れる想像だけが鋭くなる。わたくしは、その想像に追い抜かれないように、あなたの呼吸の温度へ意識を戻す。
『なんていうこともあったわね』
わたくしは、あなたの胸元に頬を寄せたまま言う。声にすると、記憶が輪郭を持ちすぎる。だから、軽さのふりを混ぜる。
『もういいだろう。過ぎたことだ』
あなたは視線を動かさない。言葉だけで切り離そうとする癖は、まだ残っている。けれど、腕は緩まない。拒絶の名残より、手放さない意思のほうが先に触れてくる。
『こんなに甘えんぼうになっちゃって。あの時のあなたが見たら、何と言うかしらね』
わたくしは笑う形を作る。笑うたび、胸の奥に小さな棘が一本だけ残る。あの夜のあなたの声と、今のあなたの熱が、同じ場所で重なってしまうから。
『……もう、離してもいいだろうか』
言いながら、あなたは本当に離さない。試す響きより、確かめる響きのほうが近い。離すべきだと知っている人が、離さない理由を探している声。
『だめよ。ずっとそうしていて』
即答する。迷いが出る前に、先に口が動く。布の間に挟まれたあなたの体温を、わたくしが緩めたくない。
『……今はこうして好きなだけ触れ合えているけど。今ごろ、もう二度と姿さえ見えなくなっていた可能性だってあるのよ』
言い終えてから、喉が少しだけひりつく。季節がひとつ変わるだけで、ありえた未来のほうが現実味を持つ。触れ合う時間が増えたからこそ、「失う」が具体になる。
『触れれば苦しむというのは、今だって同じだ。私たちの罪は消えない』
あなたの声は、以前ほど鋭くない。だから余計に刺さる。柔らかいまま、戻れない場所を指し示す言葉。わたくしはあなたの服を握り直し、布の鳴る小さな音で、今ここにいることを確かめる。
『だからこそよ。私はあなたにこうして触れて、罪の形がずっとそこにあると感じ続けるの』
触れ合いが慰めに変わりきってしまわないように。温度に溶けて輪郭が消えないように。言葉は穏やかでも、指先にはわずかに力が入る。
『わたくしの形をあなたが覚えるまで、離さないわ。その痛みと苦しみを、あなたが覚えるまで』
「覚えるまで」と言うたび、期限みたいで、誓いみたいで、胸の奥が少しだけ締まる。けれど、この言い方はわたくしにとって、永遠より確かな留め具だった。
『……忘れない。私はお前のことを手放せない。もう二度と』
あなたが言い切る。言い切ったあと、呼吸が一拍だけ深くなる。わたくしは返事をしない。代わりに、手袋越しに伝わる布の重みと、あなたの体温の境目を、もう一度だけ確かめる。
朝の冷たさが布に残っていても、あなたの熱がゆっくり押し返していく。その速度を覚えている限り、手放したくない、という言葉は、ただの願いではなくなる。